かぶ

彼女の家庭事情 - 03

「――は?」
「え……?」
 情けないけれど、言われた言葉の意味を理解するまで、僕にしては致命的なくらい時間がかかってしまった。
「えと、あの、それはつまり……」
「君たちのような子供を前にこんな事を言うのもどうかとは思うけれど、この際だし話しておこうか」
 僕が言わんとした内容をなんとなくでも理解してくれたのだろう。彼は曖昧に笑って、これまで僕もロビンも知り得なかった物語を教えてくれた。
「僕がローナと知り合ったのはカレッジでの事だ。専攻も違えば趣味も違って、どうして彼女が僕に興味を持ったのか、正直わからなかった。ある日突然デートに誘われて、断る理由もないから一緒に出かけるようになって、気がついたらいつの間にか付き合ってることになってたんだ。――僕は彼女に好意を持ってはいたけれど、正直、彼女が僕に本気だなんて思ってなかった。だって、付き合い始める前から彼女には本命がいるって噂だったからね。僕は体のいい当て馬なんだって知ってた。ただその相手にはずっと付き合ってる女性がいたし、大学を卒業したら結婚するのが決まってもいたから、ローナの想いは絶望的だったんだ。きっとそれで自棄になって、少しでも相手の気を引けたらいいと最後の賭けのようにして僕と付き合い始めたんだと思う」
 呆然と話を聞く僕たちに軽く肩を竦めて見せた彼は、更に話を続けた。
「卒業後の進路は、僕の方がが先に決まったんだ。教授の紹介もあって、今の会社にすんなりとね。対して彼女は苦戦していたよ。だけど最終的に、彼女はそのままボストンに残ることになった。けれど、就職先が決まったお祝いのディナーの席で告げられたんだ。住む場所も離れるし、そもそも自分を愛してくれない人とずっと一緒にいるなんて無理だって。だから別れましょうと。なんとなくその結末は見えていたから、僕は頷いた。だけどそれが駄目だったみたいで、その日からまったく音沙汰がなくなってしまった。結局次に連絡を受けたのは……ああ、もう一年になるのか。ロビン、君が僕に会いたがっていると告げる電話だった」
 淡々と語られる物語に、僕はなぜか頭痛を覚えた。それはどうやらロビンも同様、いや、それ以上だったようで、あまり可愛らしくない顔つきになっていた。
「じゃあ、何。あの人、あたしの事、父さんに教えてすらなかったの?」
「……風の便りで彼女が子供を生んだらしい、と聞いていたよ。だけどまさか僕の子供だとは思ってなかった。まあ、卒業してから何年も後の話だしね」
 あっさりと返す彼に、僕は思わず訊ねていた。
「あの、失礼ですけど、疑ったりしなかったんですか? その、ロビンの事……」
「それはなかったな。なんだかんだいって、彼女はそういったところで嘘を吐くような人ではないからね。計算も合ったし、彼女が僕の子だと言うのならきっとそうなんだろうと思って会う事にしたんだ。そしたら従姉妹の幼い頃にそっくりな君がいて、ああ本当に僕の子供なんだなって実感した」
 過去を懐かしむ顔で微笑む彼は――うん、確かにロビンの面影がある。いや、ロビンに彼の面影がある、と言うのが正しいのだろうか。
「じゃあ、一緒に暮らすって決めたのは……? それも、ママが何か言ったの?」
「一応、僕から申し出たよ。今になってではあるけれど、少しでも父親らしいことをしたいから、君たちさえよければ一緒に住まないかって。そうしたらローナから、きちんと形も整えたいと言い出してきたんだ。だから結婚した。……ほんの数ヶ月で出て行かれるとは、さすがにその時は思っていなかったけれどね」
 うん、それはそうだろう。結婚してほしいって言った側が数ヶ月で愛想を尽かすとか……ローナさんは一体何をしたかったんだろう?
 なんて内心で首を傾げていると、隣から獰猛な唸り声が聞こえてきた。
「……ロビン?」
「あのクソアマ、そういう魂胆か……!」
 歯軋り交じりの言葉に、僕はロビンのお父さんと一瞬顔を見合わせてしまう。
「ちょ、あの、ロビン?」
「父さん、一つ訊くけど、あたしと初めて会った頃、あの人がリストラの危機にあったって知ってた?」
「リストラ? いや、聞いてないけど……」
「じゃあ、ミスター・オルソンって名前は聞いた事ある? ママのボストンでの知り合いなんだけど」
「……いや、ローナからはないかな。顧客や知り合いには何人かいないこともないけれど、同一人物かはわからない」
 記憶を辿るように視線を落とし、思考を巡らせてから慎重に言葉を返す。
「あたしもフルネームは覚えてないから言いにくいけど、元々ママの顧客の一人で、お互いに色目を使ってた間柄って言ったらわかりやすいかな。付き合ってはなかったけど、食事くらいはしてたはず。でもアチラさんに奥さんがいたし、こっちもあたしがいたから色々難しくてさ。そこに仕事でヘマして立場が危うくなったのが重なって、かなりストレス貯めてたんだよね、あの時期」
 深々とため息を吐くロビンを、僕もロビンのお父さんも目を丸くしてただ見つめるしかできなかった。
「そのあたりで、あたしが偶然父さんの写真を見つけたんだ。本棚の後ろに物を落としちゃって、それを取ろうとしたらそこにあってさ。それが父さんだとまでは流石にわからなかったけど、ママも写ってたし、日付からして昔の恋人だろうって思って訊いてみたら『ああ、それ、あんたの父親よ』って」
「え、じゃあロビン、それまでお父さんの顔知らなかったの?」
「うん。写真なんか残してないってずっと言われてたから。実際、あのヒトもそれ見てびっくりしてたから、本気で全部処分でもしたつもりだったんじゃないかな」
 思わず訊ねた僕に、ロビンがあっさり頷く。本人を前にしてなんてことだとこっそりロビンのお父さんの様子を窺ってみたけれど、彼は彼で困ったような顔で苦笑しているだけだった。
「その様子から話しちゃ駄目なわけじゃないってわかったから、訊いたの。どんな人だったのかって。そしたらすんごい変な顔になって黙り込んじゃってさ……。『あんた、父親の事なんか知りたかったの?』とか言われたから『自分の父親のこと知りたくないはずないだろ!』て返した。そこからこう、色々発展して、ほとんど怒鳴り合いになってさ、最後には『そんなに知りたいなら勝手に会いに行けばいいじゃない!』『会いに行けって連絡先知らねえよ! つかクソ野郎じゃねえならもっと前に会わせとけよ!』みたいな感じで」
「……ロビン、言いたい事は色々あるけどとりあえずクソ野郎は駄目。ペナルティ一つね」
「あ、ごめん。あとでちゃんと払うよ」
 しまった、という顔になるロビンに、僕はまったくもう、と息を吐く。
 ごめんごめんと舌を出して笑いつつ、彼女は肩を竦めて言葉を続けた。
「結局コレがきっかけになってママは父さんに連絡を取って、会う事になって、あとは二人も知っての通りの展開になったわけ。……あのヒトがあんな大人しかったのは、父さんの話からして多少なりと罪悪感あったからじゃないかな。あと追い出されたらその先どうなるかわからなかったからってのもあるかも」
「いや、その、僕が言うことじゃないけれど、流石にローナもそこまでは……」
「父さん、それ、本気で言ってる? 本気でそう思ってる?」
 元恋人で多分元妻である女性をその娘がけちょんけちょんに貶すのがショックだったのか、ロビンのお父さんが助け舟を出そうとする。けれどロビンの冷静な切り返しに、情けない顔でははは、と笑いを漏らした。
「それでもね、一応、彼女は僕とやっていこうと努力はしてくれていたんだよ。ただ、僕が彼女が求めるのに応えられなかっただけで……」
「それはつまり、あなたがローナさんを愛していなかったということですか?」
「極論を言えば、そうなるかな。僕と彼女は違いすぎて、いつも圧倒されるしかできなかった。僕には彼女を受け止められるだけの器がなかったんだ」
 哀しげに寂しげに微笑む彼の顔には、やっぱり諦めの色が濃い。
「――本当に彼女に対して愛情がまったくなかったのなら、こんなにも何もかもを受け入れるなんてできませんよ。他に想う人がいるとわかっていて恋人になることも、突然現れた娘を受け入れてその母親と結婚することも、その母親が突然去ったあと残された娘を世話することも、普通ならできない」
 どんなに哀しい想いを抱えていても、父さんを強く愛していたから母さんは耐えていた。今の彼のような笑みを浮かべて、その状況をただただ受け入れていた。そうすることで与えられる何かがあるのなら、それだけでも手に入れたいと願って。
「欲しい物があるなら、言葉にしてください。そうしないとわかりません。ただ待ってるだけじゃ与えられません。あなたは、本当にいいんですか?」
「…………」
「ロビンがローナさんと一緒に行ってしまっても、本当にいいんですか? 僕は嫌です。ロビンをボストンに行かせるぐらいなら、強引な手段を使ってでもロビンをうちの子に――」
「駄目だよ、あげない。ロビンは僕の娘だ! まだちゃんと父親にもなれていないのに、手放すなんて嫌だ!」
 まるで駄々っ子のような言葉だった。けれどそこに、彼の全てが表れていた。
「父さん……」
「ごめん、ロビン。僕は……本当に今更すぎるけれど、やっぱり君の父親でいたい。不甲斐ないし、家のことなんて何もできないけれど、それでも君と一緒にいたいよ」
 初めて見るむき出しの彼に、僕は一種の感動を覚えていた。ずっと隠していただけで、本当はこんなにも熱い人だったんだ。
 僕の隣では、ロビンがやっぱり初めて見る父親の一面に衝撃を受けていた。
 それが悪いものじゃない証拠に、彼女の頬がほんのりと色づいているし、僕の大好きな碧の目が潤んでいる。
 ――ほんの少し、お腹の奥がじりじりと焦げる。ロビンがそんな風に見つめるのは僕だけでいいのになんて、すごく身勝手なことを思ってしまう。
 だけど今はやきもちを焼いている場合じゃないと自分に言い聞かせて、僕はそっとロビンの背中に手を当てる。
「ほら、ロビン。行っておいで」
 はっとしたように僕を見て、ちょっと泣きそうになりながらこくんと頷いたロビンは、跳ねるようにして父親に飛びついた。
 その小さな身体を、ロビンのお父さんはどこか怯えるように、けれどしっかりと抱きしめた。