かぶ

Goodbye To You, My Love : Clive - 01

 重厚な樫でできた執務机から顔を上げたクライブ・サットンは、やたらと背の高い雇い主の背後にある窓の外へと視線を投げた。遠くで天を突いているのはバンカーズ・ヒルのオベリスク。この窓から眺めるのはもう何度目だろう、などと疑問に思う事自体が愚かだと言い切れる程に見慣れたそれに焦点が合うまで、いつもより心持ち時間がかかったような気がする。
 自分自身の視力に根拠なく自信を持っているわけじゃないが、それでもここ最近は目の疲れが酷い。正確に言うなら酷いのは目の霞みなのだが、その原因に視力の低下を含みたくないのにはわけがある。
 コンタクトレンズなんてものは邪道だと思うし、レーシック手術とやらは最先端過ぎて信用が置けない。ならば眼鏡をかければいいと本来ならばなるのだろうが、これも正直ごめんだ。
 実は以前、友人に付き合ってアイ・ショップに行った際にジョークのつもりであわせてみた事があるのだが、茶色の髪としっかりとした顎のラインが原因なのか、どこからどう見てもクラーク・ケントのようにしか見えず、その場にいた友人たちに盛大に笑われてしまったのだ。それ以来クライブは、意識的にプルーンの摂取量を増やす事で、視力維持のための無駄な努力を重ねている。
 ボストンの中心地から西へと車を一時間程走らせた郊外に位置するこの屋敷は、クライブの雇い主であるゲオルグ・フォン・フォルトナー上院議員の私邸だ。
 本来であれば各地を精力的に回っているはずの議院が平日のこの時間に自身のプライベートな書斎にいるのは、三週間後に妻であるエレオノール・フォン・フォルトナーの誕生日兼フォルトナー夫妻の結婚記念日が迫っているからだった。
 一般家庭とは違い、政財界に広く知己を抱える夫妻のために開かれるパーティは、五年毎に開かれる盛大なものに比べると規模こそは小さいが、それでも各界の著名人がこの屋敷に集まってくる事が確定している。すでに最重要項目の一つである警備に関する懸案は最終稿まで出来上がっているが、招待客の対応であったり、催しの内容などのこまごまとした部分がまだ決まっていない。こういった事はもしかすると国家の将来を憂えるよりも多くの頭痛の種かも知れない、とは彼の雇い主の言葉であり、クライブはその言葉に全面的に賛成だった。
 肺の中で澱む呼気を吐き出し、ずっと伸ばしていた腰をゆっくりと伸ばす。軽く伸びをして首を回すと同時に連続して骨が鳴り、思わず動きを止める。
「クライブ……やっぱりあなた、疲れが取れてないんじゃない?」
 これだからあなたの自己申告は信用がならないのよ、と呟いたのはジョージーナ・ニコライ――通称ジーナだ。女性であれば誰もが羨むようなゴージャスな金髪と、秀でた額と意志の強そうな眉の下にきらりと輝くアイスブルーの瞳が実に印象的で、アメリカの平均からすると少しばかりスリムな身体を女性らしいパール・ピンクのブラウスとグレーのタイトスカートで包んでいる。背丈はヒールの付いた靴を履いてようやく、百八十を少し越えるクライブの丁度鼻先に頭の天辺が届く程度で、底のぺたんとした靴を履けば、顎を乗せるのにぴったりの高さになる。そんな彼女は、彼や彼の雇い主が苦手とする事項の世話をするために雇われている女性であり、現在クライブが全身全霊をかけて恋している相手でもある。
 丁寧に整えられた眉をしかめて見上げてくる恋人があまりに愛しくて、たった今まで全身に重く圧し掛かっていた疲労感が一気に軽くなるようだ。
 ジョージーナが彼の体調を気にするのも当然だ。何しろ昨夜のクライブは、ゲオルグについて一週間の遊説から戻ってきたばかりだというのに、久しぶりに会えた恋人を自分のフラットへと強引に連れ帰り、会えなかった間の寂しさを埋める事に一晩を費やしたのだから。
 シャワーを浴びて身体の汚れを落としたクライブが、室内着に着替えてから夕食の準備が整うのを待つ短い間に二人がけのソファにもたれて転寝していたのを見つけたせいで、ジョージーナは互いを確かめ合うよりも休息を優先するべきではないかと何度も口にした。それが自分を心配してくれているためだとわかるからこそ愛しさが募ってしまい、少しばかり無理をしてしまったという自覚はある。
 だからこうして窘められるのは正しく、そして実に嬉しい事だ。
 滑らかな頬に触れたがっている指をきゅっと握り、クライブは幽かな笑みを口元に浮かべる。
「大丈夫だよ、ジーナ。どちらかといえば、最近身体を動かす機会が少ないせいで鈍ってるってのが正しいかな。身体がやけに重く感じるから、もしかしたら体重が増えてるのかもしれない」
「あら、そう? ぜんぜんそんな風には見えないけれど……もしかして、このあたりとかについてるのかしら?」
 器用に片方の眉だけを跳ね上げたジョージーナは、ローズピンクの唇をからかいの形に歪めるといたずらな指先でクライブのわき腹にある、実にささやかな脂肪層を摘む。
「ジーナ!?」
「あら、本当だわ。以前抓んだ時より二ミリほどぶ厚くなってるかも。……嫌ね。議員がこんなにも健康的な方なのに、その秘書が不摂生しているだなんて、見た目的に悪すぎるもの。いかがでしょう、ゲオ。悪い事は言いませんから、今のうちにもっと若くて健康的で魅力的な女性秘書に乗り換えません?」
 まさにとってつけたようなしかめっ面で提案してくるジーナに合わせて、ゲオルグも重々しく頷きを返す。
「実に正論だ。やはり合衆国の上院議員たるもの、頭の中だけでなく見た目も秀逸な秘書を持つべきだからね。よし、クライブ。今からお前はジーナと役職を交換しなさい。そうすれば私も、この美しいお嬢さんと四六時中一緒にいる事ができる。――いや、待てよ。そうなると君が日中をこの屋敷で過ごす事になるのか。それはいけない。私は妻を、抑制力が薄れつつあるという向こう見ずな若造と二人きりにするつもりはないぞ」
「……ジョージーナにフォルトナー議員。そんなにコミックがしたいなら、演目リストに組み込みましょうか?」
 うんざりと疲れた様子で告げると、親子ほども歳の離れた二人は揃って顔を見合わせる。
「あら、それも面白いかもしれないわ。どうします、ゲオ。この際『上院議員とそのアシスタントによるスタンダップ・コメディ』という演目で場末のライブハウスに立ってみません? きっと票を無駄にしている人たちも、そんな面白い議員がいるのならと、投票所に列を成してくれますわ」
「それは素晴らしい。やはり私は君を雇った事に関して実に正しい判断を下したようだ。マネジメントにはそこにいる青年秘書に任せればいいから新たに人を雇う必要もないしな」
 うむと呟いたドイツ系アメリカ人は、正しく先祖の血を引いていると誰の目にも明らかな容貌のため、こんな風に真面目な顔を作られると、どこからどこまでが本気であり冗談なのか、とっさに判断できなくなってしまう。
「お尋ねしますが、もしかして僕の知らない間にミーティングは終わってたんですか? であれば僕は、明日の会議に必要な資料の作成が残っているので失礼したいのですが」
 あえて堅苦しい態度でそう臨めば、またしても示し合わせたように顔を見合わせた二人は、声を潜めて(もちろんクライブには聞こえる程度の声量で)言葉を交し合う。
「まったく、そこのクライブにも困ったものだ。頭の固さが町内会の長老並じゃないか」
「同感です。私、ドイツ系の方こそジョークが通じないと思っていたんですが、議員は全然そうじゃないですわよね?」
「まあ仕方がないだろう。そこにいるのは清教徒の末裔だからな。頭の固さはわれわれドイツ系の比じゃない」
「全部聞こえてますよ!」
「当たり前だ。聞こえるように話しているんだからな」
 飄々と返してくる上司にがっくりと肩を落とし、再び反論のため口を開けようとしたところで、軽やかな電子音が鳴り響いた。
「っ! ごめんなさい、私の電話です。少し失礼してもよろしいですか?」
 いつもなら仕事中は必ずサイレント・モードにしているはずだ。珍しい事もあると思いながら、二人から離れて書斎の片隅へと足早に向かうその背中を、クライブはうっとりと見送る。
 薄暗い室内においてもその存在感をはっきりと主張するゴージャスな金髪は、今は形のいい後頭部にきついシニョンに纏め上げられている。そのせいで淡いピンクのブラウスの襟元から、すっきりとした首筋が覗いている。まとめている髪を下ろした直後は癖がついているせいで、ただでさえゴージャスだというのに緩やかなウェーブがまるでライオンのたてがみのように彼女の顔を縁取ってその背中へと流れる。
 彼女の纏め髪を崩す許可を与えられたのは後にも先にもクライブ一人で、今後いかなる男にも、その特権を譲るつもりはない。
 なぜならジョージーナはクライブにとって、まさしくこの世でただ一人の『運命の女』なのだから。