かぶ

Goodbye To You, My Love : Mischa - 02

 あれは、いつだっただろうか。ようやく野暮ったさがなくなってきた、と思っていた頃だったから、ジョージーナが両親の元で働きはじめてから二ヶ月にも満たない時期だったはずだ。
 暇な時間が重なったからと一緒にダイニングでセイロン・ティを飲んで、たわいのないセレブのゴシップネタやおいしいレストランやお買い得ショッピング情報を互いに交換していたはずが、気がつけばミッシャからジョージーナへの恋愛相談のような形になっていた。
「つまり、その年上の彼氏が手を出してくれないのが寂しいって事?」
「寂しいって言うか、そもそも、彼女として扱うなら、キスの一つや二つ、してくれてもいいと思わない?」
 唇を尖らせて質問に質問を返したミッシャに、彼女は一見冷たく思える顔に柔らかな笑みを浮かべる。
 さすがに全然手を出してくれない相手にどうしようもなく焦がれているというのが悔しかったし、何よりその相手が二人共にとって身近な相手だと知られるのは恥ずかしかったので、誰なのかは気づかれないよう肝心の部分はぼかしながら、悩みを告げたのだ。
 初めて会った時には野暮ったいイメージの強かったジョージーナは、ミッシャの母親であるエレオノールの助言を受け、もともとのセンスのよさと飲み込みの速さで、一月と経たない内にどこに出て行っても恥ずかしくない洗練された物腰と身形を身につけた。そして両親共に口を揃えて褒めた頭の回転の速さや彼女の生来の性質であろう誠実さは、大人の女性へと変化を続ける少女にとって、見習うにふさわしいものだった。
 モデルでも食べていけるんじゃないだろうかと思うほどに整った顔を持ちながらも、彼女にはそれを鼻にかけるところはまったくなく、話しかければ気さくに反応を返してくれる。そんなジョージーナを、ミッシャは早くから姉のように慕うようになっていた。
 クリスマスから新年にかけて、父親の予定は寝る時間を除けば分どころか秒刻みじゃないかと思うぐらいに詰まっていて、それが故にクライブにも全然会えていなかった。最後のデートは一ヶ月ほど前に、忙しくて疲れているから無理だと返してくるクライブを必死で口説き落としてようやく、という有様だった。
 それでもいざデートとなれば、きちんとエスコートはしてくれる。お手本どおりと皮肉りたくなるくらい、完璧に。だけど、年に数えるほどしかデートをしないとはいえ、三年もそういった関係を続けているのだから、ほんの少しは進展を見せてもいいはずだ。
 そう思っての相談だったのだけれど、ジョージーナには別の意見があるようだった。しばらく考える顔になった後、どこか気恥ずかしげに視線を伏せながら、彼女は言葉を選び選び話しはじめた。
「私はほら、南部の田舎から出てきてるじゃない? それもあって、男の子との関係は結構慎重な方なの」
「それって……つまり、まだヴァージンって事?」
 恥ずかしげに告げられた言葉に、ミッシャは素直に驚きを表した。さすがに率直がすぎたのか、鼻の頭に皺を寄せたジョージーナは、それでもあっさりと頷いてみせた。
「はっきり言ってくれるわね。でも、ええ、そうよ。うちの両親ができちゃったでね、父が特に、母にもう少し社会経験させてやればよかった、なんて言ってるのを聞いて育ったから、余計に慎重になっちゃって。……まあ、身を任せてもいいと思える相手がいなかった、っていうのも事実なのだけれど」
「……私はもう、全然いいんだけどな……」
 自然にこぼれた呟きに、ジョージーナがまた小さく笑う。
「そうね。ミッシャみたいに、心も身体も捧げていいと思える相手がいれば、話は別でしょうね。だけど出会いなんて、どこに転がっているかわからないでしょう? うちの両親みたいに、子供の頃からずっと知っている相手と心を通わせるような事があれば、旅行に言った先でぶつかった相手が運命の人って事もあるかもしれない。仕事から帰ってきて遭遇した空き巣と恋に落ちる事が絶対無いとはいえないし」
「――さすがにそれはないと思う」
「あら、わからないわよ。事実は小説より奇なりって言うし、こんな出会いがないとも限らないじゃない。何よりミッシャ。あなただって、今はその彼氏に夢中だけれど、講義で隣に座った人と運命を感じる可能性もゼロじゃないでしょう?」
 そんな事、絶対にない。そうは思っても、ジョージーナをやり込めたいわけでもないので、それを口にするのは止めておく。
「まあ、出会いについてはこれくらいにして、ね。私もね、あなたと同じで、こっちに来るまでは、デートぐらいはするボーイフレンドもいるにはいたの。当然田舎だからみんな車を持ってるか、仲間内でシェアしていたりして、どこかに行くってなれば、当然ドライブデートになるわけよ。そうなると密室で二人じゃない? そうでなくてもその年齢の男の子たちって、考える事なんてみんな一緒でしょう? 雰囲気がそうなって、キスしたり抱き合ったりしていると、たとえどんなに女の子の方が前もって『そういうのはナシ』って伝えていても、どうしても我慢できなくなっちゃう」
 ほんのりと頬を紅潮させるジョージーナは初心な少女のようで、自分の方が年下のはずなのに、思わず可愛いとか思ってしまった。
「ああ……うん、そう、みたいだね」
「そこでね、女の子の方が強固に『ダメ』って言うなら、どんなに切羽詰っていても、男の子の方は基本的に止めざるを得なくなるじゃない。だけどミッシャ。あなたの場合はむしろ喜んで受け入れちゃうつもりでしょう?」
「うん」
 きっぱり頷くと、彼女は一瞬目を真ん丸に見開いた後、椅子の上で膝を抱えるようにして爆笑した。
「そんなに笑わなくてもいいじゃない!」
「ごめんなさい。馬鹿にしたとかじゃなくて、可愛いなって思って」
 ようやく笑いの発作が収まった彼女にクレームをつけると、こぼれてしまった涙を親指で拭いながら、まだ笑いの残った声で答えてきた。
「とにかく、ね。あなたがそんな風に両手を広げてウェルカムな態度を取るとね、あなたをどんなに大切にしたいと思っていても、衝動に流された時のストッパーがいないわけで」
「……つまり、うっかり押し倒したくないからクラ――その、彼は、私にキスもできないって事?」
「じゃ、ないのかなって思うの。まあ、本人から聞いたわけじゃないからわからないけどね」
 気弱に肩を竦めるジョージーナへ、冷めかけの紅茶を飲みながらふうん、と返す。
 そうこうする内に、ジョージーナの休憩時間が終わりに近づいたらしく、時計を見て顔をしかめるのがわかった。彼女がカップの中身を飲み干すのを待って、ミッシャは改めて問いかけた。
「だけど、本当に女性扱いしてもらえてないって場合は、どうしたらいいと思う? つまり、誘惑ほど強くないけど、妹とか後輩とかじゃないんだって伝えたい場合なんだけど」
「ううーん、それはまた、難しい問題ね……」
 すっと筆で書いたような柳眉を顰め、空っぽになったカップをキッチンへと持っていく。かちゃかちゃと音を立ててカップとソーサーを洗う間、彼女が自分への回答を考えているらしいという事は、その横顔から知れた。
「ミッシャ? 今日は大学は休みかい?」
 唐突にかけられた声に驚いて振り返った。食堂の入り口から、大きなバインダーを抱えたクライブが驚いたように覗き込んでいた。
「教授が体調不良って事で、講義がなくなったの。で、最近忙しくて帰ってこれてなかったから、みんなの顔でも見ようかなって思って」
 これは本当。新学期が始まったばかりの混乱はもう収まっていたけれど、その代わりに授業の内容がどんどんと濃くなってきていて、提出物や予習が恐ろしい程に溜まってきていたのだ。しかも今回は偶然とはいえグループワーク系が多かった事もあり、気ままに動く事ができなかった。おかげで家に帰る事が全然できず、家に帰れなければ当然クライブとも会えない。
 家族に会いたかったというのは嘘ではないが、一番会いたかったのは他の誰でもなく彼だ。その願いが叶った事が嬉しくて、だけどそうと知られるのはなんとなく悔しくて、できるだけそっけなくそう告げた。
「ああ、それでか。エレンが君が帰ってきてくれなくて寂しいと言ってたよ」
「そうなの? 電話はちゃんと入れてたのに……」
「電話と実際に会うのはまったく別物だよ」
 そんな事、言われるまでもなくわかっている。何より子供に言い聞かせるような顔でそんな事を言われて、ほんの少しむっとしてしまう。
 何か言い返してやろうかと思って口を開きかけた時、視界の端で、ジョージーナがキッチンから出てこようとしているのが見えた。
「誰かと思ったらクライブじゃない」
「ジーナ?」
 純粋に驚いた顔で振り返ったその横顔に喜色を認め、ミッシャは胸の奥に、ざらりとした何かが触れるのを感じた。
 本当に短い、そう、瞬き二回分にも満たない沈黙が二人の間に横たわる。ふ、と、ジョージーナの整った横顔にほのかな笑顔が灯ったかと思うと、彼女はミッシャを振り返った。
「ね、さっきの話、ね」
「え?」
「私なら、こうするわ」
 唐突な話題の転換に頭がついていかない。当然、先程までの会話を知らないクライブもきょとんとした顔で彼女を見つめる。
 何も持たないジョージーナの右手がゆっくりと持ち上がり、白い指先が淡いルージュに染まった唇に触れた。
 そのままダイニングの入り口へと――クライブへと向かった彼女は、すれ違いざま、唇に当てていた指を、クライブの唇に触れさせた。
「――っ!」
 電撃に打たれたように全身を振るわせたクライブは、何も言わず通り過ぎたジョージーナを振り返る。そのまま数歩歩みを進めた彼女は、ふと彼を振り返り、嫣然と微笑んで見せた。
 駄目だと、思った。
 否、駄目、なんかじゃない。負けたと、思った。
 そして同時に、自分の恋には望みがないのだと気づいてしまった。
 だって、見てしまったのだ。クライブが、指先越しに与えられたキスを惜しむように、そっと目を閉じて自分の唇に触れたのを。そしてその時の、切ないような、狂おしいそうな表情を。
 いい人だと、思っていた。姉がいればあんな人がいいと、憧れめいたものを持っていた。
 きっと彼女には、そんな意図などなかったはずだ。何しろ彼女はミッシャの想い人が誰なのかを知らなかったのだから。
 それでも、なぜ、という疑問が渦巻いた。彼にあんな顔をさせた彼女を、憎いとすら思ってしまった。
 ――そうしてこの日、この瞬間から、ミッシャにとってジョージーナは、永遠の恋敵となった。