かぶ

Goodbye To You, My Love : Mischa - 04

 しばらくの間、どちらも口を開く事もなく無言でお茶を飲む。カップの中身が半分にまで減った頃、ちらりとこちらを見た母は、ふわりとその表情を笑みに変える。
「……何?」
「なんでもない……とはいえないわね。――たくさん泣いたのね。目元がうさぎみたいになってるわ」
「やだ、そんなに酷い?」
 思わず片手で目元を押さえる。確かにしっとりと濡れたそこは熱をはらんでいて、触れるとひりつく感じがした。けれどそれはエレオノールが意味したところとは違っていたらしい。違うわよ、とまた微笑んで、その細い指先でそっと頬に触れてくる。
「酷いなんて思うわけないじゃない。私は可愛らしいと思っていたのに」
「えー……それは、さすがにないと思うのだけれど」
 す、と母の指先から逃れるように顔を逸らす。その横顔をじっと見つめる視線を感じながら、また紅茶をすする。
「そうね。でも、それでいいのよ。心の傷は、涙を流す事で浄化されて癒されるんだから」
「っ!」
 飲みかけていた紅茶が気道に入るかと思った。ぎりぎりでむせずに済んだミッシャは、非難の眼差しを母親へと向ける。それを真正面から受け止める彼女は、そんな反応も予想済みだとでも言いたげな顔をしている。
「あそこに、いたの?」
「いいえ。あなたがここに駆け込むのを聞いて、何があったのかと下に降りたの。ええ、そうね。ちゃんと聞いたわ。クライブはこの週末、金曜日の夜にはもう向こうに飛ぶつもりらしいわ。何が何でもジーナを連れて戻りますって、そう言い切ったわ」
「……そう」
 顔を上げる事ができない。下手な事をしたら、せっかく堰きとめられている涙がまた決壊してしまいそうだった。
「何が、駄目だったのかな。クライブも私の事、悪く思ってなかったはずなのに。どうしてなんだろう。私、何を間違えたのかな」
 無言でいるのも苦しくて、ずっと頭の中をぐるぐる回り続けていた疑問を口にする。そうして言葉にすれば、胸の中にあった情動が一気に表面化した。
「たくさんは望まなかったのに。クライブがあの人を好きなら、それでもいいって思ってたの。最後に私を選んでくれるなら、それでいいって。だって政治家になるなら私の方がいいじゃない。ほかにも彼を支えるための条件にあった人なんていくらでもいるけど、彼のそばにいるのは私だわ。その事を考えていたから、クライブだって私をデートに誘ってくれていたはずなのに。なのに……どうして? どうして私は選ばれないの? どうしてパパやママみたいになれなかったの?」
「ミッシャ……」
 驚いたようにエレオノールは振り返り、束の間口を閉ざす。そうしてテーブルへとカップを戻すと、彼女は身体ごと娘へと向き直った。
「ねえ、ミッシャ。人間関係というのはね、常に対等でなければ成り立たないものなの。たとえば友情でもそうだし、恋愛関係にしてもそうね。こちらが相手を好きだと思って、同じ比率で相手もこちらを好きだと思ってくれなければ、いずれどちらかが、もしくは両方ともが相手を重荷に感じてしまうものよ。利害関係で結びついてる人たちだってそう。必ずどこかで対等になれる部分があるの。私とパパは、そういう意味ではある意味理想的だったわ。私はあの人を尊敬しているし、あの人は私を尊重してくれている。それに、お互いがお互いに求める役割をとことんまで話し合ってもいたの。だから今のような関係を築けたわ」
「でも、私はクライブには何も求めてなかったわ。彼が求めてくれるなら何でも差し出すつもりでいたのに」
 納得がいかないと反論するミッシャに、エレオノールがゆっくりと頭を横に振る。
「それがきっと、クライブには重かったのよ。彼はこっちの世界に足を踏み入れようとしている割には、そうね、どう言えばいいのかしら。良くも悪くも普通、でしょう? 差し出されたものに対しては、同等のものを返さなければと考えてしまう人だもの。はじめはあなたの愛情を利用しようと考えていたみたいだけど、無理だろうなって私にはわかっていたわ。それに、ほら。他の人たちのように、何でもかんでも利用してやろうと強欲に貪欲に望むような人であれば、きっとあなたを選んでいた。……でも、そんなクライブはもうクライブじゃないわよね。きっとあなただって、彼がそんな人なら好きになってなかったんじゃないかしら」
 告げられた言葉に心臓がどくりと不規則に跳ねる。
 これまでずっと、自分がクライブにとって結婚相手として有利な存在であればいいと、そんな事ばかり考えていた。彼にとって将来的に役立てる人間であれば、いつか冷静になった時に選んでもらえるだろうと、それだけが頭にあった。
 だって、ミッシャはもう選んでいたのだから、あとは選ばれるのを待てばいいのだ。
 そう、思っていた。
 けれどその楽観的で自己中心的な考えの中には、クライブの感情や彼の考え方というものがまったくといっていい程含まれていなかった。
 まったく、なんて馬鹿なんだろう。ほんの少し冷静になって考えれば簡単にわかったはずの事なのに。自分が彼のどこに惹かれたのか、それを思い出すだけで、どんなに大きな思い違いをしていたのかに気づけたはずなのに。
 ――そうだ、本当に冷静になるべきはクライブではなくミッシャだったのだ。
「……だから、なの? だからクライブは、あの女性を選んだの?」
「それに答えられるのはクライブだけよ。もしかするとただ熱に浮かされているだけなのかもしれない。ある日突然冷静になって、あなたが望んだ道を選ぶのかもしれない。それは誰にも――クライブ本人にさえわからない事だわ。神様でさえ、知っているのかどうか。だけどミッシャ、今のあなたたちがお互いを選んでも、きっと上手くいかない。最低でも、あなたは不幸になるわ」
 議論の余地はないとばかりにはっきり言い切る母親に、ミッシャはわずかに形のいい眉をひそめる。
「どうしてそこまで言い切れるの?」
「だって、私はあなたよりもたくさんの人たちを見てきたもの」
 ふ、と柔らかに微笑んで、母は冷めつつある紅茶を一口啜る。その熱を求めているのか、それとも手の平の熱を移そうとしているのか、カップを両手で包み込んだまま、エレオノールは娘から視線を逸らしたまま言葉を続ける。
「あなたが言ったように、政界への足がかりとして強い後ろ盾を持つ女性と結婚した男性はたくさんいるわ。そして、長く結婚生活を続けているご夫婦も、ね。だけどそこに愛情と呼ばれるものが介在する事はほとんどないわ」
「で、でも、パパとママは……」
「私たちの間には、確かな友情があるわ。それに、結婚するよりもっと前からお互いを知っていた。恋をしても愛してもなかったけれど、私はゲオルグとは確かに友情と信頼を育めると知っていた。それは彼も同じ。私は彼の政治的な考え方やそれを基にした行動を理解できたし、政治家としても人としても尊敬していたわ。ゲオルグはゲオルグで、私がどんな人間で、どういった事が好きなのかを知ろうとしてくれたし、私の感情を尊重してくれたわ」
 ゆっくりと息を吐き、エレオノールは何事かを呟くと心を決めるように束の間目を閉じた。
「さっきも言ったように、私たちの間に、ロマンス小説などで語られるような情熱や愛情は存在しないわ。ゲオルグは、もしかするとそういう相手と巡り合う事がなかったのかもしれない。だけど私は……」
 何か懐かしいものを思い返す顔になる母親の顔を、ミッシャはじっと見つめる。
「私がゲオルグとの婚約を決めるきっかけになったのはね、愛した人を喪った事よ。彼も良い家の出だったけれど、だからこそ見えてしまった体制の汚いところを嫌って出て行ったの。そうしてジャーナリストになって、危険なところには率先して出て行く特派員になったわ」
 寂しげに微笑むエレオノールはミッシャの知る母とは違う顔をしていた。その事に心の中がもやもやするのを感じながらも、あえて何も言葉にはしなかった。
「その人は私よりもっと年上だったわ。だけど幼い頃からずっと懐いて、そして恋したの。彼は危険なところにばかり行っていたから、所帯も持ってなかった。そこに望みをかけて、私、いずれは彼のお嫁さんになりたいと思っていろいろがんばったの。世界情勢だって政治だって経済だって、彼と対等に話をするためならいくらでも勉強できた。どんなところにでもついていけるようにと自分自身を慣らすために、スラム街へのボランティアにだって自ら率先して向かった。家事ができないなんて言ってちゃ駄目だからって、両親には内緒でメイドやシェフに家の中の事ができるように教えてもらいもした。そうしてね、ようやく大人になって、あの人も私を見てくれるようになったのに……紛争地帯に行って、爆弾に当たって死んでしまった」
「ママ……!」
「そんな顔をしないで。いいの、もう、ちゃんと過去になっているから」
 きっと自分は青い顔をしているだろうとミッシャは頭の片隅で思う。なのにそんな自分を見て、母は優しく微笑むのだ。