かぶ

Goodbye To You, My Love : Eleonole - 05

「明日、帰ってくるそうだ」
 唐突に掛けられた声に、エレオノールは一瞬、彼は何の事を言っているのだろうかと首を傾げた。
 リビングで最近お気に入りのチリワインを供にくつろいでいた彼女は、夫が部屋に入ってきた事さえ気づいていなかった。ソファから見上げれば、つい先ほどまで通話に使っていたのだろう携帯電話を常に腰につけているケースへと戻しながらこちらへと向かってくるところだった。
「今、クライブから連絡があったんだ。飛行機の座席の関係で明日の朝には間に合わないが、夕方には着ける見込みらしい。夕食を済ませた後にこちらに寄りたいと言ってきた。――ジーナも、一緒だそうだ」
 ためらいの後付け加えられた言葉に、彼女は静かに息を呑んだ。ほんの少し迷って、それから言葉を口にする。
「そう。なら、クライブは説得に成功したのね」
「やっぱり君の言ったとおりになったね。まあ、ジーナに別れを告げられてからのあいつの様子を見ていれば簡単に予想はついた話だけれど」
 くすりと笑うその表情があまりにも穏やかで、エレオノールは再び息を呑む。まるで――そう、まるで、悩みが全て晴れてしまったかのようにすら見える。つまりはそういう事、なのだろうか。彼は心を決めたのだろうか。だとすればどんな風に?
 訊ねたいけれど下手に口を開くのも怖くて、彼女は不安に満ちた視線を上げる。それを受け止め、ゲオルグはわかっているよとでも言いたげな笑みを浮かべた。
「腹を決めたわけじゃない。複雑な心境に変わりもない。けれど一晩経ったおかげで多少は冷静さを取り戻せたし、何より開き直るだけの時間があったからね」
 軽く肩を竦めて隣へと許可を求めてから腰を下ろした夫へと、その真意を知りたいと探るような視線を向ける。求められているものが何なのか、正しく感じ取ったらしいゲオルグは、僅かに苦笑を滲ませつつも口を開いた。
「あれこれ悩んでも仕方がないと気づいたんだ。もし彼女が、アニーが今も生きていたのなら、きっとすぐにでも出向いて話を聞いていただろうね。彼女の夫となった人なら何か知っているかもしれないけれど、全ての話を知っているとは限らない。今更問い詰めたいと願ってもどうしようもないんだ。だったら一先ず状況を受け入れて、そこからどうするべきかを考えるしかない」
 違うかい? と、視線で問いかけてくる夫へと、エレオノールは力なく首を振った。実際、それ以外に返せる反応が思いつかなかった。
「そう結論付けたところでクライブからの連絡を受けたんだ。となればもう、役者を揃えた上で状況を整理して、今後について話し合う以外に何ができる? ――ああ、もちろんその場には君にもいてもらうよ。僕の考えが正しければ、現在の状況を一番理解していて、今後にまで考えを巡らせているのは君だけだろうからね」
「それは……どうかしら」
 思わずこぼれた不安に、夫はまた小さく笑う。
「おやおや。こんな君を見るのは、もしかすると僕が君にプロポーズした時以来かもしれないね」
「そう?」
「ああ。あの時も君はどうしようもなく戸惑っていた。僕がなぜ君に結婚を申し出たのかと。その理由がアレックスにあると知って、君の戸惑いは更に深まって……それでも最後には僕の申し出を受け入れると結論を出した。どんな意思が君の中で働いたのか、それを聞くつもりはないよ。それは君だけのものだ。だけど僕は、君が出してくれた結論に感謝したし、結婚してからだって君の判断にはいつも助けられている。今回の事も、まあ、状況が若干私的で複雑であるのは事実だけれど、そう大して違いはしない」
 だから大丈夫だ。そんな囁きと供にゲオルグの骨ばった指が優しく頬を撫で、肩へと流していた髪に触れる。その微かなぬくもりに、昨日以来強張っていた心が溶かされるのを感じた。

* * *

 きっと一日中落ち着かないままだろうと思っていたその日、エレオノールは意外な程普段どおりにすごせている自分に純粋な驚きを覚えた。
 どうしてこんなに動じていないのかと己を振り返ってようやく、ゲオルグが現状を受け入れ、動揺をまったく見せていないからだと気づく。
 それもこれも、自分たちが夫婦、だからだろうか。
 人生のパートナーである夫が腹を決めてどっしりと構えてくれているおかげで、ともすれば不安と緊張でパニックを起こしそうな心が、前夜の彼の様子を思い出すたびに不思議と凪いでいく。アレックスとの時はどうだっただろうかと考えるものの、こんなややこしい状況が起きた事はなかったし、二人で立ち向かわなければならなった困難はと言えば自分の両親の説得ぐらいで、こんなに胃がきりきりした事もない。――何しろあの時は、エレオノール自身がこれ以上にないくらい開き直っていたし、アレックスと一緒に暮らしているという幸福が、悲観的な考えや可能性を全て打ち消してくれていた。
 この差はやはり、伴侶に対する愛情なのだろうか。それとも情熱? 障害の有無や一緒にいた年月、夫婦なのか恋人なのかといった違いが次々と浮かんできて、思考が拡散していく。
 いけない。これではただの現実逃避だ。何の解決にもなっていないじゃない。
 そっと息を吐いて、蜂蜜をほんの少し落としたカモミールティーをそっと啜る。目の前のテーブルには月末に控えているパーティの準備に使っている資料が広げられている。意図するでもなく視線を上げて、そこに穏やかに微笑むジョージーナの姿を幻視した。
 思わず瞬けば、当然幻のジョージーナは姿を消す。その瞬間、改めてはっきりと気づかされた。どれほど彼女が、自分にとって大きな存在となっていたのかと。
「……やっぱり、駄目だわ。私には、あの子を手放せない。失いたくない……」
 彼女を受け入れると決めた当初、エレオノールが考えていたのは、万が一他者に彼女とゲオルグの関係を突き詰められた場合を考えて、たとえそうとは知らずにであっても彼女が父親の傍で働きはじめてからはきちんと面倒を見ていたのだと周囲が考えるように、などという打算の元、ジョージーナに対してきた。
 髪型やメイク、服装やマナーなど、本来であればわざわざエレオノールが率先して口出しをする必要がないものだったが、ゲオルグの娘として世間に知られた時に、誰もが慌てずにすむようにと考えての事だった。
 けれどエレオノールのする全てを素直に厚意として受け取るジョージーナが純粋な感謝を返してくれるたびに、被っていた偽善者の仮面にひびが入り、気がついた時には心から彼女をサポートしていた。そうして共にすごす時間が増えるにつれて、彼女の真の素性など関係なく、家族の一員として受け入れていた。
 こうしてパーティのプランニングをしている今だって、「ねえ、ジーナ。こんなアイディアはどうかしら?」と、無意識にも欠けている存在へと声をかけてしまいそうになる。一体いつの間に、こんなにもあの娘の事が大切になってしまったのだろう。こんなにも頼りにしてしまうようになったのだろう。
 ――もしかすると、ジョージーナの年齢が合致する事もあって無意識に、エレオノールが失ってしまったアレックスとの子供と重ねてしまっていたのかもしれない。
 アシスタントとしてだけでなく、友人として、家族として、ジョージーナを失わなければならないのであれば、全ての真実を世界に公表してしまおうかなどと利己的な考えすら浮かんでくる。それが、彼女にとって最も望まない結果である事など百も承知だというのに。
 それにしても、せっかく落ち着いて日を過ごしていたというのに、いざ考えがそちらに及んでしまうとすっかり落ち着きらしい落ち着きを失ってしまった。こうなっては、先ほどまでは有効だったゲオルグの姿ですら、望むほどの影響を与えてはくれない。
「駄目ね。今日はやっぱり、何も手に付かないわ」
 そっと頭を振って諦めの息を吐く。
 今夜の話し合いが終わるまでは心も落ち着かないだろうと結論付け、エレオノールはテーブルの上に広げられていた全てを片付けた。