かぶ

Goodbye To You, My Love : Epilogue - 06

「そろそろ時間も時間ですし、僕たちはお暇しますよ」
「……お前ね、そんなあっさりと……」
「あっさりで当然じゃないですか。確かに僕はあなたの元ではもう働きませんが、これで縁が切れるわけじゃないんです」
「ふん。お前は見送られる側だからわからんのだよ。去られる側のこの喪失感をな」
 わがままだなど言われずともわかっている。それでもやはりそう簡単に感情の整理をつけることはできず、ふいと視線を逸らした。
「馬鹿を言わないでください。僕はあなたの元で十年以上働いていたんですよ? 去る側だとて寂しさがないはずないですか。……ただ、それに囚われては次に進めないから、強いて未来への期待に目を向ける事で前に進むんです」
 穏やかな声には笑いが混じっている。けれどその言葉の真摯さなど、それこそ付き合いの長さが聞き逃すことを許してくれない。
 彼も自分の元から巣立つことを寂しく思ってくれている。そんなことは知っているつもりだったが、やはり所詮つもりでしかなかったらしい。言葉にして伝えられたことで、身を切るような感傷が僅かどころでなく和らいだような気がした。
「ジーナも同じです。今回の依頼を受けてから、不安を口にはしつつも本当に嬉しそうに取り組んでいました。僕たちは二人とも、あなた方のために全力を尽くして仕える事を誇りに思っていたんです。たとえ道を違えようと、その思いが変わることはありませんし、これからも必要とされるのであれば可能な限り力をお貸しいたします」
 誠実な声が穏やかに連ねる言葉に、ゲオルグは無言で頷きを返す。これ以上告げるべき言葉などもはやない。
「お前がそう言うのなら」
 ため息混じりに告げて、じっと待つ青年へと向かって足を進める。
 ずっとそうしていたようにゲオルグが部屋を出るのを待って上司から一歩下がった位置を付いて歩くクライブが、すれ違う刹那に浮かべた切ない色には、気づかない振りをした。


 階下の居間に入ると、妻とジョージーナが並んでソファに座っているのが見えた。
 彼女はすでにジャケットを羽織っており、帰るつもりでいるのがわかる。ほんの少し、無駄だとは知りつつも泊まっていかないかと引き止めるつもりがあっただけに残念だ。
「ジーナ、どうやら待たせたみたいだね」
「ええ、本当に。でも、おかげさまで私、エレンからつわり軽減のコツを教えてもらえました」
 近づいてくるゲオルグを迎えるためにだろう、ゆっくりと立ち上がりながら、楽しげな光を瞳に宿した彼女が返す。
「つわりか……今はまだそういったのはないのかね?」
「まだ少し早いみたいです。父の話では母はかなり重い方だったみたいなんですが、どうにもこうにも父ったら母に共感しすぎるあまり、男つわりを起こしてしまって、支えるどころか二人でぐったりしてたんですって」
 くすくすと笑うジョージーナに、ゲオルグの頬も自然と緩む。
「それはそれは……なんというか、近い未来の君たちを想起させるね」
「それ、ダンから話を聞かされた時に自分でも思いました。絶対僕にも来るなって。子供のことがわかった時点ですでに考えてはいたんですが、そうなる事を考えると、某方を見習って産休をしっかり取るべきですよね?」
「――ああ、『彼』か。そうだな。確かに愛妻家を目指すなら、『彼』はいい見本かもしれないな」
 クライブが示唆する相手を正しく脳裏に描き、ゲオルグは苦笑を深める。
「だが、傾倒しすぎてさっさと引退なんて真似はしてはいけないよ? あんな無茶が許されるのは『彼』が『彼』だからであって、一般的にはありえないのだから」
「そうですね……肝に銘じておきます」
「大丈夫ですよ、ゲオ。そんなことには私がさせませんから」
 力強い妻の言葉に、クライブの顔が笑み崩れる。どうやらこの男も件の人物と同じく愛妻の言葉であれば何でも素敵なものに聞こえてしまう特別な耳を持っているらしい。けっして悪いことだとは言わないが、今後のジョージーナの苦労が偲ばれるというものだ。
「さあさあ、名残惜しいのはよくわかるけれど、これが今生の別れというわけでもないのよ? ――ええ、ゲオ。あなたに言っているんです。そんなに二人が恋しいのでしたら、スケジュールをやりくりして時間を作ればよろしいでしょう?」
「そうは言うがね、私のスケジュールは私の一存でどうなるものでもないのだよ?」
「それをどうにかしてこそでしょう? 実際、クライブはあなたについていた間も、あなたが書斎に篭っているより短い時間で仕事を終わらせて帰っていたわよ」
 ぴしりと冷静に指摘され、眉が情けなく下がったのが自分でもわかった。
「エレン、ゲオをいじめるのはそれくらいにしてあげてください。さすがに可哀想です」
 笑いを滲ませるジョージーナに便乗するように頷けば、クライブとエレオノールがなぜか揃って吹き出した。
「? 何か面白いことでもあったかい?」
「いえ、何もなくてよ」
「……ええ、特には」
 特に視線を交わしもせず言葉を合わせる二人に不可解なものを覚えるものの、ジョージーナにはなんとなくわかったらしい。もう、と小さく言って、夫に軽く肘を入れていた。
「でも、本当にもう失礼しなくては。明日から里帰りなんです。仕事を放り出してでもこっちに会いに来るというのを抑えているので、絶対に延期はできないんです」
 壁にかかっている時計にちらりと視線を向けたジョージーナが実に申し訳なさそうな顔で口にした言葉に、ゲオルグは渋々頷いた。
「そういう事情なら仕方ないね。何しろ彼にとっては初孫だろう?」
 自分にとってもそうだけれど、事実は事実としてわざわざ口には出さない。それに気づいているのだろう。ほんの少し物問いたげに首を傾げたものの深々と頷いて返した。
「ええ。もうすでに孫にデロデロになってますよ。おかげで実際に生まれてからの里帰りが今からもう恐くて恐くて」
「それ以前にダンが本気でこっちに移住してきかねない。どうも水面下で今の事務所を引き継いでくれる人を探しているみたいなんだ。一人で手が回らないとか歳が歳だからとか言っているけれどね……」
「そんなことしたらお母さんが一人になっちゃうじゃない! まったく、お父さんったら何を考えているのかしら!」
「娘と孫の事だと思うけど」
「だとしても、よ! どうせこっちに来たって、一ヶ月もしないうちにホームシックにかかってケンタッキーに戻るハメになるんだから。ほんの一週間滞在しただけで辟易してた人が何を言い出すのかしら」
「ジーナ、ジーナ。ダンに怒るのなら、明日顔を見てからにしよう。今はとりあえず、お暇を乞うのが一番だと思うよ」
 抑え切れない笑みを零しつつ諭してくるクライブに、ようやくここがどこだったのかを思い出したらしい。ぱっと色白な頬を紅く染め、ジョージーナはお見苦しいところを、と頭を下げた。
「では、本当に失礼しますね。――ここは本当に居心地がよすぎて、ついつい長居してしまいました」
「あら、それは嬉しいわ。私たちはここもあなたたちの家の一つだと思ってほしいもの。ねえ、あなた?」
「もちろんさ。いつでも遠慮なく訪ねてきてくれていいし、泊まりにだって来てくれていい。今夜は帰してあげるけどね」
 軽くウィンクをしながら返すると、サットン夫妻は揃って笑顔の花を咲かせた。
 クライブがジャケットを羽織るのを待ち、揃って玄関へと向かう。アルコールを飲むかもしれないからと押し切って手配した車が、乗客を辛抱強く待ってくれていた。
 最後に挨拶代わりのハグとキスを交わし、二人が車へと向かう。運転手が後部座席のドアを開け、まずはジョージーナが、次にクライブが乗り込んだ。ドアが閉ざされ、代わりに窓が下ろされる。
「おやすみなさい、ゲオ、エレン。今日は本当にありがとうございました」
「また寄らせていただきますね。おやすみなさい」
 愛し子たちの別れの言葉が胸に迫る。エレオノールにも同じように届いたらしく、おやすみなさいと応じる声が微かに震えていた。
 エンジン音を機に玄関の方へと戻りかけ、ふと足を止めた。
「ゲオ? どうかしました?」
 背を屈めて、いぶかしげにこちらを見つめてくる二人に視線を合わせ、囁くように、祈るように告げた。
「"Goodbye" to you, My love」
 大切な君たちの未来が恵まれたものであるように。