今日の空は、多少雲がかかっているけれど綺麗に晴れていて、玄関脇に植わっている欅の葉が瑞々しく輝いている。吹き抜ける夏の風が、肩の上で切り揃えられた茶色の髪を優しく揺らす。
「うん、今日もいい日みたいだ」
天気がいいと、自然と顔が綻んでしまう。たとえ一日の大半を建物の中で過ごすとしても、気持ちがいい事に変わりはない。
「今日はお客さん、たくさんくるかなー?」
別に商売をしているわけではないのだから、人が来ようと来まいと彼女には関係ない。むしろ来ない方が、仕事量は減るので楽といえば楽なのだが、やっぱり静かな部屋を人の気配が満たしているのを感じるのが好きなのだ。それに、自分と同じものを好きな人たちがいると感じるのも中々に快い。
「よし、それじゃあ今日も一日がんばりますか!」
一人で気合を入れ直し、真奈実はぱたぱたと足音を立てながら建物の中へと戻っていった。
昔から読書が好きだった。けれど中学校で初めて古文を習った時から古語の美しさにどうしようもなく惹かれ、もっと深く知りたいと思うようになった。近所に古書を取り扱う古本屋があった事も彼女にとっては幸運で、果てしなく古語の世界にのめり込んでいった。さすがに高校では古文を専攻できるような学校は近所になかったため、普通の公立高校に通った。そして進路を考える際に真っ先に日本文学でも特に古文に強い学校を探した。
如月学園を進学先に選んだのは、古文研究に強い教授がいるためと、彼女が今勤務しているこの旧図書館が所有している膨大な古書に惹かれたからだ。高二でキャンパス見学に来た時、噂にだけは聞いていた蔵書の凄さに本気で眩暈を覚えたほどだ。その日から何が何でも合格するためにと試験勉強に励んだ成果が実り、真奈実は見事如月学園に入学を果たした。
それからの四年間は、長かったようにも思えるけれど、振り返ってみれば実にあっという間だった。本当は大学院に進んでもっと深く学びたかった。けれどさすがにそこまでの自由を望むほど甘えられないと思った。
そう思って就職の道を選んだのだけれど、真奈実にはどうしてもこの如月学園から離れられない理由ができてしまっていた。だからこそ学校図書館司書および司書の資格を取得し、四年間の間に親交を深めた教授や司書たちに頭を下げまくってこの学園内の図書館で働く権利をもぎ取ったのだ。
それも、この旧図書館で。
授業を受けたキャンパスを除けば、大学生活の中で真奈実が一番長い時間を過ごした場所は、やはりこの旧図書館だった。
彼女が入学した頃から、今では主に使われている新図書館の建設が行われていて、三回生に上がった頃に完成した。その後、色々なシステムの導入や本の移し変えを行った後、その年の夏休み明けから使われるようになったのだ。
本来であればこの時点で旧図書館は閉鎖されるはずだったのだが、あまり利用されないものの、膨大かつ貴重な文献を保管および管理する場所が必要となり、その為の場にこの旧図書館を継続して使用する事となった。それを機に、倉庫に積まれていた寄贈本を再確認する事になったのだが、あくまで個人からの寄贈が多かったせいか、実に希少な初版本や絶版になって久しい書物などが多数含まれていた事が知れて、日本文学科ではちょっとした騒ぎになったほどだ。おかげで今では他校からも資料を漁りに教授や学生が訪れる事も稀ではなくなってきている。
新図書館に比べれば実に閑散としているものの、それなりの数のお客さんを迎え、貸し出しや返却に必要な手続き、傷んできた書籍の補修などをしていると、一日はあっという間に過ぎてしまう。特に旧図書館の閉館時間は午後五時半と比較的早いため、手際よく仕事をしなければ残業だ。いくらこの空間が好きでも、残業と名づけられた時間を過ごすのはちょっぴりごめんだ。まあそんな事は、学会前の時期を除けばめったにはないのだけれど。
そんなこんなで五時半のベルが鳴り、閉館時間を知らせる放送を行った後に滑り込みで入ってきた貸し出し返却の手続きを終えた真奈実は、見回りを兼ねて返却された本を棚に戻すため腰を上げた。
こちらに来るのは常識を弁えているいい歳をした大人が多いのだけれど、時々研究資料に没頭するあまり放送を聞き逃してしまう人がいる。そうと知らずして施錠したりしてはまずい事この上ない。だからどんなに身体がだるい日でも、最後の見回りを怠けるわけにはいかない。
閉館時間直前に返却されたり、修繕の完了した本をカートに載せて、一番奥の部屋から順番に見回りを始める。
それぞれの部屋は基本的に年代で分けられていて、その中で更に細かく分野の区別がある。学生時代から入り浸っていた事もあって、真奈実は勤め始めた頃から大した研修も必要がなかったぐらい知り尽くした場所ではあるけれど、普通の人であれば、慣れない内はどこに何がわからず、司書の助けが必須となる。
背表紙に貼り付けられたシールの記号を確認しつつ、一冊一冊棚に戻していく。
何分学者が多いものだから、一度に貸し出しする冊数も返却される冊数も中々に多い。とは言え空いた時間に分類分けをしておいたから時間はあまりかからない。てきぱきと作業を済ませ、受付もある一番広い部屋へと戻ってきた。ここまでくれば、カートはもう必要ない。ひょいと腕に抱え、最寄りの棚から戻していく。
全ての本を戻し終えた頃には六時近くになっていた。日が長くなってきたとは言え、窓の外の空は青から紫がかった群青へと色を変えはじめている。今日はメールが入っていないから特に急ぐ必要もないけれど、それでも六時にはきちんと帰りたい。
後はもう、受付からは死角になっている奥の棚の隙間を確認するだけだ。
「……って、誰もいるはずないけどね」
小さく呟きながらも真奈実は足を進める。
一歩一歩近づくにつれて、自然と胸がときめく。
どうしてそんな構造にしたのか、他の場所からは見事なまでに死角になったその場所は、実は真奈実にとって密やかで大切な思い出の詰まった場所でもある。
連なった書架の一番奥、増設された縦に細長い本棚の裏にあるそのスペースへと足を踏み入れたところで、不意に誰かが真奈実の腕を捕まえ、強く引き寄せた。
「っ――――!」
思わず声を上げかけた唇を暖かで柔らかな何かが塞ぐ。そして。
「……大丈夫、僕だよ。そんなに怯えないで」
そう、囁いた。
驚いて身を引き、目の前に立つ人物を見上げた。
「俊哉(しゅんや)、君……?」
「うん、僕だよ。――ごめん。そんなに驚くとは思ってなかったんだ」
困ったような笑顔を浮かべ、深海(ふかみ)俊哉はもう一度ごめん、と重ねた。
俊哉とは付き合い始めてもうすぐ四年になる。専攻こそは違ったものの、一般教養では同じ講義をいくつか取っていた同期で、今は如月学院の大学院に在籍している。少し長めの前髪に隠れた目は綺麗なアーモンド形をしていて、特別な美形というわけではないのだけれど、整った眉の形と相乗効果で凛とした雰囲気がある。
彼こそが、真奈実が如月学園から離れたくなかった最大の理由だ。
さらりと揺れる少し長めの前髪の奥から優しい眼差しが真奈実を見つめている。この瞳を見ると、いつだってなんでも許せるような気持ちになってしまう。やっぱり彼には弱いなぁ、と諦め混じりの溜め息を吐き、真奈実は軽く首を傾げて問いかけた。
「けど、どうしたの? 今日はメール、貰ってないよね?」
「うん。送ってない。一週間ぶりだし、ちょっと驚かせようかと思ってね。でも……いたずらが過ぎたみたいだ」
本当にごめん、と繰り返す俊哉に、真奈実はふわりと頬を緩める。
「驚いたし、怖かったけど、俊哉君だから許してあげる」
「僕だから? 他の人なら許さない?」
「当然じゃない。私がこんな事を許すのは、俊哉君だけだもん」
微笑んでこつんと俊哉の胸に額を当てる。頭の上で、ほっと安堵の息を吐くのが聞こえた。
「……そんなに後悔するなら、しなければよかったのに」
「それは今、心底から思ってる」
くすくすと笑いながら、俊哉はそっと真奈実の背中に腕を回す。腕の中にすっぽりと納まる細い身体を確かめるように、ゆっくりと背中から腰へと掌を這わせる。
「俊哉君……?」
「ん?」
不穏な手の動きに顔を上げると、どうしたの? とでも言いたげな表情で見下ろしてくる。もう、と拗ねたように呟けば、柔らかな笑みを浮かべた唇がつんと尖った真奈実の唇を甘く啄ばむ。二度、三度と触れるだけのキスが繰り返され、下唇を甘噛みされると俊哉の腰に回していた手が服の裾をきゅっと握ってしまう。誘うように舌で唇に触れられると、抗う事もなく口を僅かに開いて招き入れてしまう。
そっと身体が背後の書架に押し付けられ、腰を彷徨っていた左手がゆっくりとスカートをたくし上げる。右手はいつの間にか、服の上から胸をやわやわと揉みしだいている。
しばらく面と向かって会えなかった後の俊哉はいつもこうだ。二人きりになると同時に、性急に求められる。昨日まで論文の締め切りと学会の準備のため、二週間近くメールと電話でしか連絡が取れなかった。久しぶりに会えて嬉しいのは真奈実も同じだけれど、毎度毎度流されるわけにはいかない。なけなしの理性をかき集めて、俊哉の身体を少し押し戻した。
「ん……だ、めだよ」
「だめ? どうして?」
「……って、タイムカード、押してなっ……もん」
とっさに返した答えがこの行為自体を否定するものでない事に小さく吹き出して、俊哉はセミロングの髪から覗く耳に唇で触れながら告げる。
「大丈夫。代わりに押しておいたよ」
「仕事、終わってな……とか、考えなかった、の……?」
「だって、帰る準備できてたし。見回りを終えたら帰るつもりだったでしょう? それとも仕事、残ってるの?」
「――どうしてなんでもお見通しなのかな」
「それはだって、四年近くも君を見てきているからね」
ちゅ、と強く耳の後ろの柔らかな部分に吸い付かれ、真奈実は反射的に喉の奥で甘い悲鳴を殺す。ぐいと膝を足の間に割りいれられ、彼女の身体を知り尽くした手が下着越しに敏感な芽に触れてくる。周りには誰もいないとわかっているけれど、この場所で声を立てるわけにはいかないと、俊哉の肩に顔を埋めて口から漏れる喘ぎを抑える。
「しゅ、んや、くん……こ、こで……しちゃ、うの……?」
「……マナは今夜、何か予定ある?」
少し荒くなった息の下、掠れ気味の声が耳に吹き込まれる。甘い熱にぼんやりする頭を振ると、よかった、と呟きが聞こえた。
「なら今日はうちにおいで」
「で、も……同居人さん、は……?」
「さっきメールが入ってね。しばらく旅行で帰ってこないらしいんだ。……だからその間、僕のところにずっといなさい」