如月学園が一貫教育校であるため、午後三時以降は平均的に混雑している改札口で足を止めた俊哉にあわせて真奈実も足を止める。
「待ってて、切符買ってくる」
「あ、大丈夫。切符ならあるから」
「え?」
きょとんと振り返る彼に、真奈実は定期入れから回数券を引っ張り出してぴらぴらと振ってみせる。一瞬驚いた顔をした俊哉だが、すぐに口元を緩めて首を傾げた。
「……それ、僕のところに来るため、とか?」
「っ! ち、違うの! ほら、俊哉君の駅って都橋(みやこばし)の一つ手前でしょ? ここの駅からだと都橋も俊哉君のところも同じ値段だから、買ってもいいかなって思って……」
慌てて言いつくろうけれど、俊哉の笑みはむしろ深まるばかり。
「そういう時は、嘘でもそうだよって言ってよ」
「言ったら言ったで、回数券代払うとかいうんでしょ?」
「うん。だから今度からは、買う前に言って? 僕が買うから」
「……だから都橋に行くためだってば」
「それでもいいから」
ね? と笑顔で念を押されては反論も口の中で氷のように溶けてしまう。覚えてたらね、と溜め息混じりに告げると、俊哉は約束だよ、と嬉しそうに笑った。
俊哉は真奈実に頼られるというか、甘えられるのが好きらしく、真奈実の事は何でも自分がしようする。だからこそ真奈実は自分の足で立てるようになろうと努力するのだけれど、気がつけば流されてしまっている。
……まあ、こうして嬉しそうに笑ってくれるのを見れるならそれでもいいかとも思ってしまうのだけれど。
ラッシュの時間ではあったけれど、鈍行に乗った事もあってか電車の中は比較的空いていた。座るほどの距離でもないのでドアのすぐ内側で寄り添って立つ。一応治まってはいるものの、一度かき立てられた熱はやっぱり身体の中に残っている。こんな傍に俊哉の体温や匂いを感じてしまっては、せっかく落ち着いた炎もちょっとしたきっかけでまた再燃しそうで少し怖かった。
きっと俊哉も同じなのだろう。彼の目にはまだ欲望の影が残っているけれど、けっして真奈実に触れようとはしない。触れてしまえばすぐにでも、抑え込んだ炎がバックドラフトを起こしかねないと知っているから。もしかすると、同じ爆発させるのなら、思う存分爆発できるようになるまで待った方がいいとか考えているのかもしれない。
鈴ノ宮東駅で二人して降り、駅前にあるスーパーに寄った。
「俊哉君、今日は何が食べたい?」
「そうだね……マナの作るものならなんでもいいけど」
「……それ、一番困る答えだって前にも言ったよね……?」
じっとりとした視線を向ければ、俊哉は覚えてるよ、とあっさり返す。
「でも、僕は本当に何でもいいんだ。マナが作ってくれるってだけで満足すぎて」
「それじゃ、強いて言うなら何が食べたい?」
辛抱強く聞きなおすと、少し考える素振りを見せて、俊哉は答えた。
「――シーフードかな」
「あっさりがいい?」
「いや、すこししっかりした感じで……ああ、うん、そうだ。前に作ってくれたシーフードオムレツのクリームソースがけなんてどうだろう?」
「いいけど、時間かかっちゃうよ?」
「大丈夫。その間に課題するから」
「了解。えーと、それなら必要になるのは……」
一つ一つ材料を挙げて、その中から家にある物を俊哉が伝える。初めの頃は材料を全て買っていたから、部屋に着いてからダブっているものを見つける事が多かったのだけれど、俊哉も真奈実に諭されてある程度自炊をするようになったためもあり、最近ではそういう事は稀だ。まあ、たまにダブらせたり、逆にあると思っていたものがなかったりするのだけれど。
スーパーから出た頃には、空もかなり群青を増していた。ぽつぽつと灯りはじめた街灯の光に不思議な安堵感を覚える。
このあたりは、比較的市街地に近いとは言え、中心地からは若干離れている事が幸いし、比較的品のいい住宅街が形成されている。
駅前から徒歩三十分の距離はほとんどが高級マンションで、それより離れると個人住宅が増える。それも大半が、外から見てもオシャレだなとか可愛らしいと思える家が多く、休みの日には家を見る事を目的にふらりと歩いてみたくなる。
俊哉の部屋は駅から約十分の距離にある十五階建て高級マンションの十二階にある。いわゆるデザイナーズマンションという物件らしく、やけにスタイリッシュなロビーを最初に見た時は、うっかり足を踏み入れるのに躊躇したくらい小洒落ている。オートロックの玄関を通り抜けてエレベーターに乗り込む。十二と書かれたボタンを俊哉が押すと、程なく独特の浮遊感と共にエレベータが動き出した。
昔から一軒家に住んでいた上、エレベータよりもエスカレータや階段の方を好んで利用する真奈実は、どうしてもこの感覚に慣れる事ができず、自然と身体に力が入ってしまう。
「……やっぱこの感覚、苦手?」
くすくすと笑いながら問いかける俊哉に、真奈実は苦笑を漏らす。
「うん、どうしても慣れれないよ。昔から階段の子だもん」
「本当に変わってるよね。デパートで階段上ろうって言われた時はびっくりした」
「だって私、日常的に身体動かさないからああいうところで運動しとかなきゃって思うんだもん」
「だけど五階以上を階段ってのはありえないよ。デパートなんか、普通のマンションや団地と違って天井高いんだし」
「むー……」
膨れる頬に笑いながら俊哉がキスを落とす。ひゃっ! と声を上げる真奈実に、
「まあ僕は、マナのそういうところも好きだけど?」
と、告げると、彼女はもう、ともう一度頬を膨らませて、それからとても嬉しそうに微笑んだ。
他人の部屋に入る時は、いつも少し緊張する。
俊哉の場合は他人とは厳密に言えないかもしれないけれど、この部屋は俊哉だけのものじゃない。以前に真奈実が聞いた話では、本来は彼の同居人の親が所有している一室で、その親が現在海外に出張中のため、空いた部屋に安く間借りさせてもらっているのだとか。それもあって、俊哉は同居人に頭が上がらないのだそうだ。同じ理由で「互いがいる時は恋人を連れ込むのは禁止」という、同居開始時に定められたルールを俊哉は破れない。だから真奈実がこの部屋に上がるのは一ヶ月で言えば片手にも満たない。逆に俊哉はほぼ毎週末を真奈実の部屋で過ごしていたりする。
クリームソースを小麦粉からきちんと作るから、空きかけのおなかを買ってきたオレンジで軽くごまかす事にする。
真奈実がキッチンに入ると、俊哉は自分の部屋からノートパソコンと必要な資料やノートを持ってきて、リビングにセッティングする。以前に一度、部屋でやればいいのに、と言ったのだけれど、「マナがいるのに、わざわざ見えないところに行く理由がないでしょ?」と返されて以来、むしろそこにいてください、な気持ちになってしまった。本当に、何をどう言えば真奈実が自分の思い通りになるか、俊哉は全てお見通しのように思えてちょっぴり悔しい。
小さめのフライパンでクリームソースを作る間に、冷凍のシーフードミックスをレンジで解凍する。解けたシーフードは味付けをした上でざっくり炒めて一度お皿に避ける。それから卵三つを割って、砂糖と塩コショウで味をつけ、牛乳を少し注いでからよく解きほぐし、熱したフライパンに半量を流し込んだ。熱で固まる前にぐるぐるとかき混ぜてふんわりとさせてから残りの卵を注ぐ。ある程度しっかり熱が通るのを待った上で皿に上げていたシーフードを卵の奥半分に乗せ、気合を込めて手前半分を被せる。
タイミングがよかったらしく、プロ級とは言わないが、結構綺麗に形ができて自然と頬が緩んだ。
同じ要領でもう一つ自分用に、こちらは卵二つだけの少し小さめオムレツを作る。それぞれにでき立てのクリームソースをたっぷり垂らし、手が空いた隙を見て作っておいたサラダと一緒にダイニングテーブルに運ぼうとしたところで、俊哉がキッチンに入ってきた。
「できたんだろう? 運ぶよ」
「ありがとう。ご飯は?」
「いる。いつも通り大盛りで」
「はいはい」
まるで新婚夫婦みたいだ、なんて、これまで一体何回考えたかわからない事をまた考えて、一人で赤くなる。それを隠すためにも、二人暮しには十分すぎるほど大きな炊飯器に向かってしゃもじを握った。
テーブルセットが整い、四人がけのダイニングテーブルに向かい合うように座った上で、礼儀正しくいただきます、と手を合わせる。俊哉はそういった躾をしっかりされているらしく、はじめはあまり意識していなかった真奈実も、今では俊哉を見習って、一人の時でもきちんと食前食後の挨拶をするようになった。
「――いつも思うけど、マナって本当に料理上手いね」
オムレツを一口食べてしみじみと言う俊哉に、真奈実は軽く首を傾げる。
「そう?」
「うん。この半熟加減なんて最高。普通のオムレツを何度も試したけど、こんな風にできたためしはないよ」
「うーん、やっぱりこういうのって、慣れだからなぁ……よければ今度、一緒に作る?」
「そうだね。さすがに明日はアレだけど、週末ぐらいならまた食べたくなるかもしれない」
明日や週末という言葉に、どうしようもなく胸がざわめく。そういえば彼は、同居人はしばらく帰ってこないと言っていたけれど……
「ねぇ、同居人さんはいつ帰ってくるの?」
「うん? メールでは、来週半ばに帰ってくるって言っていたから、多分次の水曜か木曜じゃないかな」
「本当に? なら、一週間以上一緒にいられるの!?」
驚いて声を上げると、俊哉は心底嬉しそうに微笑む。
「その通り。だから明日の帰りは一度マナのところに寄ろう。一週間分の着替えを取りに行かなきゃね」
「それに、冷蔵庫の中身もきちんとしないと。実は昨日、安売りでお肉とお魚買い込んじゃって……」
困った顔で呟くと、俊哉はたまらないとでも言うように吹き出した。
「なんていうか、マナって今すぐにでも奥さんになれそうだ」
何気ないその一言に、心臓が一際強く鼓動を打った。
「――な、なれるかな?」
「なれるよ。……まあ、すぐにそうしてあげる事はできないけど」
かちゃり、と箸を置いて、俊哉は動きを止めている真奈実の手を取る。
「だけど、いつかは――ね?」
さりげない未来の約束に、真奈実は零れそうになる涙を抑えて、ちいさくうんと頷いた。