かぶ

Truly Madly Deeply - 01

 桜も満開の時を過ぎ、芽吹いたばかりの青葉の合間に名残の花を残すばかりとなっていた。
 父親の代理で藍染養護学院へと足を踏み入れた神沢隆(かみさわ たかし)は、正門の傍らに植えられた桜の下に立つ少女の姿に、まさか、と息を呑んだ。
「……もしかして峰倉? こんなところで何してるんだ?」
 ほとんど無意識に言葉が口を突く。不意打ちに掛けられた声に、ふわりと長い黒髪を乱して振り返った制服姿の少女は、そこに私服姿のクラスメートを見つけてわずかに目を見開いた。
 彼女――峰倉依子(みねくら よりこ)は、私立如月学園に高等部から入ってきたいわゆる『外部生』のため、隆を含むエスカレーター組との付き合いはあまりない。
 そのためか、自身と同じ外部生の面々とはそれなりに交流しているようではあるが、大抵の休憩時間は一人で本を読んで過ごしていることが多かった。
 身長は一六〇センチを少し超えているあたりだが、ぴんと伸ばされた背筋のおかげで本来の背丈より数センチ背が高く見える。
 制服が白いブラウスの上に濃緑のブレザージャケットを羽織り、今時この長さは何なのだと女子には不評な膝下丈の灰色ジャンパースカートというスタイルなため、普段は具体的な身体のラインは隠されているが、昨年度の夏に、二クラス合同の体育の水泳でこっそり盗み見た記憶によれば、上半身は若干着痩せするタイプのようだった。腰から足にかけても、モデルほど細いというわけではないが、大根というわけでもなかったはずだ。
 服装規定があまり厳しくない事もあり、ほとんどの生徒が髪を染めたり脱色したりしている中で、彼女の黒くてまっすぐな長い髪は、いい意味で目立っていた。すこし釣りがちなアーモンドの形をした目の上には、整えられているのだろうか、太くも細くもない眉が気の強そうなアーチを描いていた。すっと筋の通った鼻の下には若干薄めの唇がいつもきゅっと引き締められている。化粧っ気のない肌は健康的に日に焼けていて瑞々しく、すっきりとした顎のラインに指を滑らせたいと遠くで悶えている男子生徒はけっして少なくない。
 これまではクラスが違ったという事もあり、すれ違いざまに会釈程度の挨拶をする以外で言葉を交わした事もなかった。今年は同じクラスになれたのだからとなんとかお近づきになる機会を狙っていたのだが、まさかこんなところで恵まれるだなんて事は、さすがに予想していなかった。
「神沢君……? キミこそどうしてここに?」
 きょとんと自分を見つめる依子の視線をまっすぐに受け止めてしまい、隆は彼女と視線が合うたびに感じる眩暈にも似た感覚に襲われる。
「え? ああ、俺は親父の代わりに先月分の報告書を受け取りに来たんだ。その、この施設ってうちの親父の会社が出資しててさ。定期的に親父かその部下が様子見に立ち寄ってるんだけど、今月は誰も手の空いてる人間がいないからって俺が借り出されたってワケ」
 ぎこちなくこの場にいる理由を口にする隆の言葉を聞いて、依子は「ああ」と得心したように微笑んだ。
「そういえばそうだった。けど生憎、今はみんな出払ってるんだよね。今日は河原までお散歩の日だから」
「お散歩の日?」
「うん。実はあたしもその事うっかり忘れてたんだ。だからさっきからここで一人立ち尽くしてたの」
「――てか、どうして峰倉がそんな事知ってるんだ?」
 いたずらに髪を巻き上げる風に顔をしかめる少女に隆は正面から問う。乱された髪を手櫛で整えていた依子は、二度三度瞬きを繰り返した。
「……えと、あのさ、神沢君。もしかしてそれ、ジョークじゃなくて?」
「ジョークって何が?」
「うーん、ジョークは違うか。その、からかったりしてるわけじゃなくて、本当にわからなくて訊いてるの?」
「そうだけど?」
「うそ……だってあたしたち、一年も同級やってるんだよ? まあ、クラスが同じになったのは初めてだけど、それでもさ……」
「……峰倉。悪いけど話が見えない。何をそんなに驚いてるんだ?」
 ここまで来ると、いい加減馬鹿にされてるようで、隆は幾分機嫌を損ねる。それに気づいて、依子は苦笑を浮かべると何気ない口調で告げた。
「あのね、あたしこの施設出身者なんだ。だからほら、名字がここの院長先生と一緒でしょ?」
 告げられた言葉が頭に浸透するまで、優に十秒かかった。それでもその事実がどうしても現状と噛み合わず、隆は間の抜けた問いを返していた。
「でも峰倉、だったらなんでうちの学校通えてるんだ?」
 後から冷静になって考えればどう考えても失礼極まりない問いかけだったが、隆がうっかりそれを口にしたのもある意味当然だった。
 二人の通う私立如月学園は、幼稚舎から大学院までの一貫教育を売りにしているプライベートスクールであり、そこに通う生徒達の大半がいわゆる上流社会などと呼ばれる財政基盤のしっかりした家出身の子供達だ。しかし一般に金持ち学校と呼ばれる範疇にありながらも公立の進学校に比肩するレベルを誇るため、親の脛を齧るしか能の無いような連中はあまりいない。
 もちろん学園内に「一般人」がいないというわけではない。逆に学校としてのレベルの高さから公立の滑り止めとしてではなく、単願で受験を希望する公立校出身者も少なくない。
 それ故に、レベルの高さに見合っただけの学費や必要経費が求められるため、言い方は悪くなるが、このような養護施設出身者には通えるはずがないのだ。
 そんな疑問が顔に表れていたのだろう。依子は苦笑を深めると、やけに真面目くさった表情を作り、架空の眼鏡を押し上げる仕草をした。
「では、不肖ワタクシ峰倉依子が神沢君の疑問を解消して差し上げましょう。実は如月学園の高等部と大学部には特待生制度というものがあるんだよね。形式としては推薦入試に近いんだけど、優秀な成績を修めていた生徒だけが受けられる特別な試験にパスする事ができれば、在学中も優秀な成績を保持するっていう条件の下、学費から制服代、その他校内行事などにおける必要経費すべてを学校が受け持ってくれるの。で、あたしはその条件にかろうじて引っかかっている希少な一人ってわけ……なんだけど、こういう話、聞いた事なかった?」
「なかった」
 隆の即答に、依子は目を真ん丸に見開く。
「うーん、あたしの事はすでに噂だなんだで皆さんご存知かと思っていたんだけど……。ああ、でもだからキミは、あたしを妙な目で見なかったんだ」
 なにやら勝手に納得しているらしい依子の言葉に聞き捨てならぬ言葉が混じっていた事に気づき、隆は反射的に問うていた。
「妙って?」
「んと、ほら、よくあるでしょ? 『貧乏人風情が』とか『どこの馬の骨かも知れないくせに』とかそういったの」
「――峰倉、ンな目で見られてたのか?」
「やっぱ素性が素性ですから」
 ひょいと肩を竦める横顔には、自身に対する卑下や自嘲は欠片ほども存在していない。ただ事実をあるがままに受け止めているだけだと言わんばかりの潔さだけが浮かんでいる。――潔すぎて、同情を挟み込む余地すらない。
 この凛とした潔さも、隆が依子にどうしようもなく惹きつけられる要因の一つだ。
 隆が彼女の存在に気づいてからまだ一年も経っていない。けれど気づいて以来、目が彼女を追っていた。無意識に彼女の存在を探していた。これがどういう感情に基づくものなのかなんて、一々難しく考えなくてもわかった。わかってしまった。
 だからこそ、今年は彼女と同じクラスになれるように勉強をがんばったのだ。けれど念願が叶ったにもかかわらず、まだまともに話す機会を見出せていなかった。
 そう。たった今までは。
「えと、峰倉、その……」
 とっさに口を開いたはいいものの、うまく言葉が出てこない。口ごもる隆を見て何を思ったか、依子はどこか悟ったような表情になる。
「もしかして同情してる? けど、そんなのされてもこっちはむしろ迷惑だし、時間の無駄でしかないよ」
「や、そういう事じゃなくて。まあ、びっくりしたのは確かだけど、峰倉が他のやつらと違う理由がわかったって言うか……」
「他の人と違う理由?」
「うん。あ、でも悪い意味じゃないぜ? 峰倉ってさ、なんていうか他のやつらみたいに浮ついてないし、一人でしっかり立ってるって空気纏ってるだろ。だからいいなって前から思ってたんだ。で、なんでそんな雰囲気持ってるのかがようやくわかったって言うか。……って俺、なんか変な事ばっか口にしてない?」
 誤解を招きたくなくて急いで言葉を紡いだものの、なんだか妙な事を口走っているような。
 恐る恐るといった風情で目の前の少女を覗き込むと、どこか驚いたように目を瞠っていた彼女はふわりと表情を綻ばせた。
「ううん、そんな事ない。それどころか、そんな風に思われてたんだってちょっと嬉しいぐらい」
 照れているのか、わずかに頬を染めて目を伏せる。その楚々とした表情に、隆の鼓動が一気に跳ね上がった。
 いつもの事といえばいつもの事だ。依子のふとした笑みや無意識の仕草を目に留めるたび、こんな風な動悸が隆を襲う。いつもなら視線を逸らしてその場から立ち去り、安静にすればすぐに収まるが、まさか本人が目の前にいる状態で、いきなり踵を返して逃げ出すなどできるはずがない。
「――そ、そういえば、峰倉は今、ここには住んでないのか?」
「え? ああ、うん。ここは義務教育の間しかいられないの。ほら、中学校卒業したら一応就職できるようになるでしょ? だから高校に進学する場合でも、就職する場合でも、必ずみんなここを出なきゃならないんだ」
「へえ……。じゃあ、今はどこに?」
「今はね、学校から歩いて十分ぐらいのところに商店街があるんだけど、その中の食堂で住み込みのバイトしてるんだ。今日は食堂が定休日だから、久しぶりに里帰りをしようかなって思って来たの。なのに院長先生も弟妹達も遠足でいないんだもん。まったく、タイミング悪いったら」
 あっけらかんと笑う依子に、隆はまた甘い動悸を覚える。
 これまで遠目に見た表情は、どちらかといえば控えめなものが多かった。
 たとえば窓の外に広がる空を見つめている時や、中庭に咲く名前も知らない雑草を見つめている時、それから教室の片隅で静かに本を読んでいる時などにふと垣間見る事のできる、愛しいものを見つめる眼差しや暖かく包み込むような微笑みにどうしようもなく心を奪われていた。
 けれど今の彼女はどうだろう。学校での姿とは違い、すべてに気を許したように明るく伸びやかで……。きっとこれが、本来の依子なのだろう。
「……神沢君? どうかした?」
「え? あ、いや、なんでもない!」
 うっかり依子の笑顔に見惚れてぼんやりしていたらしい。呼びかけられて現実に意識を戻した隆は、十センチと離れていない距離に依子の顔を見出して、慌てて二歩程後ずさった。
「そう? ――あ、みんな帰ってきたみたい」
 遠くから騒がしい子供達の声が聞こえてくる。ぱぁっ、と明るい表情を浮かべた依子の視線を追えば、幼児から小学生ぐらいまでの年齢の子供達が、何人もの大人達と一緒にこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
 正門から出て、大きく手を振りながら依子が声を上げる。
「みんなー! おかえりー!」
「あ、よりこおねえちゃんだ!」
「よりちゃん、会いたかったよー」
「ただいまー! 依子姉ちゃんおかえり!」
 依子に気づいた子供達が一目散に走ってくる。熱烈な歓迎の嵐に応える依子を見つめる隆は、胸の奥に僅かな痛みとそれを包み込むような不思議な熱を感じていた。