かぶ

Truly Madly Deeply - 02

 鈴ノ宮駅西口から北に向けて長く伸びる商店街の半ばに、一棟のモルタル作りのアパート住居がある。一階部分が大衆食堂「みやまえ」とその店主の住居であり、二階には六畳一間の部屋が五部屋並んでいる。その一番奥、商店街のアーケードから一番離れた部屋が依子の部屋だった。
 久しぶりに訪れた学院で弟妹達と遊び、ついでだからと夕食まで戴いてきた依子は、通学用の鞄を足元に落とすと制服のままパイプベッドの上にばふっと倒れこんだ。
「びっっっっっっくりしたぁ……」
 今更になって緊張の糸が切れたらしい。全身が完全に弛緩している。
 短い春休みはアルバイトと新学期の準備に明け暮れてしまったため、ゆっくりと学院を訪れる事ができなかった。それもあって先週の土曜日、院長先生が依子の様子を見るために「みやまえ」にやってきたのだが、その時に「下の子達が依子ちゃんに会いたいって寂しがっているよ」と伝えられたのだ。
 藍染養護学院はけっして大規模な養護施設ではないが、それでもそれなりの人数の子供達が生活している。そしてその子供達は、依子にとっては兄弟同然なのだ。
 だからこそ弟妹達が自分に会いたがっていると聞いて、じっとしていられるはずがない。
 今日は水曜日で食堂は定休日だった。本来なら宿題と予習復習のため、学院まで足を伸ばす時間などないのだが、日ごろの行いによるものか、運良く宿題がほとんど出なかったのだ。
 週末は昼の時間も働いているため、結局あまり時間は取れない。そのためこんないいチャンスを逃すのはもったいないとばかり、学校から直接学院へと向かったのだ。
 機会を狙っていたとはいえ、本当に思いつきで行動に出た。だから隆が、依子が学院にいる事を知っていたはずがない。
 つまり今日の一件は、本当に偶然に偶然が重なった上での邂逅だったのだ。
 実を言えば、依子は隆が如月学園にいる事を入学する前から知っていた。
 彼女が如月学園に「学院からも近いし、特待生になれればお金もかからないから」と進学を希望した際、院長先生に強く反対されたのだ。その理由こそが、出資者である神沢氏のご子息より上位に立つわけにはいかないというものだったのだ。
 特待生の条件のひとつとして、常に学年上位一割に入らなければならないという項目がある。つまり、神沢家の御曹司の出来如何によっては、依子の方が彼よりも上位に立つ可能性がある。それはいわば主家に逆らうようなもので、たとえ御曹司がどうしようもないぼんくらであったとしても、依子は御曹司より下位に控えるべきなのではないかと院長先生は考えたのだ。
 それに対する依子の反論は以下のとおりである。
「でも先生。学費諸々を学校が持ってくれる上に、修学旅行なんかの代金まで負担してくれるんですよ。それに高校三年間の成績がよければ大学にも進学できる可能性も高くなるという話です。しかも掛かった費用は返済不要だというじゃないですか。ここまで太っ腹な奨学金は他には中々ありませんよ。それにあたしは、学院からあまり離れたくないんです。第一、そう簡単には受からないと聞いています。だけどあたし、奨学金という名の借金を背負いながら学校に通うなんて、考えるだけでも嫌です。もし特待生試験に合格できなければ、その時はきっぱり諦めて民間の奨学金で公立高校に行きます。一度だけでいいんです。どうか挑戦させてください!」
 中学生にしては筋の通った物言いにしばらく絶句した後、依子がどこまでも真剣なのだとようやく納得した院長先生は「それが君の望みなら」と許してくれた。
 そんなすったもんだの末に、依子は学院を挙げての協力もあって、見事特待生試験に合格したのだ。
 ところが、元から自らの出自に大した引け目を感じていなかった事もあり、入学して程なく依子の出身が周囲に知れてしまい、エスカレーター組イコール金持ち連中から実にレベルの低い嫌がらせを受けるようになった。様子見と称してしばらくの間は我慢していたのだが、あまりの低レベルさに呆れ果てた依子が夏休みを前にして軽く反撃したところ、嫌がらせはなくなった。けれど同時に周囲からは完全に浮いてしまった。
 そんな中、クラスが違うという事もあったのだろうけれど、彼女をまったく特別視しない少年がいた。
 それが神沢隆だった。
 アイドルや俳優のほどではないが、彼は比較的整った顔立ちをしていた。背は他の男子と比べても高い方で、一八〇近くあるのではないだろうか。体格も運動部に所属しているためか、比較的がっしりしているようだ。邪魔にならないぎりぎりの長さで整えられた栗色の髪の下から覗くのは、すこし無愛想だけど穏やかな眼差し。友人達といる時に見せる無邪気な笑顔を初めて見た時は、いつもの彼とのあまりのギャップにうっかり目を疑ってしまった。
 神沢興業と言えばかなりレベルの高いお金持ちに分類されるはずなのに、他の家柄などに拘る連中とは比べ物にならないくらい自然体なところも好感が持てた。
 休み時間や放課後は、ほとんどいつも変わらない面子で集まっている。とは言っても隆が進んで交流を持っているのは、彼と同じエスカレーター組である刑部秀人(おさかべ ひでと)と三好洋司(みよし ようじ)の二人で、それ以外はその他大勢といったスタンスらしい。それは隆のそれぞれに対する態度の違いを見れば、よっぽど鈍い人間でもない限り気づかずにはいられないだろう。
 秀人や洋司といる時の隆はまさしく年相応の少年といった感じで、よく笑うし雰囲気も柔らかく、陽だまりの中でじゃれあう子犬達を思わせる。けれど彼ら以外に対しては、穏やかに対応こそすれ親しげな空気はない。どこか一線を引いているのが明らかなのだ。
 依子がなぜそんな事を知っているかといえば、結局のところ、神沢隆という少年は、依子が密かにコイゴコロと呼ばれるものを抱いている相手だからに相違ない。
 彼の奇異の混じらない視線に気づいた当初は、ご両親の会社が学院に出資している事から、きちんとした躾を受けてきているんだろうなと思っていた。けれど、それにしても同情めいた色が、自分を見る視線に欠片ほども混じらないのはどうしてだろうと、純粋に不思議に思っていた。
 だけど、去年の夏休み前に起こしてしまった一騒動のおかげで、他学年ならともかく同級生であれば誰もが知っているはずの依子の素性を彼が知らないなど、誰が思うだろうか。
「ま、神沢君らしいと言えばらしいけど」
 呟いて、くすくすと笑みを漏らす。
 そういえば、すれ違いざまの挨拶や連絡事項を除き、彼と真正面から言葉を交わしたのは今日が初めてだったのだと思い出す。しかも、私服姿まで見てしまった。淡いグリーンのシャツにベージュのチノパンといういでたちは、彼の育ちの良さを表しているようだった。
「どうしよう。あたし、すごく得したのかも……」
 うっかり気を抜くと、ついついにへらと顔が笑み崩れてしまう。
 さっきも学院の子供達に、「依ちゃん、お顔笑ってるー」と散々指摘されたのだ。
 けれど、今日ぐらいは気を抜いてもいいだろう。たまにはオトメ心も爆発させる必要がある。
 などとわけのわからない理屈をこね、一頻り今日の午後の一幕を反芻した後、依子は静かに息を吐いた。
「……やっぱ、知られちゃったからには変わっちゃうのかな……」
 ぽつりと漏れた呟きに、ツキンと胸の奥が痛む。
 自分が学院出身者だと依子が口にしている時もその後も、悪い事を聞いてしまったという後悔は若干見えたものの、それ以外に表立った態度の変化は見えなかった。
 だから大丈夫だと自分に言い聞かせるものの、その言葉を信じる根拠が『依子がこれまで見てきた隆のイメージ』では頼りになるはずがない。
 溜め息を吐きながらのろのろと身体を起こし、皺の寄りかけている制服を脱ぎ、薄手のトレーナーとジーンズに着替える。
 時計を見れば、時刻は九時前。いつもより早いけれど、今からお風呂を沸かせばゆっくりできるだろう。それに――自分にとって一番リラックスできる環境で、今日の出来事を思う存分反芻したい。せめて、今の間だけでも。
 よし、と心の中で声を上げて立ち上がると、どこか浮き立った足取りでお風呂場へと向かった。