隆がそんな事を言い出したのは、ゴールデンウィーク直後に中間テストという、遊びたくても遊べない凶悪なスケジュールから開放された直後の事だった。
藍染養護学院での偶然の邂逅以来、隆は比較的親しく依子に声をかけてくるようになった。
はじめは気を遣ってくれているのかと思った。けれどそうではないのだと、彼の態度や言葉の端々からすぐに知れた。
二人の会話は学校内の事ばかりで、どんなに周囲が興味深く聞き耳を立てても、聞こえてくるのは本当に勉強の事や先生、クラスメートに関する話題しかなく、身の程知らずにも隆に近づくなんて、と一時的に強くなりかけた依子への風当たりも程なく何事もなかったかのように平常に戻ったぐらいだ。それぐらいお互いのプライベートな面については、暗黙の了解のように触れる事がほとんどなかった。
だからこそ、依子は隆の突然の申し出にとっさに反応できなかった。
ここはどう返すべきかと考えあぐね、ひとまず浮かんだ言葉を口にする。
「……別にそんな面白いところでもないのに」
「けど俺、峰倉働いてるとこ見てみたいんだ。もちろん邪魔なら遠慮するけど……」
「や、別に邪魔ってわけじゃないんだ。たださ、ファミレスとかと比べるとがっかりすると思うんだよね。制服もないし、建物も古いから綺麗じゃないし」
どこか困ったような顔で言葉を重ねる依子に、隆は小さく笑いを漏らす。
「大丈夫だって。俺もテレビとかで見てどんなところかイメージはついてるから。ま、実際に行った事がないから興味あるってのも嘘じゃないけど。けどさ、ぶっちゃけ俺の興味の中心は『働く峰倉』なんだよな」
「なにそれ」
隆の持ち出した妙なフレーズに小さく吹き出して、依子はしかたないなぁ、と諦めの息を吐く。
「本当に面白くもなんともないけど、それでもいいなら構わないよ」
「マジ? んじゃ、早速だけど今日帰り寄ってもいい?」
「今日の帰り? って、授業が終わってすぐって事?」
少し早いんじゃないかな、と依子が呟くのを聞いて、隆はそうじゃない、と首を振った。
「俺が言ってるのは、部が終わってからの事。だから時間的には少しばかり遅くなると思う」
「――ああ、そういえば神沢君、陸上部だったよね。んー、何時ごろ終わるの?」
「多分終わるのは七時ぐらい。けど、片付けとか着替えとかしてたら出られるのがどうしても七時半過ぎるんだよ。おかげでいつも腹減って仕方ねぇんだ……」
天を仰いで嘆息すれば、依子が明るく笑い声を上げる。
「あはは、確かにそうだろうねぇ。――あ、部活帰りって、もしかして他の人達も一緒?」
「いや、行くのは俺一人。他の奴に『働く峰倉』を見せるなんてもったいない」
「だからもったいないって、別に見られても減らないし」
けらけらと笑う依子にひょいと肩を竦め、隆はどこか申し訳なさそうな顔で言葉を続けた。
「それでさ、できれば簡単でいいから地図描いて欲しいんだ。言葉で説明してもらっても、多分部活終わる頃にはきれいさっぱり忘れてると思うから」
「あたしは神沢君なら大丈夫だと思うけどな。……んーと、ここからの行き方でいい? それとも一度駅に出てから来る?」
「直で行く。駅に出たら遠回りなんだろ?」
「駅経由だとほぼV字状になるからね。学校からならあんまり遠くないよ。ちょっと待ってて」
ごそごそと机の中からルーズリーフを一枚取り出し、少し考える仕草をした依子は紙の上に手早く線を引いていく。ざっと大まかな地図を描き終えたところで目印になる店や建物を注釈のように書き込む。その様子に迷いはほとんどない。最後に「大衆食堂みやまえ XXX-XXXX」とメモして、
「――うん、こんなものかな。もし道がわからなくなったら、お店に電話くれたらいいから」
最後にもう一度確認した上で、依子はにっこりと笑って完成した地図を隆に差し出した。ありがとう、と返しながら受け取る隆は、めったにないくらい満面の笑みを浮かべていた。
日が暮れるのが遅くなってきつつあるとはいえ、さすがに八時を回ればあたりはとっぷりと暮れてしまう。
もう少し早い時間であれば活気に満ちているであろう商店街のアーケードは、店仕舞いの気配に騒然としていた。
駅とは方向がまるで違っているため、こういった場所があるとは噂程度に知っていたものの、如月学院に入学してからの長い年月の間に隆が足を運んだ事は一度もなかった。
隆にとってこんな商店街は、テレビや映画、もしくはマンガの中の存在だった。
ずらりと並ぶこじんまりとした店はどれもが二階建てか三階建てで、一体いつ建てられたのだと真剣に考え込んでしまうほどに古びている。道を行くのは野暮ったい格好をした中年の主婦が主で、閉店作業途中の店員と笑いながら親しく言葉を交し合っている。鼻をつくのは生肉、生魚に生鮮野菜、揚げ物、お惣菜、ラーメンなどといった、実に素朴かつ庶民的な独特の臭気で、隆自身は、あまり慣れない臭いだとは思うものの、さして嫌だとは思わないが、如月学園に通う他の生徒達が嗅いだならば、ほぼ確実に嫌そうに顔をしかめるだろうと容易く想像がついた。
急ごしらえにしては丁寧に書き込まれた依子の地図を頼りに足を進め、ほとんど迷う事なく辿り着いたその食堂は、商店街の端の方、すでに人気のほとんど途絶えた辺りにあった。
「ここか……」
灰色をしたモルタル壁。古びて黒ずんだ木枠にガラスの嵌められた引き戸の手前には「大衆食堂みやまえ」と紺地に白抜きで書かれた暖簾が掛けられていた。その右に設えられたガラス張りの棚には、古臭いプラスチック製の料理見本が並んでいる。何気なく眺めた値札に書かれていた値段はまじまじと三回見直したほど安くて、これなら昼休みに通うのも悪くないかもしれないと、一瞬本気で考えてしまった。
なんとなく気後れして店の前でためらっていると、不意に盛大な音を立てて引き戸が引かれた。出てきた客らしい中年の男が暖簾に手をかけながら、店の中を振り返ってがらがら声を張り上げた。
「それじゃあ帰るわ。また来るぜ」
「おうよ。せいぜい儲けさせてくれ!」
「馬鹿言うんじゃねぇよ! ビール一本で三時間粘ってやる!」
「したら営業妨害で蹴りだしてやるよ!」
どら声がぽんぽん言葉を交し合う。それに重なるようにして、凛とした少女の声が響いた。
「ありがとうございました。また来てくださいね」
「おう。依ちゃんも仕事と勉強がんばれな」
「はい!」
どくんと、鼓動が一際大きく跳ねた。
思わず硬直した隆を、アルコールによるものであろう赤ら顔の男が妙な物でも見るような目で眺めながら通り過ぎる。その姿が商店街の雑踏に消えるのを待ち、大きく深呼吸した隆は胎を決めて暖簾を潜った。
がらがらがら、と耳障りな音を立てて扉を開くと同時に、「いらっしゃい!」という小気味良い女性の声が聞こえた。
外観から想像したとおり、内装も中々に年代ものだった。モルタル作りの壁には相撲の番付や観光地のペナント、それからビールのジョッキを手にした浴衣姿のモデルが微笑むポスターなどが貼られている。店の奥と客席を分けるカウンターの端にはこれまた古めかしいダイヤル式のテレビが置かれており、野球のナイター中継が映されている。四人がけのテーブルが左右に三つずつ並べられており、仕事帰りと思しい中年の男たちが席の半数ほどを占拠している。
けれど依子の姿がどこにもない。
さっきのあれは聞き間違いかと考えかけた時、奥の厨房から目当ての少女が顔を出した。
白地に薄い青のボーダーの入った長袖シャツと色の抜けたブルージーンズの上にシンプルな淡いブルーグレーのエプロンを掛けて、アップにした髪の上から白い三角巾巻いた依子は、新たな客が誰かを知ってぱっと顔を綻ばせた。