かぶ

Truly Madly Deeply - 05

 狭いところだけど、と苦笑しながら開かれた金属製の扉の向こうには、隆からすれば驚くほどに狭い空間があった。
 もちろん自分がどれだけ恵まれた立場にあるかは十分に承知しているから、自分の感覚を判断基準にするべきでない事などわかっている。けれど玄関から畳敷きの部屋の奥の窓までの距離が、どう目測しても二十歩分に満たないなどとは、正直思ってもいなかった。ここは板張りなキッチンは、本当に最低限の設備しかなく、それもかなり年代物だと一目で知れる。
「やっぱり驚いてる」
 先に靴を脱いで部屋に上がった依子は隆の顔を覗き込み、そこにありありと浮かぶ驚きを見て苦笑を深める。
「感想は後から訊くから、まずは上がって? あ、悪いけど鍵も閉めてもらっていい?」
「あ、ああ」
 言われたとおりに玄関の鍵を閉め、板張りの床に靴下のまま上がる。
「お客さんなんてめったにないし、いても院長先生や下のおばさんたちだからスリッパとかもないの。ごめんね」
「いや、別に気にしないし」
「そう? ならよかった。えと、奥で適当に座って。麦茶持っていくから」
 隆の答えにほっと息を吐きながら、一人分にしても小さい冷蔵庫を開く。自炊もしているのか、意外と中身は揃っているように見えた。
 こういった部屋の広さの測り方はよく知らないが、どこかで耳にした六畳一間という言葉が脳裏に浮かぶ。けれど、部屋自体は確かに狭いもののきちんと片付けられていて、ごちゃごちゃとしていたりせせこましいという印象はない。
 一番奥は、大きくも小さくもない木枠の窓があり、その左側は一面襖になっている。しかし、その向こうにあるのは別の部屋ではなく押入れなのだろうとは容易く想像できた。
 右奥にはシングルサイズのパイプベッドが置かれている。パイプベッドの枕元には背の低い本棚がサイドボード代わりに置かれていて、電気スタンドとアラーム時計、それから寝る前に読んでいるのだろう小説が載っていた。他には何も――パソコンどころかテレビやCDデッキ、ラジカセなどという、娯楽用品は一つとしてない。
 適当に座ってと言われたものの、座れる場所といえばベッドの手前に置かれているテーブルの傍しかない。少し考えてから、テーブルとベッドの間の隙間に座り込む。
 ともすればうっかりベッドに固定しそうな視線を無理やりキッチンの方へ向ければ、キッチンと部屋を隔てる襖一枚分の幅の壁の手前には、けっして大きいとはいえないサイズのチェストがあり、その上のハンガーラックには依子の制服が掛かっている。
 部屋に誘われた時から妙に現実感がなかったのだが、ここに来てようやく依子の部屋にいるのだと実感する。それと同時に、狭い部屋に二人きりだという考えが脳裏に浮かび、背中に感じるマットレスの感触がやけに生々しく思えて、隆は湧き上がってきた唾液を飲み下した。
「おまたせ。何かないかなって思ったんだけど、本当に何もなかったや。ごめんね」
「気にするなって。お茶出してもらえただけで十分だ」
 差し出されたグラスを受け取り、隆はそのまま冷たい麦茶を口の中に流し込む。それを見ながら依子は本棚側、隆の左に腰を下ろした。
「本当はさ、どこかでお茶でもとか言いたかったんだけど、このあたりのお店ってしまうの早いからいいところないんだよね。駅前まで出れば別だけど、さすがに時間が時間だからちょっとアレだし」
「確かに駅前まで出たりしたら、俺、峰倉送るためにまた戻ってくる事になってたと思う」
「うん。神沢君ならそうしかねないって思った」
「げ、俺の行動読まれてたんだ」
 大げさに驚いて見せると、依子が明るい笑い声を上げる。それにつられて隆も笑みを零した。一頻り笑った後で、不意に依子が何か面白いものでも見るような表情で隆に視線を止める。
「――それでさ、神沢君はどう思った? お店もここも、ある意味カルチャーショックだったんじゃない?」
「……まあ、確かに。こういう場所って、とっくになくなったもんだと思ってた」
 嘘を吐いたところで何の意味も成さないと、隆は正直に頷く。
「けど、食堂の飯は上手かったし、この部屋も峰倉らしくて、俺はいいと思う」
「そう? ふふ、そう言ってもらえると嬉しいな」
 照れたようにはにかみながら、依子はそっとグラスに口をつける。
「でも、本当にびっくりしてたよね。やっぱり神沢君の部屋って、ここの倍ぐらいあったりする?」
「……さぁ、どうだろう」
 短い返答に含まれた微妙なニュアンスに気づかない依子じゃない。グラスをテーブルに戻し、さらりと告げた。
「別に遠慮する必要ないよ? むしろ教えてもらった方が嬉しいし、正直興味あるんだ。ね、どれくらい広いの?」
「――なら言うけど……多分二倍どころか三倍近くあるんじゃね?」
「っ、三倍!? やだ、それって学院のおゆうぎ室レベルじゃない!」
「なんだよその比較。俺にはわからねえって……!」
 素っ頓狂な声を上げる依子に隆がたまらず吹き出す。まったく、どこまで彼女は予測不可なのだろう。
「だって、仕方ないじゃない。あたしには学院が基準なんだもん」
「まあ、分からなくもないけどさ、それでも学校の教室とかもっとわかりやすい例あるだろ?」
「……ちょっと待ってよ。それって教室ぐらい広いとか言う意味だったりする?」
「さすがにそこまでは」
 声を低めると隆は苦笑して肩を竦めた。けれど今の言葉では、暗にそれに近い広さがあると肯定したようなものだ。
 すでに羨むすら通り越し、呆れの方向に感情がシフトしてしまっている。返すべき言葉も見つけられず、依子は溜め息を一つ吐いた。
「本当にレベル違うなぁ。けどあんまり遠くないんでしょう?」
「まあな。駅二つだから結構通いやすい。峰倉の近さには負けるけど」
「近道使えば徒歩十五分だよ。走れば十分切るし」
 じゅっぷん、と目を丸くして、隆がしみじみと呟く。
「いいな、それ。朝ゆっくりできそう」
「お弁当とか作らなきゃだからあんまりゆっくりできないんだけど……あれ、神沢くん、もしかして朝弱い?」
「そういうわけじゃないけどさ。ほら、陸上部、朝錬あるから」
「ああ、なるほど」
 ふわりと笑ってお茶を口に含む依子の横顔を見つめていると、不思議な安堵感が隆を満たす。
 これは今にはじまった事ではない。依子と親しく話すようになってから、言葉を交わすたびに、彼女の笑顔を間近に見るたびに、苦しいまでの胸の鼓動と共に、自分に欠けていた何かを見つけたような、そんな不思議な安定を感じていた。
 そのためだろうか。依子の部屋でこんなふうになんでもない日常を話しているという非日常が、なぜかとても自然な事のように思えるのは。
 そんな事を考えているうちに、どうやらじっと見つめすぎていたらしい。どこか居心地悪そうにしながら、依子は隆の顔を覗き込む。
「神沢君、どうかした? もしかして疲れてる?」
「え? ――あ、いや、そうじゃなくて……その、この部屋、すごいシンプルだなって思ってさ。テレビもCDプレーヤーもないだろ。いつも何してるんだ?」
「え、普通に家事して勉強して本読んで……ぐらいかな」
 きょとんとした顔で返す依子に、隆は重ねて問う。
「……空いた時間とかは?」
「うーん、あんまりそういう時間はないんだけど、休みの日とかにはけっこう本読んでるかな。散歩にもよく行くし、時間が合ったら他の学校に行ったり就職した子たちと都橋(みやこばし)で会ったり。――まあ、それこそ本当に稀だけどね」
 みんなバイトとか仕事で忙しいから。そう苦笑する少女に、なぜか胸が締め付けられた。
「部屋の中さ、音しないと寂しくないか?」
 気が付けば、そんな事を口走っていた。自分の発言を振り返り、馬鹿な事を言ったと口を押さえる隆を、依子はしばらく無言でじっと見詰めていた。
「ごめん。変な事言った」
「ううん、気にしないで」
 目を伏せて謝罪の言葉を口にすれば、依子はふるふると頭を横に振る。
「確かにね、寂しいなって思う事はよくあるよ。ほんの二年前までは一部屋に四人で暮らしていたし、昼間なら小さい子達がたくさんいてむしろうるさく思う事もちょくちょくあったぐらいだもん。だけど甘えてばかりもいられないから、独りでいる事にがんばって慣れようとしているの」
 その言葉の哀しさに、隆ははっと視線を上げる。
 視線を上げて、寂しさの滲む、けれどどこか慈しむような依子の瞳を見つけ、静かに息を呑む。
「……神沢君も寂しいの?」
 その声は、驚くほどに静かで穏やかで、たった今までそうだと気づいていなかった隆にすんなりと頷かせる何かがあった。
「そっか。なら、一緒だね」
 お茶に口を付けながら呟く依子の横顔を、驚きの篭った視線で隆は見つめる。その視線に気づいてうん? と首を傾げる少女になんでもないと苦笑混じりに首を振りながら、依子とこんな風に時を過ごせる幸運を、しみじみと噛み締めた。