かぶ

Truly Madly Deeply - 12

 想いを伝え合ったからといって、隆と依子はこれまでとあまり変わりなく日々を過ごしていた。
 もちろん試験前という事で、あまり浮かれていられないという事情もある。けれどそれよりもむしろ、むやみやたらに周りから注目を浴びたくない。特に、依子は何かとやっかみを受けがちなのだから、隆と付き合いはじめたなどと知られれば、また風当たりが強くなりかねない。
 特別に隠すつもりもないけれど、あえて公にする必要もないと、二人の間で実にあっさりと意見が合致したのだ。
 ただし隆は、秀人と洋司にだけはこの事を伝えていた。周囲の噂により知れた場合、どんな目に合わされるかわからないからだ。
 そんな状況だからこそ、名前の呼び方も以前のままなら校内での接し方もまったく同じで、付き合っているにしてはむしろそっけないとさえ言ってもいいくらいの態度だった。
 けれどその分、二人きりの時間は以前よりも親密さを増していた。
 例えば。
 学校から依子の部屋に戻るまでを並んで歩く二人の距離が以前よりぐっと近づいて、時折手を繋ぐようになった。
 以前は見ているだけだったのに、簡単な事でもいいからと隆が夕食の準備も手伝うようになり、食後には食器を洗う隆の隣で依子が、綺麗になった皿を拭いて片付けるようになった。
 一息を吐く時間は肩の触れ合う距離で隣り合って座るようになり、ふとした瞬間、例えば視線が絡まりあった時などに、口付けを交わすようになった。
 ささやかだけれど確かな変化は、二人の心をより一層近づけていった。
 ――そんな変化が、もしかすると二人の意図しないところでもにじみ出ていたのかもしれない。
「峰倉さん、ちょっといいかしら?」
 試験を週明けに控えた金曜日の放課後、昇降口で靴を履き替えていた依子にそう声をかけてきたのは、見覚えのない三人の少女達だった。
「何ですか?」
「ここじゃ少し具合が悪いの。ついてきてもらえない?」
 問いかけの形をとりながらもその語調は明らかに命令形で、依子は内心でひっそりと嘆息する。
 この手のものには、慣れたくなどなかったけれど慣れてしまった。今回はどういう用件なのだろうかと考えながら、比較的素直に彼女らの後を追う。しばらく歩いてやってきたのは、奇も衒いもない体育館裏で憂鬱が更に深くなる。ますます碌な用事じゃない。
「……それで、一体何事なの? あそこで妙な騒ぎを起こすのはごめんだから見ず知らずのあなた達についてきたけれど、手短に話してくれないかしら。あまり時間がないの」
 清掃時間の終わりが近い。依子は今週清掃当番から外れているから、教室当番の隆より先に学校を出るはずだった。彼はきっと、掃除が終わればいつものようにスプリンターの足で待ち合わせ場所まで駆けつけるだろう。その時そこに依子がいなければ、彼はどう思うだろうか。
 かなり高い確率で依子の身に何かが起きたのではないかと心配してくれるはずだ。
 そして、依子の携帯電話にどうしたのかと訊ねるメールか、もしくはもっと直接的に電話がかかってくるはずで、それをこの少女らの前で受けるのは、あまり得策とは思えなかった。
 ……つまりはそういう事だ。素性が素性の癖して成績がいいなんておかしいという、むしろそっちの理屈がおかしいとしか言いようのないやっかみは一年前の一件以来綺麗になくなっている。だからこうした呼び出しがあるとすれば、それは隆と親しくしている事についてとしか考えられない。
 そして、その予測はまさしく正鵠を射ていた。
「あなたがそう言うならはっきり言わせてもらうわ。何を考えているのか知らないけど、さっさと神沢君から離れなさい」
「――――」
 言い草まで想像していたものとほとんど同じで、無意識にこめかみを押さえそうになるのを寸でのところで押しとどめる。
 代わりに溜め息を一つ吐いて、短く問うた。
「そんな事、どうしてあなた達に言われなきゃならないの?」
「決まってるでしょ! あんたみたいな女が神沢君にまとわりついてたら、神沢君の迷惑になるからよ!」
 少女のヒステリックな言葉にまた溜め息が漏れる。
 まったく、この子達は本当に何を見て何を考えているのだろう。隆は確かに人当たりはいいけれど、こうと決めれば自分の意思をけっして曲げない頑固者だというのに。その彼が、迷惑だと思う相手に好き勝手群がらせると思っているのだろうか。
 呆れはてて反応を返せずにいるのを怯んでいるとでも思ったのか、彼女らはどこか得意げに鋭い言葉を次々と放つ。
「あんたの魂胆なんか見え見えだっての! どうせなんとか神沢君に取り入って玉の輿にでも乗ろうとか思ってるんだろ! そんなの無理無理、ありえないから!」
「ま、なれてせいぜい愛人? ――あ、もしかしてはじめからそっち狙ってた? そりゃそうよね。その方が色々と楽だもんね」
「にしても本当に身の程知らずだわ。成績はいいけれど世間ってものがわかってない。男って、頭ががちがちに固い優等生なんかより、男心をくすぐる様な可愛らしい女の子に引かれるものなんだから」
「そうそう。だからさっさと諦めて身引いてよね。どうせ神沢君もあんたの相手してるのは同情と好奇心でなんだから。すぐに飽きられるに決まってる。だから今後は二度と彼に近づかないで。話をするのも許さないから!」
「てゆーかこの学園から出て行けよ。金もないくせにあたし達の親の金のお零れで通ってるくせに。お情けで通わせて貰ってる分際で、神沢君にまで変な色目使うなっての。マジ、あんた面の皮厚すぎ」
「あんたみたいな女には、そこら辺の公立校がお似合いよ!」
 低俗がすぎる言葉達を右から左に聞き流しつつ、また一つ溜め息を吐く。
 ちらりと腕時計に視線を落とせば、すでに清掃時間が終わってから五分以上過ぎていた。きっと今頃、隆は待ち合わせ場所に着いている頃だろう。
 さっさとこの場を抜け出さなくてはいらない心配をかけてしまう。
 けれど、彼女達はあまりにも言葉が過ぎた。依子は自分の事なら何を言われても別に構わなかった。けれど彼女達は隆をも侮辱する言葉を吐いた。それが許せない。これ以上相手をしていたら、きっと怒りを表に出してしまう。
 こんな幼稚な相手に感情的になるのは、絶対に嫌だった。
「……言いたい事はそれだけ? なら気が済んだでしょう? 帰らせてもらうわ」
 疲れの滲む声でそれだけを告げて包囲を抜け出そうとする依子の腕を、少女の一人が捕まえた。
「あんたさ、あたしらの言葉、ちゃんと聞いてたの!?」
「この距離であれだけの声だされて聞こえないはずないでしょう」
「だったらあたし達の言葉に従うって言いなさいよ」
 意気高に命じる少女の言葉に、依子はすっと目を細めた。
 話を聞けというだけなら聞いてもいい。ただし、従えと言われて従う理由はない。
 何より依子は、言いたい放題言われてすごすごと引き下がるようなおとなしいタチはしていない。自分が正しいと思っている場合なら尚更だ。
「どうして、あたしが、あなた達の言葉に唯々諾々と従わなければならないのかしら」
「そ、んなの、決まってるじゃない! 私達が正しいからよ!」
「へえ、そう。なら、どこの誰が正しいって決めたの?」
「常識で考えればわかるでしょ!」
「常識? それは誰にとっての常識かしら。個人の主観を勝手に一般化するのはどうかと思うのだけれど」
「あんたは貧乏人だからわからないのよ! ハイソサエティなあたし達だから知ってる常識なの」
「そう。けれど知ってるかしら。『ハイソサエティ』なんて自分を呼べる人間は、この日本じゃむしろマイノリティなのよ。常識は一般大衆が共通して持つ価値観であって、マイノリティの間にだけ通用する固有価値は一般的な観点から言えばむしろ非常識なのよ」
 ヒステリックな少女達に対し、依子は実に冷静だった。こういった状況では、熱くなった方が負けるのだと、これまでの経験から知っていた。
「それに公立校が私立校より劣るような言い方をしていたわよね。そうね。確かにこの如月学園高等部は、偏差値レベルが高いのは認めるわ。だけど大抵の私立校はむしろ公立校の滑り止めとして使われているのよ? それどころか、授業料の問題やレベルの問題もあって、定員割れしている学校だって少なくない。何よりあなた達が今この学校に通っていられるのは、小さな頃からご両親が大枚を叩いてこの学園に通わせてくれていたからでしょう? 最低限の成績さえ保っていたから自動的に上がって来れたというだけじゃない。なんなら一度、高等部入学試験を受けてみる? あなた達が試験でどのレベルにいるかは知らないけれど、合格できる自信があるからさっきみたいな事を言ってのけたのよね?」
 淡々と言葉を綴る依子に、少女達は一様に押し黙る。
「特待生制度にしても、そんなに自分の親のお金を他人に使われるのが嫌なら、まずは自分が親のお金を使わないようにすればいいんじゃない? あなた達が特待生になれば、ご両親毎年三百万円近い出費を抑える事ができるの。三年通えば一千万円近い金額になるけれど、その負担を少しでも軽減しようとは思わないのかしら? ……確かにあたしは学園に学費諸々を負担してもらっているけれど、その分の義務はきちんと果たしているわ。『優等生』の座を保つ事でね。だけどあなた達は? ご両親にそれだけの金額を払ってもらうだけの何をしているの?」
「――う、うるさいわね! 黙りなさいよ!」
「自分は言いたい放題言っていたのに、あたしには言わせてくれないの? 不公平もいいところね。それに、あたしを貶すだけならまだしも、神沢君を貶めるような言葉、よく口にできたわね。あなた達、一体彼の何を見ているっていうの? 本当の彼を少しでも知っているなら、さっきのような事、言えるはずない!」
「~~~~だからっ、黙れって言ってんだよ!」
 怒りに顔を真っ赤に染めて、少女が手を振りかぶる。咄嗟に身を引けば、ほんの一秒前まで顔のあった位置に鋭く風が走った。
「避けるんじゃないわよ卑怯者!」
 避けられた事で更に怒りを募らせたらしい少女は、掴みかからんばかりの勢いで依子に迫り、彼女に感化されてた残りの二人もそれぞれに手を伸ばしてきた。
 この状況はさすがに危険だと、さすがの依子が焦りを感じはじめる。
 何とか突破口を開けないかと周囲を見回した時、思いも寄らない姿がこちらへと駆けてくるのが見えた。