かぶ

Truly Madly Deeply - 11

 一緒に試験勉強を始めてから、早くも一週間が過ぎていた。今日は水曜日で「みやまえ」の定休日だから、当然今夜の夕食は、全てが依子の手によるものだ。
 帰る道すがら、魚屋で安くするからと声をかけられて買った鯛の煮付けをメインに、鳥のささ身が入った切干大根と冷奴、それからわかめとふのお味噌汁に炊き立ての白ご飯が狭いテーブルの上に並んでいる。どれもが薄めの味付けで、濃い味付けに慣れている隆にはほんの少し物足りなく思えたけれど、美味である事に違いはない。
 食事は作ってもらっているのだからと押し切って、食後の後片付けは隆が一手に引き受けている。それが終わった後は、少しだけのんびりしてからまた勉強に戻るというのがすでに習慣になっていた。
 今も、畳の上で胡坐をかいて冷たい麦茶を飲みながら特に何をするでも話すでもなく、ぼんやりとした時間を過ごしている。
 一体どれくらいの確率で手に入れた幸運なのか、一年近く片思いを続けている相手と一緒に時間を過ごしているだけでなく、その相手の家に上がる事を許され、更には手料理まで食べさせてもらっている。依子の警戒心の無さに、自分が男として見られていないのではという考えが時折頭をよぎらないでもないが、それにしても……
「……俺、甘えすぎだよな……」
「え?」
 依子のきょとんとした声に、うっかり考えが言葉になって出ていたのだと気づき、隆ははっと口を押さえた。
 そんな不審な態度を依子が見過ごすはずもなく、冷たい麦茶の入ったグラスをテーブルに戻していぶかしげに眉をひそめた。
「神沢君?」
「あー、いや、その……なんかさ、俺、峰倉に甘えすぎてる、ような気がして」
 ただの独り言だと、ごまかそうと思えばごまかせた。そうせずにあえて口を開いたのは、依子がどうして自分をこんな風に受け入れてくれるのかを知りたいという気持ちが強く前に出てきたからだ。
「本当は前から思ってたんだけどさ、俺、峰倉が構わないって言ってくれたからって、来すぎだよな? また来てもいいって峰倉は言ってくれたけど、本当は社交辞令のつもりだったんじゃないか? だけど俺が本当にまた来たがったから、来ていいって言った手前断れなくなったんじゃないか?」
「そんな事……」
 驚いたように目を瞠りながら、依子が隆の言葉を否定して首を振る。
「峰倉優しいな。でも、優しすぎると俺、増長するよ? だから今も峰倉の都合なんか考えずに入り浸ってるって自覚はあるのに、図々しく勉強教えてもらったり夕飯食わせてもらってるし」
「……試験勉強はともかく、晩ご飯については材料費を神沢君が払ってくれてるじゃない。食べた後の片付けもしてくれてるし。それにね、あたし、嫌な事はとか迷惑な事は、きちんと嫌だし迷惑だって言うよ?」
 律儀に隆の言葉を否定しながら、どうしてそんな事を言うのだろうと、依子の表情が語っている。その表情は隆に僅かな安堵を与えたけれど、一度解き放たれた疑問は止まらない。
「それは、わかってる。けど……こんな事言ったら自意識過剰が過ぎるって引かれるかもしれないけどさ、この間から俺が使わせてもらってる箸とか茶碗とかって、俺のために買ってくれたんじゃないのか?」
「――ど、うして……?」
 ぴたりと依子が表情を止める。それは、明らかに隆の言葉を肯定していた。
「最初は元からペアで揃えていたのかって思ったけど、考えてみたら峰倉、二人分も食器要らないだろ? 学院の院長先生や下のおばさんがたまに来るって言ってたけど、俺の使ってる食器はどう見ても一度も使われてない真新しさだったし」
 違うのか? と、視線で問いかける。その視線に、依子は沈黙したまま小さく頷いた。そのささやかな肯定に、隆は思わず破顔する。
「そんな顔されると、俺、また図に乗って甘えるけどいいのか? ていうかどうして峰倉は、俺をこんなに甘やかしてくれるんだ?」
 一番訊きたかった事を口にして、まっすぐに目の前の少女を見つめる。
 やけに長く感じられた沈黙を経て、戸惑いと逡巡に瞳を揺らしていた依子はまっすぐに隆を見つめ返した。
「……なら、先に訊かせてもらってもいい? どうして神沢君は、あたしに声をかけてくるの?」
「へ?」
 唐突な問いかけにたじろいで、隆は思わず目を瞬かせる。
「はじめはね、あたしの出身を知った事で同情と好奇心を持ったのかなって思ったの。――うん、そうじゃないって事はちゃんとわかってるよ。だって神沢君、他の人達と違っていつでもまっすぐに感情を見せてくれるから、そうじゃないんだってすぐにわかった」
 否定の言葉を発しかけた隆にふわりと笑いかけて、依子は言葉を続ける。
「この部屋に来る事を咎めないのもね、初めて来た日、部屋で一人だと音がしないと持たないって言ったでしょ? だから、一人の部屋で過ごすよりはあたしの部屋で誰かの気配を感じてる方がいいかなって思ったの。……だけどさ、考えてみたら神沢君には三好君や刑部君がいるんだから、別にわざわざあたしの部屋で時間を潰さなくてもいいはずなんだよね。だからわからなくなったの。どうして神沢君がうちにくるのか」
 今は試験勉強のためだからってわかってるけどね。そう締めくりながら浮かべられた微笑がどこか寂しげで、気が付けば隆は僅かに身を乗り出していた。
「――んなの、俺が峰倉と一緒にいたいって思ってるからだろ」
「え……?」
「そうでなきゃ、理由もないのに週に何度も押しかけたり、試験勉強なんて理由をつけてまで峰倉と時間を持とうとするはずないだろ。この際だから言わせてもらうけど、夏休みに入ってからもここに来るための上手い言い訳はないかって、ここ最近ずっと考えてる。毎日来てもおかしくないくらい切実な理由をこじつけられないかって。それも、できれば峰倉の手料理食わせてもらえる方向で」
 依子の部屋に来るようになってから――いや、依子と頻繁に言葉を交わすようになって以来、自分の本心に気づかれていたらどうしようかという微かな怯えと、もしかしたら気づいた上で受け入れてくれているのかもしれないという淡い希望が心の中でもやもやと燻っていた。
 けれど勢いに任せて言葉を口にしたとたん、燻っていたものが一気に昇華された。
 心臓がうるさいくらい高鳴っているけれど、ここまでくれば、もう、怖いものなんてない。
「峰倉、俺は峰倉の質問に答えたよな。だから、俺に峰倉の答えを聞かせてほしい」
 曝された隆の思いを息を呑んで受け止めていた依子を真正面から見つめて真摯に乞う。
 ゆっくりと瞬きを繰り返し、投げられた言葉が自分の中で消化されるのを待って、依子は揺れたように呟いた。
「や、だな。そんな事言われたら、妙な期待、しちゃうじゃない」
「……妙な期待ってのが俺のしてほしい方向の期待なら応えるつもりだから、いくらでもしてくれてかまわないけど」
 目には見えない防衛線が引かれたのを知り、隆はあえて更に踏み込む。からからに乾きかけた口の中をなけなしの唾液で湿らせて言葉を紡ぐ。
「俺も俺でしてるんだ、峰倉が言う妙な期待ってやつ。峰倉が俺の事、どこまでも甘やかすから、もしかしたら峰倉も俺と同じなのかなって」
 自分が口にした遠回しな表現を使って示されたまっすぐな隆の思いに、依子は息を呑んで目を見開く。
 隆はゆっくりと深く呼吸をして、はっきり告げた。
「峰倉が好きだ。だから一緒にいたいと思う。峰倉は俺のこと、どう思ってる?」
 今度こそ、完全に呼吸が止まった。
 依子はこれ以上にないほど目を開いて、動く事もできずに隆を見つめている。
 ここまで顕著な反応を返されてしまうと、ほんの数秒前まで心を満たしていた希望が過ぎたものだったのではないかと怖くなる。さっきまでとは違う意味で口の中がからからに乾き、自分でも情けないと思うほどに掠れた声で、隆はそっと呼びかけた。
「峰倉?」
「……っ」
 隆の呼び声でようやく現実に立ち返ったらしく、肩で大きく息をする。それから一拍をおいて、依子は顔を伏せた。そんな反応をされてしまっては、今の隆にはネガティブにしか受け取れない。感情が先走りすぎただろうかと、胃が引き絞られる。
 駄目なら駄目で今はいい。ただせめて、これまでと同じように過ごす事を許して欲しい。
 その一念だけで、隆は口を開いた。
「……ごめん。突然すぎたよな。答えとかは別に後でもいいし、そういうつもりがなかったなら、はっきり言ってくれてもかま――」
「違う! そうじゃないの! ただ、びっくりして……どう反応していいかわからなかっただけなの!」
 言葉が終わるより先に、初めて聞く強さで依子が声を上げた。
「み、ねくら……」
「ずっと、そういうつもりがないのは、神沢君の方だって思ってたの。だからずっと期待しちゃだめだって言い聞かせてたのに……」
 だんだんと尻すぼみになる言葉に、自然と隆の顔が綻ぶ。
「それって、峰倉――」
 自分の口にした言葉の意味に改めて気づいたのだろう。再びぴたりと動きを止めた依子の顔が一気に赤く染まっていく。つられたように頬が熱くなるのを感じながら、隆は速くなる呼吸をぎりぎりのところで押し留める。
「峰倉、頼む。峰倉の口から聞きたいんだ。俺の勝手な思い込みじゃないんだって」
 あからさまに期待に満ちた声と隆の表情に、依子はとうとう困った様子で呟いた。
「――本当に、神沢君には勝てないな……」
 そして何かを振り切るように大きく息を吐くと、いつもの凛とした表情に戻り、まっすぐに隆へと視線を向ける。
「あたしも、神沢君が好き」
 飾らないシンプルな言葉は、だからこそ依子の真実なのだとわかる。
 頭に、心に、言葉が実感として染み渡る。
 嬉しさが先立って、何も考えられなかった。
 気が付けば身体が動いていた。
 腰を浮かせ、力なく床に置かれていた依子の手に触れて、素のままでも自然な紅梅色の唇に、自分の唇を重ねた。
 口付けた刹那、依子の身体に緊張が走ったのがわかった。それでも離さなかったのは、そうするより先に、まるで隆を受け入れるかのようにその緊張が解かれたから。
 そっと唇を離して初めての距離で見つめあい、照れくささに微笑みが零れた。
「好きだ」
 心のままに気持ちを口にして依子の肩に顔を埋める。
 腕の中にすっぽりと包みこめる細い背中をテーブル越しに抱きしめて、同じくらい速い二人の鼓動をじっと感じていた。