かぶ

Truly Madly Deeply - 10

 ついでだからと商店街で買い物も済ませてやってきた依子の部屋で、手持ち無沙汰な隆は定位置となって久しいベッドの前に胡坐をかき、小さく息を吐いた。
 聞こえないだろうと思っていたそれは、けれど依子の耳にちゃっかり届いていたらしい。手際よく買ってきた品を冷蔵庫にしまい終えた依子は、顔に困ったような笑みを浮かべて隆を振り返った。
「やっぱり疲れちゃった?」
「いや、疲れたっていうか……驚いた。峰倉、すごい人気者なんだな」
 また息が一つ漏れる。
 日常的な買い物をすると言えば、総合的に何でも揃っている大型スーパーやショッピングモールのある都橋まで足を伸ばすのが当然だと思っていたし、そうでなくても駅前にある比較的メジャーなスーパーを利用していた。だから個人商店での買い物というのは、今日が正真正銘初めてだったのだ。
 自分では料理はしないから野菜や肉などの目利きもできなければ相場も知らない。けれどそれらの店で売られているものはやけに安く思えたし、新鮮さにも違いがあるように見えた。
 けれどそれより何より隆を驚かせたのは、どの店の前で立ち止まっても、買い物客のおばちゃんや店の店員が親しげに依子に声をかけてくる事だった。
「まあ、最近はあたしぐらいの年齢の子達が減ってきてるしね。……けど、今日は神沢君も原因だと思う」
 そう言いながら部屋へと戻ってくる依子に、隆は苦笑を浮かべる。
 事の起こりはいつも一人で買い物にくる依子が、同じ制服を着た少年と店に立ち寄った事にある。しかも一番最初に足を止めた八百屋の親爺の声が、この商店街でも一二を争うと言われるほど大きいため、驚きに目を見開きながら「兄さん、依子ちゃんの彼氏かい!?」と張り上げた声が周囲に響き渡ってしまったのだ。
 うっかり二人して顔を赤らめてどぎまぎと挙動不審に陥ってしまったせいですぐに否定できなかったため、あっという間にこのネタが広がってしまった。しかも買い物をするたびに隆が支払いをしたものだから、どんなに否定しても笑ってからかわれるばかりだった。まあ、そのかわりというかなんというか、どの店でも何かとおまけをしてくれたおかげでしばらくは買出しの必要がなくなったのだけれど。
「……けど、たくさんおまけしてもらえたからいいんじゃないか?」
「んー、それは別にいいんだけど。……多分神沢君、これから商店街通るたびに声かけられちゃうよ?」
 隣に座って少し低い目線から、それでもいいの? と訊いてくる彼女に隆は軽く肩を竦める。
「俺は構わない。けど、峰倉こそいいのか?」
「あたしはそれこそ慣れてるもん。それにみんな、悪意があるわけじゃないし」
 さらりと語られた言葉に隆が僅かに表情を歪める。それに気づきながらも依子は敢えて言及はせず、テーブルの足元に置かれている鞄へと手を伸ばした。
「それよりさ、試験勉強、どんな風にする? 勉強プランとか立ててるならそれに合わせるけど」
「……特には決めてないんだ。峰倉はいつもどうしてるんだ?」
「あたし? あたしは基本的に一日二教科ずつ復習してるかな。副教科については空き時間に教科書を眺めておいて、後は前日と直前に暗記……ってところ」
 うーん、と唸りながら述べられた計画に、なるほど、と隆が頷く。
「じゃあ、俺もそれに合わせる」
「え、いいの?」
「だって俺、プラン立ててそのとおりにできたためしないし。だから峰倉のやりたいようにやってくれたらいい」
「そう? じゃあお言葉に甘えようかな……」
 そこまで言って言葉を切り、どこかためらいがちに依子は訊ねた。
「えとね、確認なんだけど、もしかしなくても神沢君、毎日来る?」
 その問いかけは密かにいつ訊かれるかと身構えていたもので、隆は緊張に鼓動が早くなるのを感じながら返した。
「俺としてはそうしたいんだけど……やっぱ迷惑だよな?」
「あ、ううん、そうじゃないの。ただ、一応確認しておきたくて」
「本当に? 俺、図々しい事言ってるのは百も承知してるから、迷惑ならきっぱり言ってくれて構わないぜ?」
 真剣な顔で重ねて問えば、依子はきっぱりと首を横に振った。
「迷惑なんかじゃないよ。迷惑だって思うくらいなら、はじめから断ってる。だから気にしないで」
 にっこりと笑ってそう言われてしまっては、これ以上反論できるはずもない。けれど、そんな考えより何よりまず安堵が先立っていた。
「そっか。そうだよな。じゃあ、遠慮しない事にする」
 ほっと息を吐いてそう言えば、
「うん、そうして」
 と、依子も穏やな笑みを浮かべて頷いた。

* * *

 五時半を過ぎた頃、依子が「みやまえ」に夕食を受け取りに行くと立ち上がったのをきっかけに、隆も一旦教科書を閉じた。一時間半もほとんど休みなしに勉強していたせいで、肩やら背中やらが硬くなっている。うーん、と唸りながら軽く柔軟をすれば、ぼうっとなっていた頭もすっきりと晴れた。
 時々どうしてもわからないところを隆が依子に訊く以外はほとんど言葉を交わす事がなかった。けれど基本的な勉強の仕方が似通っているし、何より二人とも集中力がある方なので、互いの存在がそんなに気にならなかった。
 台所からは、トントントントンと、小気味良い包丁の音が聞こえてくる。
 「みやまえ」に行く前に浴室で着替えたから、今の依子はシンプルなオフ・ホワイトのTシャツにジーンズを着ていて、いつもならそのまま背中に流している髪を、首の付け根で一つにまとめていた。
 ほとんど迷いなく動く依子を眺めているうちに調理が終わったらしい。トレイに皿を載せて運んでくる依子を見て、隆は立ち上がった。
「運ぶの手伝うよ」
「これくらい別にいいよ。すぐの距離だし」
「でも、なんか悪いから」
 ほとんど問答無用でトレイを受け取り、隆は勉強道具を片付けて布拭きしたテーブルの上に料理を並べていく。空になったトレイを手に台所に戻り、流し台横の空きスペースに並べられていた料理を載せて部屋へと運ぶ。どうやらこれで全部揃ったらしく、隆の後を麦茶のボトルとグラスを二つ持った依子がついてきた。
「手伝ってくれてありがとう」
「これくらい、手伝ったうちに入らないって」
 お礼の言葉を述べる依子に笑って手を振り、隆は腰を下ろす。
 テーブルの上には、二人分には十分すぎるほどの料理が並んでいた。
 五目そうめんにしらすおろし、ひややっこ、ひじきが「みやまえ」のメニューのようで一皿ずつしかなく、高野豆腐の他人とじと出し巻き卵、グリーンサラダ、それからご飯と味噌汁は二人分あった。
「うわ……なんか豪勢な気がする」
「気、だけだよ。だってどれもこれも庶民メニューだもん。それに、大した料理じゃないし」
 隆のコメントに依子が苦笑を漏らす。けれど隆はそんな事ないと首を振った。
「峰倉は知らないだろうけど、中等部ん時にも調理実習があったんだ。それがマジに地獄でさ……」
 大げさな言葉に目を瞠り、依子は率直に訊き返す。
「地獄って、何があったの?」
「……二学期になれば嫌でもわかると思うけど、ほら、うちって家庭科のカリキュラムが中等部も高等部も一年が手芸工作、二年が調理実習になってるだろ。高等部じゃ男子は技術だから免れてるけど、中等部は男女合同だったから俺らもやらされたわけだ」
「うん」
「で、うちに通ってる奴らでまともに家事手伝いした事ある奴は男子だけでなく女子にもほとんどいないんだ。つまり、中二の調理実習で正真正銘生まれて初めて包丁握る連中ばっかりだったってわけ」
 はぁ、と大きな溜め息を吐き、隆は言葉を続けた。
「……ここまで言ったら多分想像付くと思うけど、材料を切ったら指も切る、炊飯器に米だけ入れて炊こうとする、炒め物を作ろうと思ったら火傷する、塩と砂糖を間違える、煮物は焦げるか火が通らないってな状況だったんだよな」
「そ、れは……確かに酷いね」
「だろ? だから峰倉、マジで覚悟しておいた方がいいぜ。一歩間違ったら、全部一人で作らされるハメになりかねない」
「あはは、それは確かに有り得そう。それじゃ、今から心しておきましょう」
 茶目っ気たっぷりに頷く依子に苦笑を返しながら隆は両手を合わせる。いつになく神妙な顔で「いただきます」と口にして、依子謹製と思われる高野豆腐の他人とじへと箸を伸ばした。
「……美味い」
 ぽつりと漏らした言葉に、依子がふわりと顔を綻ばせる。
「神沢君の口に合ってよかった。誰かご馳走するってはじめてだから、実は緊張してたんだ」
「マジ? じゃあ俺、峰倉の手料理食うはじめての人?」
「うん。それこそ中学校での調理実習を除けば、だけどね」
「――うわ、どうしよう。なんかすごい嬉しい」
 心底からの気持ちだった。こうして依子と一緒に食事をしているというだけでも嬉しいのに、食べているのが依子の手料理で、しかも誰かに食べさせるのが初めてときて、嬉しくない男がいるものか。
 嬉しさのあまり黙々と食べはじめた隆を依子は穏やかな眼差しで見つめ、それから手を合わせていただきますと小さく言った。