Truly Madly Deeply - 09
その前の二週間、すなわち六月の第三週と第四週については試験準備期間とされ、全ての部活動、および委員会活動に最低限の自主練習のみ許可という制限が敷かれ、自主練習の域を超えた活動は全て禁止される。その代わり、清掃時間が終わってから通常の部活動終了時刻である十九時半までは主要教科の教師が待機しており、教室や図書館、自習室にて勉強している中でわからない事が出てきた場合にも、直接教師に質問ができるようにと体制が整えられている。
期末の予定や範囲もこの準備期間に入ると同時に発表され、学園は試験勉強一色に染まるのだ。
試験準備期間一日目のその日、清掃活動も終えて帰宅しようとした依子の携帯に「今日から試験勉強いいか?」と、隆からの短いメールが届いた。
「……神沢君、本気だったんだ……」
隆がこういった冗談を好まないと知っているつもりではあったけれど、たった今までどこか真剣に信じきれていなかった。この週末の間に、隆が勉強をしにやって来る時のためにと色々準備していたにもかかわらず、だ。
「うー、なんだかそのうちバチが当たりそう……」
困ったような口調で呟きながらも自然と頬が緩んでしまう。結局、なんだかんだ言ったところで嬉しい事に変わりはない。とりあえず、「了解です。ところで何時に到着予定ですか?」と返信し、ポケットに携帯を仕舞おうとしたところで着信音が鳴り出した。
「わっ……って、神沢君!?」
彼がメール以外で連絡をしてくるなんて初めての事で、依子はほけっとディスプレイを凝視する。しかし、すぐにぼんやりしている場合ではないと我に返り、慌てて通話ボタンを押した。
「も、もしもし?」
『あ、峰倉?』
「うん。神沢君だよね?」
『そう、俺。あのさ、峰倉、今どこにいるんだ?』
「あたしは教室出たところだけど……」
『そか。俺、陸上部の自主練メニュー貰いに行くところなんだ。すぐに終わると思うから、途中で待っててくれないか?』
「とちゅう?」
鸚鵡返しに言う依子に、電話の向こうで隆がだからさ、と言葉を継ぎ足した。
『どうせなら、一緒に帰らないか? 夕食作ってもらうからには買い物にも付き合いたいし』
『――――』
半ば以上決死の覚悟で隆が告げた言葉に対して返ってきたのは、通話が切れたんじゃないかと不安になるほど長い沈黙だった。
「ええと……峰倉? まだ繋がってるよな?」
『あ、うん、繋がってる。……ごめんね、ちょっとびっくりしちゃって……。えと、あたしはいいよ。どこで待ってればいい?』
そんなに驚くような事だっただろうかと考えかけ、自分自身がこの申し出を受けてもらえると思っていなかった時点で、依子にとっては十分すぎるほど驚くべき事かと苦笑する。けれどそんな思いは胸中に押し込めて、何気ない素振りで逆に訊き返した。
「えーと……待ち合わせによさそうなところってどこだ?」
『んー、そうだな。前に描いた地図のルートでいつも来てるんだっけ?』
「俺、その道以外知らないし」
『そうだよね。じゃあさ、目印にしていたお地蔵さん、わかる?』
「わかる」
『なら、そこで待ってる。せっかくだし、近道も教えるね』
「わかった。じゃあ、先行ってて。十分か十五分で追いつくから」
『ん。待ってるね』
その言葉を聞いて、隆は終話ボタンを押す。歩きながら話していたおかげで、陸上部の部室は目の前だった。
「失礼します。自主練メニュー、貰いにきました」
部室の中ではキャプテンの矢部が、広いテーブルに腰掛けた状態で難しい顔をして何かのプリントを眺めていた。ドアを開けて隆が入ってくるのを見て、ほんの少し表情を和らげる。
「ああ、神沢か。わざわざ来させて悪かったな。お前のは……ああ、これだ」
クリアファイルに挟まれた紙の中から抜き出した一枚を、矢部は隆へと差し出す。
「本当は昨日渡そうと思ってたんだけど、うっかり持ってくるの忘れてさ。データも家だったから、ここで直接出す事もできなくてな……」
「これくらい別に構いませんよ。ところでキャプテン、今日他のみんなは?」
「何人かはもう取りに来ているけど、大半はまだだ。多分ノートコピー頼むために走り回っているんじゃないか?」
にやりと笑う矢部の言葉に、隆もそっと苦笑する。
中等部から持ち上がってきたエスカレーター組の連中は、高等部に入って一気に厳しくなった成績評価に対しても、どこかで「まあ、最後にはなんとかなるさ」と甘い考えを持ちがちで、日ごろから授業にしっかり集中しているとは言いがたい。それゆえいざ試験が近づくと、真面目に授業を受けている知り合いの板書ノートをコピーさせてもらうため、学園中を駆けずり回るハメになるのだ。
比較的真面目に授業を受けている隆はどちらかといえばコピーをさせてくれと頼まれる側だが、交友関係が狭いため、頼まれる事はめったにない。二年になって進路別にクラスが分けられた事で、文系クラスに入った隆と理数系クラスに入った洋司や秀人では、同じ科目を習っていても教師が異なるからノートを見せたところであまり意味がない。
学年が上がった時に陸上部の先輩方からまとめて譲り受けた過去問に理数系クラスで教えている教師のものも混じっていたから、それは横流ししようと思っている。まあ、秀人もバスケ部の先輩から過去問を貰っているだろうからその必要はないかもしれないが。
「じゃあ、キャプテンは全員来るまでここで待機ですか?」
「そうなるな。ま、仕方ないからここで試験勉強のプランでも立てとくさ」
「勉強はしないんですか?」
「あのな、絶対邪魔が入るってわかってて、勉強なんかできるはずないだろ。だから、邪魔されてもムカつかない事をしておくんだ」
「ああ、そういう事ですか」
矢部の答えになるほどと頷いて、隆は自主練プランの用紙を鞄にしまい込む。ついつい世間話に興じてしまったけれど、本心は少しでも早く依子に合流したいのだ。
「では、俺は帰ります」
「おう、またな」
「はい。失礼します」
ぺこりと一礼して部室を出た隆は、ちらりと腕時計に視線を向ける。思っていたほど時間は経っていない。もしかすると、急げば途中で依子に追いつけるかもしれない。
校庭に出ると同時に軽くスタートダッシュを切り、ぞろぞろと校門に向かう生徒達の間を縫って駅に向かう人の波から外れる。すでに通いなれた道筋を車や通行人に気をつけながらも駆けていると、前方に如月学園の制服を着た少女の背中が目に映る。
それが依子だと、隆にははっきりとわかった。
別に特別な第六感が必要だというわけじゃない。この暑い中、束ねる事もせずさらりと背中に流された長い黒髪。珍しいほどにぴんと伸ばされた背筋。ふらふらと迷う事のない足取り。そのどれもが、彼女が依子である証に他ならない。
ラストスパートをかける刹那、隆は迷わず彼女の名を口にした。
「峰倉!」
突然後ろから掛けられた声に、依子は足を止めて振り返った。
「神沢君?」
転がるような勢いで走ってくる少年に目を丸くして、彼が自分の元にやってくるのを待つ。
ほとんど急ブレーキの勢いで止まり、膝に手を突いて荒い息を整える隆を見下ろして、依子は驚きのままに口を開く。
「やだ、そんなに急がなくてもよかったのに」
「けど、あんまり、待たせたく、なくて。それに……早く、会いたかったし」
日に焼けた肌を玉のような汗が滑り落ちる。それを拭おうともせず、顔を上げてそう返した隆の笑顔に、どうしようもなく胸が締め付けられる。
「……あたしなら、いくらでも待ってたのに」
すんなりと零れた依子の本心に隆が一瞬目を瞠る。
「峰倉ならきっと待っててくれるって思ってた。でも、俺が嫌だったんだ」
「神沢君……」
ようやく呼吸を落ち着かせた隆は腰を伸ばして、なんと言葉を返せばいいのかと戸惑う依子に微笑みかけた。
「それじゃ、帰ろうか」
帰ろう、という言葉に、また、鼓動が跳ねる。
そんな言い方をされては、今から向かうのが二人で暮らしている部屋のように思えてしまうではないか。まったく――どうして彼はこんなにも罪作りなのだろう。
じっとその場に突っ立ったまま動こうとしない依子を振り返り、いぶかしげに隆が呼ぶ。
「峰倉?」
「……ううん、なんでもない。そうだね、帰ろうか」
軽く頭を振ってそう返し、依子は隆の隣に並んで歩きはじめた。