Truly Madly Deeply - 08
あの日、帰り際にまた来てもいいかと訊ねられて、依子は躊躇なく頷いた。正直、働いている姿を見られるのは少し恥ずかしかったけれど、学校以外で隆に会えると考えれば、それくらいは些細な事に思えた。
次に来るのはいつだろうと抱いた期待が報われたのはその週末で、今日また寄ってもいいかな、と昇降口で隆が声をかけてきた時には、嬉しさのあまり一瞬夢じゃないかとスカートの上から太ももを抓ってしまった。
周囲の目が自分達に向けられていると気づき、部活帰りに立ち寄るかどうかの連絡を口頭でではなく携帯メールでにしようと提案したのも隆だった。あまり目立つ事をすると、隆ではなく依子がやっかまれるのだと察しての事らしい。彼とプライベートに連絡を取り合えるようになった事を喜ぶと同時に、気を遣ってくれる隆の優しさがとても好もしく感じられた。
予想していたより頻繁に会いに来てくれるようになった隆にはじめこそ戸惑ったものの、依子がそれを厭うはずがない。……まあ、時々「みやまえ」のおじさんやおばさん、それから常連客達にからかわれたりするのだけれど、それは些細な事でしかない。結局、依子は隆と二人で過ごせる時間が嬉しくて仕方がないのだ。
そして今日も、そんな風にして隆は依子の部屋に来ていた。どうやらまだ明日提出の宿題が終わっていなかったらしく、依子が洗い物のためキッチンに立つと、隆は教科書とノートを取り出して数式に取り組みはじめた。
「そういえばさ、峰倉って試験期間中も仕事するのか?」
ふと思い出したように訊ねられ、依子は洗い物をする手を止めて振り返る。
すでに低位置となったベッドの前に腰を下ろし、宿題の数学のノートにシャープペンシルを走らせていた隆が手を止めてこちらを見ていた。
ちょっと待って、と言い置いた依子は、最後に残っていた泡まみれのお弁当箱を水で濯ぎ、水切り用のカゴにきちんと並べた上で改めて振り返る。
「えっとね、おじさんもおばさんも、あたしが特待生って事知ってるから、そこのところは融通を利かせてもらってるの。だから準備期間がはじまってから試験が終わるまではお仕事はお休み」
「え、じゃあ試験のあった翌月とか、生活大変だったりするんじゃねぇの?」
「あはははは、神沢君、意外と庶民生活に詳しいね?」
笑いながら冷蔵庫を開け、冷やしておいたアイスコーヒーを二つのグラスに注ぐ。運んできたグラスをテーブルの空いたスペースに置き、依子は隆の隣に座る。その一連の動作をじっと見ていた隆は、アイスコーヒーに口を付けてから少し拗ねたように言った。
「別にそれくらい、詳しくなくても普通に考えればわかるだろ」
「まあね。でも、一応定休日以外はお夕飯もお裾分けしてもらってるし、定休日の翌日以外はお昼ご飯のおかずも用意してもらっていたりするから、食費はかなり浮いてるんだよね。お家賃もリーズナブルだし、光熱費とかはちょっと気をつければ意外と節約できるから……って、このあたりの知恵は、学院のお姉さん達から教えてもらったんだけど」
「じゃあ、試験前でも晩飯は分けてもらってるのか?」
「うん。水曜日以外はお店がはじまる前に晩ご飯を貰いに行くの。で、その後はずっとフリータイムだから、ずっと試験勉強」
特待生は大変なのですよ、と、わざとらしい溜め息を吐く依子のおどけた表情に、隆は小さく吹き出した。
「そっか……じゃあ、試験勉強教えてほしい、とか言ったらやっぱ迷惑になるよな……」
アイスコーヒーを一口含んで何気なく呟いた言葉に、依子がきょとんと隆を見つめる。
「……神沢君、試験勉強とかって三好君や刑部君と一緒にするんじゃないの?」
「まさか。まあ、それぞれ得意分野があるからわからないところは訊いたりするけど、基本的には個人でやってる」
「そうなんだ。仲がいいから、一緒にしてるのかと思ってた」
「いや、昔何度か一緒にやろうとした事もあったけど、どうしてもそれぞれペースややり方が違うから、三人揃って勉強するとどうにも集中できないってわかってさ。それ以来、完全別々にやってるんだ」
「でも、それならあたしと一緒でもそうなるんじゃない?」
隆の言葉に依子が懸念を率直に告げる。けれど隆はあっさり首を横に振った。
「それはないと思う。この間から何度か一緒に宿題やってるけど、俺はむしろやりやすいって思ってた。……て言うか、試験勉強ってなるとあれこれ訊きまくると思うから、俺の方が峰倉の邪魔になる可能性のが高いか」
「それこそないよ。勉強の教えっこはあたし得意だし、神沢君って黙々と問題を解いていくから騒がしいわけでもないし」
「……それ、学院での経験?」
「あ、わかった?」
ふわっと頬を緩める依子に、わからないわけないだろ、と返しながら隆も笑みを浮かべる。
こうして何も気負わずに、学院外の誰かと学院の話ができる日が来るなんて思ってもなかった。
初めの頃こそ学院の事が話題に上るたびに、隆はどこか気遣うような表情をみせていたのだけれど、依子がとても普通に学院での生活を口にしているのだと知るにつれ、そういった遠慮じみたものはなくなってきた。今ではとても自然に学院に関する話題が二人の間で出るようになっている。
「試験勉強、俺は結構マジで頼みたいんだけど、峰倉はどう?」
不意に真面目な表情になる隆に、これでまた隆と過ごせる時間が増えると湧き上がる喜びを抑え、依子は何気ない様子で言葉を返した。
「別にいいけど、どこでする? 学校の図書館とか教室は、正直あんまり居心地よくないからパスしたいんだ」
「俺も新図書館の雰囲気は苦手だな。旧図書館は結構好きだったけど、今は遅くまで開かなくなったから無理だしな……」
苦笑して、もしよければ、と隆がためらいがちに切り出した。
「ここで、勉強したいんだけど駄目か? 峰倉が晩飯食い終わった頃に来るから」
「……ここで勉強するのはいいけど、どうして晩ご飯食べた後なの? 別にその前からでもいいけど」
きょとんと首を傾げる依子に、隆は首の後ろを軽く掻く。
「けど、下で一緒に食ってたら、峰倉また、からかわれるんじゃないか?」
「ああ、そういう事。それなら気にしないでいいよ。あのね、試験勉強中は下でじゃなくて、部屋で食べてるんだ。まあ、さすがに貰えるお料理のは一人分だけど、一品二品増やせば二人で食べても十分な量になると思う」
どきどきしながらできるだけさらりと紡いだ言葉に、隆がひゅ、と息を呑んだ。
「それって……つまり、峰倉が俺の分、作ってくれるって事?」
「他に作る人いないしね。これでも一応料理はできる方なんだよ?」
言った。言ってしまった。図々しい事は百も承知だけど、それでもとうとう言ってしまった。
本当は前から思っていたのだ。一緒に食事を摂れたらいいな、と。
いつもはお客さんとしてやってくる隆に、「みやまえ」の主人が作った料理を運ぶだけだったから、ほんの少し残念に思っていた。もし、隆がもっと早く――そう、お店がはじまる頃に来る事ができれば、一緒に食べられるのに、と。けれど、隆が部活に真剣に取り組んでいると知っているから、そんなわがままを言う事は出来なかった。
それに、依子はあくまで一同級生なのだ。他の子達より親しく付き合ってはいるけれど、それ以上でもそれ以下でもない。……まあ、少しも期待していないワケじゃないけれど。
でも、だからこそ、このチャンスを逃したくなかった。
「俺としてはすっげ嬉しいんだけど、峰倉に迷惑じゃないか?」
「大丈夫! 全然迷惑じゃない!」
逡巡を見せる隆に、依子は即答していた。嬉しさのあまり、心臓がばくばく音を立てている。ほっぺたがすごく熱いから、きっと顔は真っ赤だろう。――変に思われなければいいけど。
そんな依子の胸中に気づいているのかいないのか、隆は真面目な顔で言った。
「なら、甘えさせてもらおうかな。――あ、でも、夕飯の材料費はきちんと出すから」
「え、別にいいよ。どうせご飯はお弁当用でいつも炊いてるし、材料だって商店街で買うからそんな高いわけじゃないし」
「だけどけじめだろ。それに、勉強見てもらうのは俺なんだから、むしろお礼に夕飯おごるって言うべき立場だと思う。だから材料費はちゃんと取ってほしい」
これだけは絶対に譲らないと、真剣な目できっぱり告げる隆に、依子はこれ以上固辞するのは難しいだろうと理解する。
これが他の同級生とかだったなら、夕食の誘いには「ありがとう」とだけ告げて、何も考えず出された食事を平らげるだろう。もしかしたら、感謝の言葉すらないかもしれない。出されて当然だとでも言わんばかりの態度に出ると考える方が自然だ。
だというのに、同級生の中でも最高級のバックグラウンドを持つ隆がこんな細かいところに拘るというのが、なんだか不思議だった。
もちろんそれは、隆なりに依子の事を考えているからこその言葉なのだろう。そう考えれば、嬉しさが一気に募るあたり、ゲンキンだなぁと心の中で苦笑する。
「……なら、きちんとレシート用意して、夕食に使った分だけ請求させてもらうね?」
「俺としては、手間賃込みって事で、材料費全部持たせてほしいんだけど?」
「うー、そんな風に言われると、うっかり心が揺れちゃいそう……」
「揺れたついでに受け入れてくれたら俺は嬉しい」
難しい顔をして唸る依子を、隆が楽しげに見つめている。その視線に気づき、依子ははぁ、と一つ溜め息を吐いた。
「神沢君、あたしが困るの見てて楽しい?」
「ごめん。ちょっと楽しかった」
実にあっさりと、正直に頷く隆に依子はもう一つ深い溜め息を吐く。その様子に小さく笑いながら、隆は口を開いた。
「けどマジな話、どう考えても俺が食う方が多いだろ? 折半とか言われても、やっぱり不公平な気がしてならないんだ。峰倉の気持ちもわからなくもないけど、ここは俺に払わせてくれないか」
「……そんな事言ってると、ここぞとばかりに贅沢するかもしれないけどいいの?」
「いいよ。だって半分は俺の口に入るんだろ?」
七割方負けてる自分が悔しくてひねくれた言葉を投げつけても、隆はあっさりと頷いてしまう。
そういえば、以前に学院の院長先生が言っていた。懐と財布の大きすぎる人を相手取って喧嘩すると馬鹿を見る、と。
その言葉の意味が、なんだかすごく実感できる。
「わかった。本当はなんだかすっごく理不尽な気はするけど、今はもう考えない事にする」
「うわ。俺、峰倉の事、言い負かした?」
驚いた顔でそんな事を言う隆を、拗ねた顔で依子が睨む。
「……違う。あたしが根負けしたの。神沢君のしつこさに」
「でも、根負けしてくれてよかった。これで遠慮せず峰倉の晩飯食えるし峰倉に勉強教えてもらえる」
そんな事を言いながら笑顔を浮かべる隆は本当に嬉しそうで、依子の中でまだ少し引っかかっていた何かが見る見るうちに霧散する。
完全に白旗を揚げて諦めの息を吐いた依子は、やっぱり勝てないなぁ、と口の中で呟いた。