かぶ

Truly Madly Deeply - 14

 週末の間にあちらこちらで話が広まっていたようで、月曜日の朝には試験の初日であるにもかかわらず、如月学園高等部は隆と依子の噂で持ちきりだった。
 とはいえ、騒いでいたのは外野ばかりで、当事者の二人は噂の存在にこそ気づいたものの、特に浮き足立つ事もなかった。
 依子にしてみればこんな風に噂をされるのはすでに慣れた事だったし、隆からすれば、その他大勢に遠くで何を言われようとどうでもいい雑音でしかない。彼が気にしたのは、噂を聞いた誰かがまた、依子に大して何らかのアクションを起こすのではないかという可能性だった。けれど彼の宣言も噂と共に広まっていたのか、それとも単に期末試験期間中だったからなのか、それらしい動きは見られなかった。
 そんなこんなで通常の試験とは異なるざわつきはあったものの、他はどうあれ二人はいつもと同じように試験という名の嵐を乗り越えた。
 試験休みを含んだ三連休後の月曜日に張り出された結果では、依子はいつもどおり特待生として求められた基準を大きく上回る成績をマークしていたし、隆は依子と一緒に勉強した成果がしっかりと出てくれたようで、初等部の頃から一度として抜く事のできなかった洋司を、僅差とはいえ順位で追い抜くという快挙を成し遂げていた。
 当然、順位も点数も、過去最高だ。
 この件で洋司と秀人の二人からは「恋の力ってすごい」と盛大にからかわれたのだが、それは半ば以上事実だったりしたもので、反論はあえてしなかった。

* * *

 試験期間中は、うっかりするとナメてんのかと八つ当たりたくなるほど綺麗に晴れ上がっていた空は、試験が終わったその週末からぐずりはじめ、このところ連日雨が続いている。水曜日の今日も朝から雨で、グランドはどうあがいても使えない状態だ。
 第二体育館に室内トラックがあるから走れないわけではないのだが、今はインターハイに出場する部員がメインで調整をしている。走る事は好きだし真面目に部活にも出ているけれど、そこまで熱心に上を目指しているわけではない隆は、大きな試合を目前にしてぴりぴりした雰囲気の中で走りたいとは思わない。
 それに、今日は水曜日だ。水曜日なら「みやまえ」は休みで、もしかすると依子と長く一緒にいられるかもしれない。
 隆はそう考えて、今日は休みますとキャプテンに伝え、次いで依子に「一緒に帰らないか?」とメールした。
 すぐに返ってきたメールは隆に同意するもので、すでに学校を出ていたらしい彼女はいつもの待ち合わせ場所で待っていると伝えてきた。


 雨のせいで部屋の中が薄暗いから、いつもならこの時間帯には点けない照明を点ける。
 濃灰職のズボンはふくらはぎから下が見事にずぶぬれで、隆は依子の勧めもあり、バスルームを借りて、部活に出るつもりで持ってきていた薄手のシャツと学校指定のジャージに着替える。隆が着替える間に依子も制服を着替えを済ませていて、白いマオカラーの袖なしシャツに膝まであるブレイのプリーツスカートという姿になっていた。
 隆が脱いだ制服は、皺になってはいけないし、少しは乾くかもしれないからと、依子の制服の隣に掛けられている。二人の制服が並べて掛けられているのを見るのは、なんだかやけに照れくさい。
 隆が着替えるのを待っていたのだろう。依子がキッチンへと麦茶を取りにいく。
「そう言えば、試験前は別だけど、神沢君が水曜日に来るのって初めてじゃない?」
 いつものグラスへとお茶を注ぎながらふと思いついたように問われ、隆はああ、と頷いた。
「だってほら、前は『みやまえ』で夕飯食うってのが口実だったから。本当は休みの日にこそ来たかったんだけど、迷惑じゃないかとか思ってさ」
「やだな。神沢君なら迷惑になんかならないのに」
 ふわりと笑う依子の言葉がどうにも面映い。試験だとか終電だとかの制約を気にしなくていいために、二人きりなのだという事を、やけに強く意識してしまう。
「そ、そういう峰倉こそ、スカートって珍しいじゃん。制服以外では初めて見る」
「え? あ……うん。なんとなく、着ようかなって。変じゃないかな?」
「まさか。似合ってる」
 さらりと返す隆に、依子は頬を赤く染めてはにかむ。そんな笑顔を見ていると、隆の頬も自然と笑みの形に崩れてしまう。
 持ってきた二つのグラスをテーブルに置いて、いつもと同じ場所に依子が座る。比較的まっすぐに雨粒が落ちているからと開放した窓からは、雨のノイズに混じって商店街の喧騒が聞こえてくる。湿気を多く含むひんやりとした空気は部屋に篭っていた熱気を程よく冷まし、ふとすると肌寒さを覚えるほどだ。
 麦茶を一口飲んで窓の外へと視線を向ける隆に、依子が何気ない口調で問うた。
「部活、出たかった?」
「え?」
「外、見てるから」
「あー……いや、そうじゃなくてさ。確かにここのところずっと走りこんでないから走りたいってのはあるけど、そこまで熱心に陸上してるわけじゃないし」
「そうなの? でも、神沢君、陸上好きなんだよね?」
「嫌いじゃない、ってのが正しいかな。色々試した中で、一番何も考えずに済むスポーツだから選んだって感じで」
 苦笑を浮かべて麦茶に口を付ける。それから気を取り直して隆は口を開いた。
「――ところでさ、夏休みって何か予定入ってる?」
「え? あ……ええと、ほとんどずっと、バイト、かな」
「バイト? 下で?」
「うん。まあ、お昼と夕方だけだから、そんなに拘束時間は長くないし、お休みも定休日以外にもらえる事あるからそんなに忙しいってわけじゃないんだ」
「へえ。なら、俺の方が拘束時間長いかも」
 無意識に口を突いた言葉に依子がきょとんとする。
「部活だよ。ほとんど毎日朝から晩まで走らされるんだ。八月の頭には合宿もあるし。……うわ、こうして考えると、俺、自由な時間なさすぎじゃね?」
 真剣に顔を顰める隆に依子が小さく吹き出した。
「笑い事じゃないって。学校があれば峰倉にも会えるけど、休みじゃそうもいかないし……」
「え……?」
 拗ねたような口調で告げられた言葉は不意を突いて依子に届き、その頬に浮かんでいた笑みを消した。
 驚いて隆を振り返れば、意外な程に真摯な瞳が見つめていた。
「……仕事、してない時なら、いつ来てくれてもいいよ……?」
「そうじゃなくて……ていうか、いや、そうなんだけどさ……」
 がしがしと頭を掻き毟り、それからはぁ、と一つ、大きく溜め息を吐いた。
「なんかさ、俺ばっか峰倉に会いたがってる気がする」
 一瞬、呼吸が止まった。
 どこか傷ついているような横顔に、依子はゆっくりと息を吸い込む。
「そんな事、ない。あたしも神沢君に会いたいよ……?」
「けど峰倉、そういう事言い出さないだろ?」
「だってそれは……迷惑じゃないかって、思っちゃって……」
 そんな風に思わせていたのかと、心苦しくて目を伏せる。床の上できゅっと握った手に、隆の骨ばった手がそっと重ねられた。
「変に遠慮されるよりむしろ、わがままで振り回してくれる方が俺は嬉しい。第一、そんな事言ったら俺こそ何かと峰倉に迷惑かけてる。押しかけてるし、飯作らせてるし、勉強教えさせてるし」
「そんな! あたし、神沢君を迷惑だなんて思った事ない!」
 はっと視線を上げてきっぱりと返した依子に、隆はにっと笑みを向ける。
「俺も同じだ。多分俺、峰倉が望んでくれるならどんな事でも迷惑だなんて思わない」
「……本当に?」
「ああ」
 欠片ほどの迷いもない声が返される。戸惑いと希望が入り混じり、どこか苦しげに揺れる瞳を見つめながら、隆は穏やかに訊ねた。
「峰倉さ、これまでどんな事、我慢してきてた?」
「え……?」
「遠慮、してたんだろ? ならその遠慮した内容、教えてほしい」
「でも……」
「でもじゃなくて。勘だけど、多分その内いくつかは俺も遠慮したものだったりすると思う」
 だから言ってみてくれ。そう促すように、隆の手が依子の手を優しく握る。
 逡巡はそう長く続かなかった。僅かに目を伏せて、すぅ、と息を吸う。
「……本当は、もっと話、したかった。ここでだけじゃなくて、学校でも。メールとか電話も、もっと他愛ない事でしてみたいし、休みの日も、バイトがあるから無理だけど、できるなら会いたいって思ってた。水曜日も、神沢君が陸上部に出ているところを見てみたいと思ってた。それに、他の子達みたく、一緒にどこか出かけたりしたい。……神沢君が、住んでるところも見てみたい」
 ぽつりぽつりと語られる依子の本音に、隆の胸がどうしようもなく熱くなる。無意識のうちに、依子の手を握る手に力が入っていた。
 嬉しすぎて、頬の筋肉が情けないほどに緩んでいる。
 心を抑えきれず、気がつけば依子の言葉を遮るように口を開いていた。
「――それ全部、俺が峰倉に言いたかったけど言い出せなかった事なんだけど」
「っ!」
「もし俺が言い出してたら、峰倉は迷惑って思った?」
 勢いよく頭を横に振る少女を、笑み崩れた顔を隠しもせず覗き込む。
「俺も同じ。峰倉が言ってくれてたら、すごい勢いで喜んでた。ていうか、今もめちゃくちゃ喜んでる。峰倉が、俺と同じように思っててくれたって知って」
「ほ、んとに?」
「本気で。マジで。欠片ほどの嘘もなく。ぶっちゃけ峰倉の事思いっきり抱きしめたいぐらい喜んでるんだけど、多分加減できないから自重してる」
 自分が何を言っているのか、考えるより先に言葉が出ていた。けれどそのどれもが正直な想いだから、この際照れは振り切ってしまう。
「峰倉がいいんなら、これからはマジで遠慮しないぜ? メールも電話もしたい時にする。会いたくなったら都合聞いて会いに来る。休みを合わせてデートもしよう。俺の住んでるところも、実家は遠いからあれだけど、今住んでる部屋ならいつ来てくれてもいい。ていうかむしろ大歓迎。だからこれからは、変な遠慮はしないでほしい。遠慮される方が、俺は嫌だ」
 勢いに任せて言いたい事を全て言い放ち、そこでようやく隆は口を閉ざした。
 次から次へと与えられた言葉を受け止めるのに必死だった依子は、二度三度瞬いて、それからそっと口を開いた。
「……なら、言ってもいい?」
「うん。聞きたい」
「晩ご飯作るから、一緒に食べてくれる……? その後も、いつもの時間まで、一緒にいたい」
 きっと、これだけの言葉も彼女にとっては勇気を振り絞ってのものなのだろう。
 それがひしひしと感じられて、隆は愛しさに相好を崩す。
「いいよ。なんなら峰倉が帰れって言い出すまで居座ろうか?」
「それは駄目。きっとあたし、いつまで経っても帰れなんて言わないもん」
 ――これは、もしかしなくても理性を試されているのだろうか。
 ほんの数秒前まであった余裕が一気に吹っ飛ばされる。うっかり本能のままに動きそうになるのをぎりぎり残っていた理性で抑え、ゆっくりと深呼吸を繰り返す。
「なら、晩飯食わせてもらって、いつもの時間に帰る。それでいいか?」
「うん!」
 無邪気が過ぎるほどに満面の笑みで頷かれ、またしても理性が削られるのを感じる。
 だけどそれも依子と一緒に過ごすためだと自分に言い聞かせる傍らで、もしかしたら自ら苦行の道に踏み込んだのかもしれないと密かに嘆息した。