かぶ

Truly Madly Deeply - 15

『……やっぱ、会える時間少ないよな……』
 はぁ、と、心底からの溜め息が電話越しに聞こえて、依子は小さく笑う。
 夏休みに入ってからまだ一週間しか経っていないのに、もう数え切れないほどこの言葉を聞いている気がする。
「学校だったら、話はしなくても教室で毎日顔を合わせる事はできたもんね」
 この言葉も、一体何度繰り返しただろう。
 そうは思うけれど、それが嫌だとかうっとうしいなどとは感じない。むしろとても自然に口を付いて出てくるのだ。
 それも当然だろう。だって隆の言葉にも、依子の返答にも、偽りや誇張はこれっぽっちも混じっていないのだから。
 会えない日には依子の仕事が終わった後にこうして電話で話をするのが、二人の間ですでに習慣となりつつある。
 隆が来た時はいつも彼が腰を下ろすテーブルとベッドの隙間に、依子は携帯電話を片手に膝を抱えて座っていた。
 試験期間中、あんまり長く一緒にいすぎたせいか、一緒にいられない時間がなんだかやけに味気なくて、最近は気が付けば隆の定位置に座ったり、意味もなく隆の食器を取り出して眺めたりする事が増えていた。ほんの少し前までは、一人ぼっちの部屋でも全然気にならなかったというのに。
 長期休みと言えば、大多数の生徒には諸手を上げて歓迎されるものだけれど、学校にいる誰かに会う事を楽しみにしている少数派の生徒からすれば、これっぽっちも嬉しくないものなのだとやけに強く感じてしてしまう。
『そうだよな……。ここ最近は、部活帰りに峰倉んとこ行くか、電話で話をするかしかないだろ? けど電話じゃ実物の峰倉に会えるわけじゃないからどうにも物足りないし。……なんか俺、その内峰倉に会いたすぎて幻覚見るか禁断症状起こすかしそう……』
 率直過ぎる隆の言葉に、依子の心臓が大きく跳ねる。そのときめきに押されるように、依子もほんの少しばかり素直な気持ちを口にする。
「あたしも、神沢君の顔見れなくて……ちょっと寂しい」
『……俺は禁断症状出そうなのに、峰倉はちょっとだけ、なんだ』
 拗ねたような口調で隆が更なる言葉をねだる。ほんの少し、本当に本音を告げてしまってもいいのだろうかと逡巡する。けれど逡巡したのはは数秒にも満たない短い時間で、依子は少しばかり勇気を出して求められている言葉を口にした。
「……本当は、すごく寂しい、だよ。あたしも神沢君と、もっと長い時間一緒にいれたらって思ってる」
 こんな風に想いを告げるのはどうしようもなく緊張する。だけど隆がわかりやすくそれを求めてくれるから、口にする事ができる。
 そうすれば彼が、とても喜んでくれるのだと知ったから。
 互いに遠慮するのはやめようと決めてから、隆からのメールと電話は驚くほど増えた。依子はどうしても遠慮が先に立ってしまうけれど、少しずつとはいえ自分から他愛のないメールを送ったり、声を聞きたい時に電話をかける事ができるようになってきた。
 けれど依子からかけた電話を隆が取る事はめったにない。その代わり、数回のコールを鳴らしてから依子が切るのを待ち、間を置かず隆が依子へと折り返しで電話をかけてくるのだ。
 どうせほとんど使わない無料通話分があるから大丈夫だと依子は繰り返すのだけれど、その分はメールとか他の友達にかける時、それから本当に必要な時のために残しておけばいいと隆は譲らない。
 夏休み直前に一度、この事で徹底的に話し合ったのだが、最後にはどうしてもと言うのなら、自分が依子の携帯電話の使用料金を払うとまで言われてしまった。それ以来、半ば以上諦めの心境で、依子は自分からの着信を隆が折り返す事を受け入れたのだ。
 本当に、隆と来たら妙なところで気を遣うんだから。
 そんな風に嘆息しながらも、自分にかかる負担を少しでも減らそうとしてくれる隆の心遣いを嬉しく思うのも事実だ。
「うちに来ても、時間が遅いからあまりいられないもんね。あたしの仕事が終わるのが九時だから……いつも二時間ぐらいしかいられないんだ」
『そうなんだよな……ったく、なんで水曜日に部活があるんだよ……』
「あはは。やだな、神沢君。週末ならともかく、平日ならあるのは当然なんじゃない?」
 それはそうだけど、と返された言葉に溜め息が重なる。
 実はこの休日に関する問題は、意外と深刻だったりする。
 依子の休みは毎週水曜日と毎月偶数週の日曜日。今日は七月の第四金曜日で、今月は五週あるから次に休みとなる日曜は二週間後のそれだ。しかし八月二週目の日曜日はお盆に被ってしまう事もあり、隆は実家に戻らなければならない。無理をすれば午前中に会う事はできなくもないけれど、やっぱり長い時間一緒にいられないという事に変わりはない。そうなると残されるのは八月の第四日曜日なのだが、それではほぼ一ヵ月先の話になってしまう。
 ならば逆に水曜日の隆の予定はどうなのかと言えば、狙ったかのようにことごとく、短くても半日、長ければ一日中陸上部の練習が入っている、もしくはお盆で実家に帰っているかの二つに一つで、結局一日中フリーになる日は一日としてない。
 その分を埋めるためにも、午後に陸上部のある日は終わった後必ず「みやまえ」経由で依子の部屋に寄るのだけれど、それではどうしても依子と過ごせる時間が短くなってしまう。
 部活が午前中のみの日や休みの日は大抵他の用事が入るため、依子の仕事が終わる時間を見計らって隆が電話をかけてくるのだが、やっぱり電話越しに話をするのと、面と向かって話をするのでは大違いだ。
 かくして、冒頭のセリフが飽く事なく隆の口から漏らされるのだ。
「確か、次の水曜日も神沢君は陸上部なんだよね?」
『そう。それも朝から夕方までみっちり。もうマジで何かいじめられてる気分。しかもその次の日は監督の都合で休みなんだぜ? 頼むから一日休みずらしてくれって……』
「あー……」
 なんと言うか、返すべき言葉もない。不意に落ちた沈黙は、しかし深さを増すより先に隆の声に破られた。
『峰倉はその日、何するんだ?』
「あたし? あたしはね、学院卒業したお姉さんや友達と久しぶりに都橋で会うの」
『へえ、そうなんだ。一緒に晩飯食ったりするのか?』
「ううん。お昼前に待ち合わせだから、ランチとお茶して夕方に解散じゃないかな。みんな自炊が基本だし、夕方からのバイトがどうしても外せない子がいて……。会う事が決まったのも結構突然だったし、何よりあたしの都合に合わせてもらってるから、無理言えなくて」
『そっか……残念だな』
 さりげない隆の言葉にうん、と頷く。それから少し考えて、依子はおもむろに切り出した。
「ねえ、水曜日の部活、夕方までって言ったよね? 何時ぐらいに終わる予定なの?」
『え? えーと…………予定表では、六時終わりになってる。いつもよりは早めだけど、片付けとかあるから、学校出られるのは七時近くなると思う』
 想像していたより早い時間を告げられて、先ほど浮かんだ思い付きが依子の中でむくむくと膨れ上がる。
 実を言えば、こんな事を考えるのは初めてではない。けれど、それを正面切って隆に告げるのは初めてだ。
 緊張と、どんな返事が返ってくるのかという不安に鼓動が一気に早くなる。
 変に間を置けばきっと口にできなくなる。そんな自分を知っているから、依子は逡巡や躊躇を振り切った。
「あの、ね。もし、神沢君が他に用事ないなら、水曜日の夕方から会わない?」
『……え?』
 ぽかんとした隆の声に少しだけ心が挫けそうになる。だけど隆に会いたいという思いに偽りはないから、思い切る事にした。
「六時からバイトって聞いてるから、一旦解散になるのは五時半なんだ。用事のない子達はもしかしたら残るかもしれないけど、みんな晩ご飯は家で食べるって言ってるから、遅くても七時にはみんなと別れる事になると思う。だからその後でよければ、どこかで待ち合わせ、しない?」
 緊張のせいで、いつになく早口になってしまう。なんとか言いたい事を全て言い終えた後、依子は隆の言葉を息を呑んでじっと待った。
 やけに長く感じられた沈黙の後、どうやら息を止めていたらしい隆がはっ、と、吐き出す音が聞こえた。そして。
『――――それ、本気だよな? 後からやっぱやめってのは聞かないからな?』
 どこか上ずった隆の声に、依子はほっと肩の力を抜く。
「本気だよ。会いたいのは、あたしも一緒だもん」
『どうしよう、やばい。俺、嬉しすぎて顔と頭おかしくなりそう。多分今、鏡見たらめっちゃ笑えると思う』
 はは、と軽い笑い声を上げた後、自分を落ち着かせるかのようなゆっくりとした呼吸が聞こえる。そして、隆は迷いのない声は、依子が欲しいと思っていた言葉をくれた。
『他に用事なんかない。だから、水曜日に会おう』