かぶ

Truly Madly Deeply - 16

 水曜日の待ち合わせが決まってからは、時間がやけに早く進んだ。
 依子はいつもどおり過ごしているつもりでいたのだけれど、心が逸っているせいで、週末と週初めは本当にあっという間に過ぎてしまった。
 その「あっという間」の間には、少ない手持ちの中から着ていく服を決めたのだが、はたと気づけばあからさまに本来の予定である学院仲間とのランチに焦点を合わせたものでなく、隆と会う事を意識した女の子らしい服を選んでいて、自分のあまりの正直さに依子は少しばかり苦笑した。
 依子がその日のために選んだのは、肩紐がレースになったオフホワイトのキャミソールに、銀地に薄紫の糸で花の刺繍が入ったシースルーの半袖ボレロ。下にはくすんだ濃緑の膝丈スカートを合わせた。一見タイトなスカートだけれど、裾の部分が少し広がっていて、その部分だけが波打つよう立体的に縫製されている。足元には、雨が降らない限り、夏前に買ったストラップ付きの白いローヒールサンダルを履く予定だ。
 そして訪れた水曜日。主に依子の休みの都合で実に久しぶりに顔をあわせた面々は、恐ろしい程的確に依子の変化に気づき、その原因を実にあっさりと見抜いたのだ。
 昼食を終えた後、粘れるだけ粘るべく入ったドトールで開口一番に指摘され、続いた追求にごまかしきれなくなった依子が白旗を揚げたのは、席についてから僅か十二分後だった。
「そっか……ようやくヨリにも春が来たか……」
 皆さんのおっしゃるとおりです、と頭を下げた依子の様子にしみじみと感慨に耽りながら、三歳年上の高科棗(たかしな なつめ)が呟く。 東京の美容師学校に通っている棗は美容師を志している事もあり、会う度に髪型とその色が変わる。今日の彼女はダークブラウンを基調としたショートの髪にオレンジに近いブラウンを散らし、遊び心たっぷりに毛先を跳ねさせていた。恋人がメイクアップ・アーティストという事もあって、すっかり板に付いた化粧が大人っぽさを醸し出している。
 棗の言葉を受けて、うんうんと頷くのは同年の芦尾律子(あしお りつこ)だ。お菓子を食べるのも作るのも大好きな彼女は、現在都橋で製菓の専門学校に通いながら、某有名ホテルのレストランでパティシエール見習いをしている。
 中々に忙しい学生生活と重労働な見習い修行の割りに身体つきがふくよかなのは、学校で作ったものやレストランでの失敗作を片っ端から勉強のためと称して食べているためだというのが本人の弁だ。
「依ちゃんって、綺麗だしいい子なのに凛々しすぎるから横に並べる男の子が中々いないんだよねー。ここはやっぱ、さすが如月学園って言うべきかな?」
「それはどうかな。だって、あそこは公立校よりも変な意識の強い、頭の凝り固まった人が多くて驚いたもん。神沢君みたいな人は、あそこでも稀だと思う」
 渋い顔になる依子に、やはり同年の片山若菜(かたやま わかな)がうーんと唸る。
 藍染養護学院では五年間依子と同室で、互いに一番仲のいい親友だと認識している彼女は、現在新聞社の奨学金を受けて市内の公立高校に通っている。棗の手でベリーショートにされた髪と、すらりと高い身長、スポーツをよくする事もあるが、元々脂肪の付きにくい体質なため、初対面ではかなりの確率で男の子に間違えられてしまう。
 彼女生来のさっぱりした気質と、どことなく凛々しい少年的な顔立ちのせいもあって、共学の公立高校に通っているというのに、男の子からより女の子から憧れの視線を浴びているらしい。
「――ていうかさ、ぶっちゃけた話、依子のお眼鏡に適う男ってのがまずレアなんだよ」
「そう?」
 うんうんと唸った挙句辿りついた結論を口にする若菜に、依子がきょとんと首を傾げる。それに対し、棗と律子はまさにそのとおりだと同調した。
「だってヨリ、一般的なステータスには興味ほとんど持たないでしょ。見た目とか頭とかお金とかより心根で人を見るからね」
 やけにきっぱりと言い切る棗に、依子はあいまいに頷いた。
「まあ、言われてみればそうかな。――だけど外から見たらあたし、なっちゃんの言う『一般的なステータス』に惹かれたように見られちゃうんだよね……」
「へ? 何それどゆこと?」
 姉妹のように育った相手を前にしているせいか、うっかり口が滑ってしまった。いけない、と口を押さえるけれどすでに遅く、依子はいぶかしげな視線を向けてくる三人へと、ためらいがちに最大級の爆弾を投げつけた。
「……あたしの付き合ってる人って、学院の出資者でもある神沢興業の御曹司なんだ」
「――――――――」
 三人は一様に目をぱちくりとさせ、依子の発言を噛み砕き、その意味をようやく理解したところで、三者三様の叫びを上げた。
「はああああああああああああああ!?」
「お金持ちのお坊ちゃんが依ちゃんゲットなんてあり得ない!」
「ちょっとそれ何よどういう事!? ヨリ、あんた正気なの!?」
 若干一名ピントのずれた反応を返したものの、とにかく依子の言葉は彼女らを驚愕させるに十分だったらしい。
「でも、それが事実なの。本当は言わないでいようかと思ったんだけど、みんなには隠しておきたくなくて」
 苦いものの混じった笑みを浮かべ、それでも揺るぎない声で続けた。
「みんなが反対するのはわかってるよ。如月でもね、神沢君のいないところではやっぱり周囲が騒がしいの。だけどそれも、神沢君があたしを守ってくれてから、予想していたよりも風当たりは強くないし、酷い目にも遭ってないんだ」
「『守ってくれてから』……って、過去の事だよねー? て事は依ちゃん、もしかしなくても何かされた?」
 律子と来たら、いつもはピンボケているくせに、こういう時ばかりは鋭い。実に的確な指摘をされ、隠したところですぐにバレるだろうからと、依子はすんなりと首肯した。
「うーん、されかけてたところを助けてもらった、って言うのが正しいかな。……簡単に言うと、あたしと神沢君が付き合ってる事に気づいた子達に呼び出されちゃってさ。あれこれ言われている所に神沢君駆けつけてくれて、その子達に向かってあたし達の事に口を出すなって言ってくれたの」
「……正直、それだけで収まるとは思えないんだけど。本当はもっと何かあったんじゃない?」
 不可解だと眉をしかめる棗に、それを言うか言うまいか僅かに迷いながらも、依子は気恥ずかしげに言葉を重ねた。
「え……とね。神沢君が、言ってくれたんだ。あたしを呼び出した子達以外でも、誰かがあたしに言いがかりつけたりとかしたら、その時は神沢君が相手になるって」
「うわっ……何そのめっちゃ男前な発言……」
 唖然とする若菜にだよね、と同意して、依子はふわりと頬を緩ませる。
「正直、あたしもその言葉にはびっくりしたんだ。でも……そんな風に守られて、すごく嬉しかったの」
 穏やかに幸せそうな笑みを浮かべる依子につられるように、三人の頬も僅かに緩む。
 聞き出した話には若干の不安に思える要素があったものの、総じて見れば、一概に依子に相応しくない相手とはいえないし、むしろ姉妹代わりとして彼女を任せてもいいかもしれないと考えるに足る少年のように思える。
 だけど、ここはやっぱり将来を踏まえた現実について諭すべきだろうと、醒めかけたコーヒーのカップを手の中で弄びながら棗は重い口を開いた。
「……アンタの気持ちはわかったけど、正直、アタシは賛成できない。まあ、だからって反対もしないけどね」
「なっちゃん……」
「アンタが選んだからには、きっとイイ男なんだろうって想像は付くよ? 多分相手もアンタをきっちり好きなんだろうし、アンタもアンタで相手を想ってる。それはいいんだ」
 だけど、と、いつになく深い息を吐いて、棗は続けた。
「学校でもそれだけ周囲がうるさいなら、世間はきっともっとうるさい。まず親や親戚関係がアンタ達を引き離そうとするだろうしね。それより何より、人間って変わるんだ。今はアンタを一番に考えていても、社会に出れば色んなしがらみが出てくる。そうなった時、その男はアンタを守りきれるの? 手放されて傷ついて泣く事になってもいいの?」
 真剣な棗の言葉に、残りの二人も息を呑んで依子を見つめる。
 気遣うようなその視線を居心地悪く感じながらも、依子はほとんど迷う事なく頷いた。
「――うん、わかってる。それでもね、あたしは別に構わないって思ってる」
「依ちゃん……それ、どういう意味?」
「あたしは神沢君は変わらない人だって思ってるけど、もし変わってしまっても別にいいんだ。だってあたしが神沢君を好きな事に代わりはないんだし、神沢君もあたしを好きだって言ってくれてる。いずれ別れる日が来るとしても、あたしは今を大切にしたい。そう思ったから、神沢君に気持ちを返すって決めたの」
 揺るぎない声が告げた心情はどこまでもまっすぐで、これ以上常識や世間的な一般論のみに裏打ちされた、薄っぺらい反対の言葉をぶつける事はできなかった。
 それに、彼女達は知っていた。依子が簡単には自分の決意を翻さない頑固なまでの心の強さを持っている事を。
 未来に待つ障害がいかなるものであるとしても、せめて今だけでも一緒にいたいと彼女が願うのなら、その『今』が少しでも長く続く事を祈るしかない。不用意に引っ掻き回して大切な姉妹を傷つけたいとは思わない。
「――まあ、ヨリがそれでいいって思うなら、いいんじゃない?」
 なんだか色々と丸投げしたような言葉ではあったけれど、それは棗流の激励だった。
 棗が良しとするのであれば、彼女を姉のように慕っている律子や若菜にとって、表立って反対しなければならない理由はなくなる。
「そだよね。だって依ちゃんなんだもん、きっと大丈夫だよー」
「確かに。ま、何かあったらいつでも相談に乗るし。ノロケも聞いてあげるから安心しなね」
「……なんだろう。みんなの言葉は嬉しいはずなのに、どれもこれも根拠がなさすぎて喜びきれない……」
 しかめっ面をして捻くれた言葉を口にした依子を、言ってくれるじゃない、と棗がジト目で睨みつける。
「ヨーリー? あんた、いつから棗姉さんにそんな生意気言える立場になったの? アンタに因数分解の応用問題の解き方を叩き込んだのはこのアタシじゃなかったかしらね?」
「そーだよ。遅くまで勉強する依ちゃんのために、ココアとおやつ差し入れしてたの、律だよ?」
「あたし、依子と遊びたがるチビ達の相手させられまくったんだけど?」
「う……」
 これだから、下手に親しすぎる相手をからかうのは危険なのだ。一体どこからどんな弱味が飛び出してくるかわからない。まあ、どれもこれも、実に可愛らしい弱味でしかないのだけれど。
「ごめんなさい。あたしが悪かったです。だから……これからも、相談に乗ってもらって、いい?」
 訊ねながらも、その声には断られる事はないだろうという信頼が滲んでいる。そしてそれは確かな事実で、依子を追及していた三人は、柔らかに笑って当然だと力強く頷いた。