かぶ

Truly Madly Deeply - 17

 仕事があるからと名残を惜しみながら律子が職場へ向かうのを見送った後、残った棗と若菜は、依子が別に構わないと繰り返し遠慮するのも聞かず、隆から連絡が入るまでという条件で一緒に駅前のジュンク堂へと入った。
 あまり物を増やすわけにも行かないし、文庫であればほんの数百円とはいえ数が増えれば馬鹿にならないため、依子は基本的に図書館で借りた本を読んでいる。だから彼女がこうして書店に寄るのは、本を買うためではなくどんな新刊が出ているのかを確認するためと、雑誌を立ち読みする事が主な目的なのだ。
 順番にそれぞれが見たい分野のコーナーへと移動しては、どの本が好きだとか、この本は駄目だなどと好き勝手に言い合っているうちに時間は過ぎ、気がつけばもう七時近くになっていた。
 そろそろ部活も終わった頃だろうか、と依子が腕時計に視線を落としかけたところで、鞄の中で携帯電話が振動する。
「あ……」
 小さく声を上げて鞄の中から携帯電話を取り出す。それを見て、若菜が楽しげな表情で依子に問うた。
「連絡来た?」
「ん、そうみたい。ちょっと待ってて」
 二人に断って近くにあった非常階段へと足早に向かう。さすがにこの場所は人も少なく店内に流れている音楽もほとんど届いていないため、電話で話をするのに邪魔にはならなさそうだ。
「もしもし?」
『あ、峰倉? 今、大丈夫?』
「ん、大丈夫。神沢君は部活終わったの?」
 もうすぐ遭える。そう思うだけで自然と鼓動が早くなる。逸る気持ちのままに訊ねると、電話の向こうで短い沈黙が落ちた。
『……終わったのは終わったんだけど、スプリンクラーが故障したせいで荷物がずぶ濡れて、着替えがないんだ』
「え……?」
 もたらされた知らせに、依子は思わず言葉を失った。
『まあ、荷物をグランドに置いてた俺らも悪いんだけどさ。すぐに気づいて荷物取りに走ったから電化製品系の被害はほとんどなかったけど、上の方に入れてた服が水吸いまくってて、着るのは無理なんだ。だから今、トレーニングウェアのまんまでさ……』
 はぁ、と、どこか疲れたような溜め息が聞こえる。
『さすがにこの姿でデートってのは辛いものがあるから、一度帰って着替えたいんだ。だから待ち合わせるの、少し遅くなりそうなんだけど……それでもいい?』
「あたしは別にいいけど……」
 言いかけて、依子はふと言葉を切る。そして、自分でも意識するより先に、頭に浮かんだ言葉を口にしていた。
「……もし神沢君が迷惑でなければ、なんだけど、あたし、神沢君の家に行こうか? その方が早く会えるし、少しでも長く一緒にいられるんじゃないかな……?」
『へ……?』
 告げた言葉に、電話向こうの隆よりも実際にそれを言った依子の方が驚いていた。自分は一体何を言っているのかと、頭の中では一気にパニックが巻き起こる。
『えーと、峰倉?』
「――ご、ごめん! やっぱ迷惑だよね。いいよ、あたし、いくらでも待つから――」
『峰倉、ちょっと待て。少し落ち着いてくれ』
 冷静な隆の声に、依子はひとまず言葉を止める。依子の暴走がとりあえずでも止まった事を確認して、隆は冷静に言葉を続ける。
『俺は別に迷惑じゃないけど、飯とかはどうする? 俺、今日も食って帰るってハウスキーパーに伝えてるから、何も用意されてないはずなんだ。俺自身がまず料理しないから、せいぜいインスタントと栄養食品しか部屋にないんだ』
「……インスタントがあるって事は、調理器具はある?」
『ほとんど使ってないのが一応。――ってまさか、峰倉作ってくれるとか?』
 依子の言葉から意味するところを察したらしい隆が、先を取って問う。その言葉に、依子はすんなりと頷いた。
「結局いつもどおりになっちゃうけど、それでも神沢君がいいならあたし、作るよ」
『なら俺、そっちの方がいい。外食するより峰倉の飯食う方が絶対いい』
 実にきっぱりとした隆の言葉に小さく笑って、依子は切り出した。
「じゃあ、神沢君の最寄り駅で待ち合わせない? 駅前ならスーパーとかあるでしょ? そこで必要なものは買えばいいと思うんだ」
『――だな。じゃあ、ええと……俺、あと五分もせず鈴ノ宮に着くんだけど、峰倉は今、都橋にいるんだよな?』
「うん。今は駅前のジュンク堂なんだ」
『そっか。……なら、鈴ノ宮東の西口出たところで待ちあわせよう。そんなに人もいないと思うし、改札のまん前にある噴水の前で待っててもらっていい? 多分俺の方が少し遅くなると思うけど、大丈夫か?』
「あたしは大丈夫。えーと、鈴ノ宮東駅西口の噴水の前、だよね」
『うん。俺はこの調子だと七時二分の鈍行が捕まえられると思うから、そっちには十五分ぐらいに着ける予定』
「わかった。なら、あたしもすぐこっち出るね」
『オッケ。じゃあ、また後で』
 うん、と依子が頷くのを聞いて、隆は通話を打ち切った。いつもの隆らしくない様子から、依子は彼が待ち合わせ場所へと急いでくれているのだろうと考える。
 携帯電話のフリップを閉じて鞄に仕舞ってから、遠目にちらちらとこちらの様子を窺っている棗と若菜の元へと急ぎ戻った。

* * *

 今から隆の部屋に行く事を棗と若菜に告げたところ、「展開速っ!」という反応と盛大なからかいの言葉を投げかけられながら、三人一緒にJRの都橋駅へと向かった。
 方向の違う二人とは駅の改札で別れ、下り方面のホームへの階段を上る。鈴ノ宮東は都橋の隣駅で、かつ全ての電車が止まるため、やってきた最初の電車へと乗り込み、数分間薄明るい窓の外の景色を眺めているとすぐ目的の駅に到着した。
 時計を見ればまだ七時十分で、迷う事なく辿り付けた待ち合わせ場所には、思ったとおり隆の姿はまだなかった。
 明るい空の下では、せっかくライトアップされた噴水もその精彩を欠いていて、どことなく間の抜けた印象に映る。こういうのを見るたびに、うっかり電気代がもったいないと思ってしまうのは小市民の性だろうか。
 都橋に比べれば活気はないものの、駅自体の規模はそれなりに大きく、駅の目の前のバスロータリーは広々としてとても綺麗だ。ロータリーを囲むような形で広がるのは、下階が店舗になっているマンションで、出ている看板を見れば食料品店に始まり各種医療機関まで、生活していくに必要と思われるほとんどのものが揃っている。
 鈴ノ宮の駅前も同じようなものだが、駅を利用する大半が如月学園の学生という事もあって、ファストフードやコーヒースタンドのような、むしろ学生が溜まり場として利用しやすいタイプの店が目立っている。しかも彼らの求める水準が妙な方向で高いため、駅周辺は洗練されすぎていて生活臭がほとんどない。逆に駅から少し離れた鈴ノ宮商店街は、これ以上にないほど生活感と人間臭さが凝縮されていて、依子は駅を利用するたび、商店街に入るまでの短い距離をまんじりとできずに通り過ぎる。
 そんな事を考えているうちに、上り方面の電車が入ってくるのが見える。時計を見れば七時十四分を差していた。隆が上手く電車を捕まえる事ができていれば、この電車に乗っているはずだ。というよりむしろ、もし捕まえられていなければ、すでにその旨連絡が来ているはずだ。
 そんな事を考えているうちに、頭上では先ほど到着した電車が短い停車時間を終えてゆっくりと動き出す。それを期に視線を改札へと向ければ、はたして転がるような勢いで階段を駆け下りてくる隆の姿が目に映った。
「峰倉!」
 向こうもすぐに依子に気づいたらしい。走る勢いは殺さぬままポケットから取り出した定期入れを改札に触れさせて通過し、瞬く間に依子の下へと辿り着く。
「いつも言ってるけど、別に、走ってこなくてもいいんだよ?」
 僅かに息を乱している隆へとからかうような言葉を投げる。息を整えながらにやりと笑って、隆はやはりいつもと同じ言葉を返してきた。
「いつも言ってるけど、俺は峰倉を待たせるのは好きじゃないし、少しでも峰倉に会いたいって思ってるんだ」
 視線を合わせて、二人して同時に吹き出す。笑いを残したまま差し出された隆の手を、依子はためらいなく握る。
「じゃあ、行こうか。まずはスーパーだよな」
「うん」
「だったらそこのビルに入ってるのがいいと思う。結構大きいから、大抵のものが揃うって聞いた」
 ほとんど使った事がないと言下に告げながら隆は歩きはじめる。遅れないようにと依子も隆と足並みを揃えた。
「そういえば神沢君、ほとんど料理しないって言ってたけど、調理用具はあるんだ?」
「ああ。高等部に上がって一人暮らし始める事になった時、親が一通り揃えてくれたんだけど、ほとんど使ってないからマジで新品同然」
「あはははは。なんだかすごく予想付いちゃうなぁ」
「多分峰倉の予想どおりだぜ。シンクの下とか上にあれこれ入ってるけど、使ってるのってラーメン作る小鍋ぐらいだから、どれもこれも顔が映るくらいぴかぴかしてんの」
 茶目っ気たっぷりな隆の言葉に、依子はわざとらしいまでに目を丸くする。
「本当に? それ、宝の持ち腐れとか言わない? 神沢君のご両親が揃えられたのならきっと一流品でしょ?」
「あー、もしかするとそうかも。……どうせ俺使わないし、峰倉が気に入ったなら持って帰って使う?」
「こらこら、そんな事言っちゃ、ご両親に悪いでしょ。せっかく神沢君のために買ってくれてるのに」
 冗談めかしながらも、その声にはどこか真剣な響きが混じっている。それを聞きつけて、隆はあっさりと自分の言葉を翻した。
「そうだな。ならやっぱうちに置いとこう。で、峰倉に飯作りに来てもらう事にしよう」
「か、神沢君!?」
「そうすれば、俺には持ち腐れの調理器具は峰倉に使ってもらえるし、俺は俺で峰倉の飯食えるし。うん、それがいい。そうしよう」
「……神沢君が自炊するって選択肢はないの……?」
 一人で自己完結している隆に、どこか呆れたような声で依子が問う。それに対する隆の答えは、実にあっけらかんとしたものだった。
「自分で作る不味い飯より、俺は峰倉が作ってくれる美味い飯を食いたい」
 そんな事をここまできっぱりと言われてしまっては、嬉しさと呆れのあまり、反論する気もなくなってしまう。
 まったく、どうして彼はこんなにも依子に自分の考えを受け入れさせるのが上手いのだろう。考えてみれば、依子はこれまで一度として隆の突飛とも思える意見を拒みきれた事などない。
 けれど一番の問題は、それらのわがままを依子が一度として本気で嫌だと思った事がない、という事だったりする。
 隆が口にする事は、大抵が依子を気遣っての言葉か、そうでなければ依子に甘えての言葉なのだ。前者に対しては遠慮が、後者に対しては気恥ずかしさが先立つためについ反対してしまうけれど、それらを本気で嫌だと思った事はない。きっとそのあたりの見極めが、彼は実に上手いのだろう。
 まったく、仕方のない人だ。
 そんな風な諦めの息と共に、依子はそっと呟いた。
「――だったら、今日は一通り使う調味料も一緒に揃えた方がいいかな。……あ、でも家に買い置きがある分はそれを持ってきた方がいいよね」
「え」
 ぴたりと足を止めた隆につられて依子も足を止める。驚いたように依子を見下ろす隆を見上げて、依子はそっと微笑んだ。
「だって神沢君の家、どうせ調味料とかもほとんどないんでしょう? なら、これからの事を考えて、必要なもの揃えておいた方がいいじゃない」
「てか、いいの? 俺、またわがまま言いまくってるって自覚してるんだけど」
 自覚していたのか、と頭の片隅で思いながらも、依子は苦笑へと笑みの質を変えながら頷く。
「だって、神沢君のわがままって、大抵あたしにとってはわがままじゃないんだもん。むしろ、そのわがままを理由にして、図々しい事ばかり言ってないかが心配」
「それはない! それだけはマジで絶対ないから!」
 路上で出すには少しばかり大きすぎる声。けれどそんな素直な反応からも隆が本音で話しているのだと知れて、依子は嬉しくなってしまう。
「なら、よかった」
 ふんわりと微笑む依子にどこか照れたような笑みを返し、
「俺も、嬉しい。ありがとな、峰倉」
 そう告げて、隆は依子の手を握る手にきゅっと力を篭めた。