Truly Madly Deeply - 18
理由は単純。いつも底値ぎりぎりの金額で日常の品々を買っている依子にとって、スーパーで掲示されていた値段がありえないものだったからだ。
なにしろ鈴ノ宮東は都橋から程近い事もあって、高級住宅街の様相を呈している。そのため客層が中流から上流に当たるため、それなりの品質とそれに見合った金額の値札がつけられる傾向にある。品揃えや品質のよさには純粋に感嘆していた依子だけれど、同じ位の質のものにどうしてこんなにも違う値段が付くのかと真剣に頭を抱えてしまった。
そんな依子に、隆はいつもどおり自分が払うから金額の事は別に気にしないでいいと言ったのだが、ずっと地道な生活をしてきた依子にそんな言葉を受け入れられるはずがない。最終的に、隆が依子の部屋に寄った時や依子が隆の部屋に来る時などに、少しずつ商店街で買い揃えたり、依子が買い置きしているものを運ぶ事にしようという結論に行き着いたのだ。
それでも二人分の食料とどうしても必要となる調味料、およびちょっとした飲み物やおやつなどを買い込んだため、荷物は意外と大きくなってしまった。それを、自分も持つからという依子の言葉を振り切った隆が一手に引き受け、依子と隆は人通りの少なくなった大通りを並んで歩き始める。時間はすでに八時まで十分強しか残っていない。さすがに空腹が厳しくなってきているため、自然と家路を辿る足が速くなる。
ロータリーから伸びるバス道を登り、東西へと向かう比較的大きな道路を渡って東に向かってしばらく歩いた所に、その建物はあった。
東京の中心部に比べれば若干鄙びた気配がないわけでもないが、それでもある程度都市部と呼べるような街の近くに住んでいる依子は、当然であるが十七年に亘る人生においてマンションと呼ばれる建物を見た事は、数え切れないほどにある。
ただ、依子にとってそれらの建物は「大きくて綺麗でマンションと呼ばれている建造物」でしかなかった。
知識としてその建物の中で人が生活をしているのだと言う事を知ってはいたけれど、それを実感した事はこれまで一度もなかった。
そんな彼女にとって、隆の住むマンションは、まさしくカルチャーショックの坩堝だった。
二十四時間警備員の詰めているフロントデスクがあるだとか、カードスワイプとタッチパネルによる暗証番号入力をクリアしなければロビーの奥には入られないだとか、セキュリティを通過した時点で目的階が設定され、その階に到着すると電子音声のアナウンスが流れるエレベーターなんてものは、想像の世界にすら登場しなかった。
挙句の果てに、やけに端から端まで距離がある割に扉の数の少ない廊下の突き当たりにある玄関で、またしてもカードスワイプと電子式の鍵による開錠が必要なのだと知らされた時には、感心を通り越して呆れてしまった。
「……なんていうか、すごいね」
手際よく開錠し、玄関扉の取っ手に手をかけた隆は、一瞬きょとんとした顔になったものの、すぐに依子の意味するところを理解して苦笑した。
「出かける時は大した事は必要ないんだけど、入る時は無駄に厳重でさ。うっかり外に出てから忘れ物とか思い出しても、取りに戻るの真剣に面倒臭くてさ。秀人は教科書全部学校に置いてるから、そういう時は電車待ちの間とかにメールして、必要なもの借りてる」
「ああ、うん、それ、すごくよくわかる。よっぽど余裕がある時じゃないと、戻りたくないよね……」
はぁ、と、想像だけで疲れたとばかり息を吐く依子に、隆は苦笑の色を濃くした。
「ま、とりあえず入って。……多分、もっとため息吐きたくなると思うし」
「もっと……って、あ」
隆の言葉にはっとして、依子が手を口元に当てる。
「思い出した。神沢君の部屋って、あたしの部屋の三倍近い広さがあるんだよね……」
「多分。けど、マジで広いだけだから。物は最低限しか置いてないし」
さあどうぞ、と、玄関を大きく開き、依子を中へと促す。
おじゃまします、と小さく口にしながらポーチに足を踏み入れる依子のすぐ後ろから、まるで逃げられる事を恐れるかのように自らも身体を滑り込ませる。後ろに回した左手で器用に鍵を閉め、右手を伸ばして照明を点す。
「部屋の中に廊下がある……」
こんな些細な事にも驚く依子に、隆は愛しさと苦笑が止まらない。きっと彼女は、隆が初めて依子の部屋に行った日に感じた衝撃を、逆の意味合いで受けているのだろう。あの時隆は昭和の世界に逆戻りした気分だった。依子の場合は近未来の世界にタイムスリップでもした気分だろうか。
けれど隆自身、正直なところ妙に動揺していた。
彼にとって確固たる日常であるはずの自分の住処だというのに、そこに依子が――それもこれまでで初めて見るくらいかわいい格好をした――がいるというのが、どうにもこうにも非日常的で、本当にこれは現実なのだろうかと自問自答を繰り返している。
着替えがずぶぬれになった事で、依子と会える時間が減ってしまったがっくりと落ち込んでいたはずが、電話をかけたところから全ての展開が変わってしまった。
いつかは思いつつ中々切り出せなかった「自分の部屋に来てほしい」という願いは、彼女の言葉であっさりと叶ってしまった。しかも、願望を通り越して妄想に近かった「自分の部屋で依子の手料理を食べる」という夢さえも叶おうとしている。
鈴ノ宮東駅の噴水前で自分を待っている依子をを見た瞬間から、これが本当に現実なのかと何度こっそり腿を抓ったかわからない。痛いから現実なのだろうけど、うっかりするとその痛みさえも夢じゃないかと思ってしまいそうで怖い。
そんな事を考えながらも靴を脱ぎ、どこか緊張して見える依子を先導して廊下の突き当たりにある擦りガラスのドアを開いて電気を付けた。
「すごい……」
部屋に入ったすぐのところでぴたりと足を止めた依子が息を呑む。
隆が依子の部屋の三倍近くあると言っていた部屋は、本当にそれだけの広さがあった。床は全て木目のフローリングで、裸足の足に心地よい。
廊下の真正面には、材質はよくわからないものの、メタリックな色合いをしたL字型の書斎机があり、その角の部分には薄型のモニターが置かれている。あれがきっと、隆の勉強机なのだろう。その右側にはベランダに出るためだろうスライドドアを挟んだ壁際に、シンプルな形のベッドがあった。
左手の方に視線を動かせば、やけに広い空間があり、その奥の壁はスライドドアが四枚分、つまりはほぼ全面ガラス張り状態になっていた。ベランダの向こうには都橋と思しい光の海が眩く輝いている。その手前には大きなラグが敷かれていて、数冊の雑誌とクッションが二つほど無造作に置かれていた。左奥の壁側には、お見事としか言いようのないオーディオセットが設置されていた。真ん中に置かれている薄型テレビは明らかにご家庭用サイズではないし、その下にずらりと並んでいるあまり見覚えのない機械類は、きっとDVDデッキやオーディオコンポか何かなのだろう。
ベッド脇に肩から提げていたスポーツバッグを置き、呆然と部屋を眺めている依子の下へと戻った隆は彼女の目の前で手をひらひらとさせる。
「峰倉、大丈夫? 現実見えてる?」
「……見えてるけど、認識できてないと思う」
「あー……けど、できれば早めに現実に戻ってきてほしい。そろそろ深刻に腹が減っててさ」
情けないけれど正直なところを白状する。あ、と声を上げて、依子は隆へと視線を合わせた。
「ごめん、呆けてる場合じゃないね。とりあえず先にご飯作ってから存分に呆ける事にする」
「後からでもやっぱり呆けるんだ」
依子のとぼけた切り返しに小さく笑って、隆はこっち、と依子の手を取った。
オーディオのある側に数歩歩いた左手側にキッチンスペースがある。向かって左側が調理台になっていて、右側が冷蔵庫とカウンターが設置されている。
「オール電化だから、もしかしたら使いにくいかもしれないけど、大丈夫?」
「……料理中にうっかり呆けさえしなければ、多分」
ぼんやりした返答に吹き出して、隆はからかいの混じった口調で問うた。
「なぁ、峰倉。もしかしなくても二十年ぐらい先にタイムスリップした気分だったりしない?」
「やだ。なんであたしの考えてる事バレてるの」
「だって俺、峰倉のところ行った時、二十年ぐらい昔にタイムスリップした気分だったから」
「――確かにそうね。現代から丁度二十年ぐらいずつ前後した感じだよね、あたしたちって」
はぁ、と盛大に溜め息を吐いて、依子はよしっ、と自らに喝を入れる。
「えーと、それじゃあ晩ご飯作るね。材料貰っていい?」
「ああ。それじゃここに置いて……って、峰倉。その格好で料理なんかしたら汚れないか?」
「え? ――あ、そっか」
思い出したように問われて自分の服を見下ろした依子は、ほんの僅かに顔を顰める。
「……念のため聞くけど、神沢君、エプロンとか持ってたりしないよね?」
「あると思うか?」
茶目っ気たっぷりに返すと、依子はあっさり首を横に振った。
「うーん、なら仕方ないか。ちょっとぐらい汚れても洗えば……そうだ、神沢君、汚れてもあまり気にならないシャツか何か、借りていい?」
「シャツ?」
「うん。この上から着れば少しはましかなって。割烹着の代わりと思えば悪くはないかなって思ったんだけど……」
聞かされた情報がそのまま頭の中で形になる。自分のシャツを着る依子。明らかに体格の差があるのだから、どう考えてもぶかぶかになるだろう。だけどそれはそれで――多分、きっと、かなり可愛く見えるのではなかろうか。
「……って、洗濯物増えちゃうか。うん、やっぱりいいや」
「いや、洗濯物は気にしないでいい。待ってて。すぐに持ってくる」
遠慮がちに言葉を引き取ろうとした依子を制止し、隆はそれ以上依子の言葉を聞かず踵を返した。
ベッドの足元にあるクローゼットを開き、中からいつもは寝巻き代わりに使っているシャツの中から一番サイズの小さめなものを引っ張り出す。サイズの小さなものを選んだのは、ギリギリで残っていた理性の作用だ。
依子の気が変わっては困ると、足早にキッチンへと戻った隆は努めて平静を装って手の中のシャツを差し出した。
「これ、使って。ちゃんと洗ってるから汚くないし」
「あ……ありがとう」
そっとはにかんで受け取り、依子は隆の視線を避けるように背中を向けてボレロを脱ぐ。元々透けて見えていた細い肩が露になって、ばくんと心臓が跳ねた。どぎまぎする心臓を押さえて、気まずさを隠すためにも隆は無理やり視線を逸らした。
「じゃあ、俺、着替えてくるから。食器とか調理器具とかはあちこち適当に入ってるから、自由に使って。冷蔵庫の中も好きにしていいから」
「あ、うん。急いで作るから待っててね」
いつの間にかシャツを着終えていた依子がぱっと振り返る気配に、隆は思わず真正面から彼女に視線を当ててしまう。
なるべく小さいシャツを選んだはずなのに、腰どころか太ももの半分近くが隠れている。肩の部分も二の腕の半ばぐらいまで落ちていて、隆だと三分丈のシャツが、依子にとってはほぼ五分丈袖だ。無意識に彼女を抱きしめた時の、腕の中にすっぽりと入ってしまう細い身体の感触をまざまざと思い出してしまい、頭がかっと熱くなる。
「ん……待ってる」
それだけをなんとか返し、隆は再びクローゼットへと足を向けた。