かぶ

Truly Madly Deeply - 20

「食器洗浄機って、家電売り場でしか見た事なかった……」
 一体何度目になるのか、どこかぼんやりと息を吐けば、傍らの少年は実に楽しげに笑う。
 調理の過程で汚れた鍋などを洗おうとスポンジや洗剤の場所を尋ねた依子は、シンクの下にある、まるでオーブンのような見た目のそれが食器洗浄器と知らされてまず驚いた。その後、実際に使うところを見せてもらい、冒頭のセリフとなったのだ。
 表面のガラス越しに、内部で勢いよく吹き出した水が食器に吹き付ける様をしばらく眺めていた依子は、自分の傍らで好奇心丸出しの自分を見つめている隆に気づいて頬を染め立ち上がった。その動きがあまりに唐突で、隆はどこか面食らったように目をぱちくりとさせる。
「峰倉、どうした?」
「……なんか、動物園のパンダになった気分」
「そう?」
「だって神沢君、あたしの事、すごく面白そうに見てるんだもん」
 不満げに唇を尖らせる少女の横顔があまりに愛らしくて、少年は堪えきれず破顔した。
「だって、峰倉のそういう顔って中々見れるもんじゃないし」
「やっぱり面白がってる」
「まさか。ただ、可愛いなって思ってるだけ」
 感情をそのまま言葉にして伝えると、とたんに依子が頬を赤く染める。うろたえるように視線をあちらこちらへと彷徨わせた後、困ったように目を伏せた。
「いつも思うんだけど、神沢君ってどうしてそんなに恥ずかしい事言えるんだろ」
「別に俺は恥ずかしくないけど。変な事言ってるわけじゃないし」
 全部本当の事だ。きっぱり言い切ると、恨めしげな目が見上げてきた。
「言ってる人は恥ずかしくないかもだけど、言われてる方は恥ずかしいの。――どうリアクションすればいいのかわからなくなる」
 拗ねた口調でそんな事を言って、依子はぷいっと身体ごと隆から視線を逸らす。そのままさっきまで食事をしていたテレビの前へと足を進める彼女を隆は追いかける。片手で腕を捕まえて、そのまま小さな身体を自分の腕の中に閉じ込めた。
「怒らせたならごめん。でも俺、嘘は吐きたくないし、基本的に気を許した相手には遠慮とかなくなるみたいでさ。――でも、峰倉が嫌ならこれからは気をつける」
 どこまでもまっすぐで誠実な言葉は心の奥深くへと染み通る。照れくささから少しばかりささくれてしまった感情はたったこれだけでいつもの穏やかさを取り戻す。
 まったく、どうしてこの人はこんな風に自分の心を揺り動かすのだろう?
 まだ十七年しか生きてないけれど、その間に他人の言葉や態度にそう簡単に左右されないための訓練を、多分他の人達より多く重ねてきているはずだ。
 だというのに、相手が隆となると、ほんの些細な言葉や態度一つで依子の感情はこれまでになかったくらい大きく跳ねる。そしてその跳ねた感情は、やっぱり隆がとても自然に穏やかで満ち足りた物へと変質させてしまうのだ。
 こうなってはもう、我を張り続ける事もできなくて、依子はあっさりと白旗を上げてしまう。
「別に、怒ってないよ。ただ……少し、照れくさかっただけ」
 胸の前でクロスされている腕にそっと手を沿わせながら肩越しに振り返る。意外なほどの近さに不安の陰を滲ませた隆の瞳を見つけて僅かに息を呑んだ。――視線の近さと、自分の言動が彼をこんなにも揺らしているという事実に驚いて。
 腕に触れた手に力が入るのと、隆の唇が依子の唇に重なったのは、ほぼ同時だった。
 触れ合った部分の暖かさと身体中に広がる甘く切ない感情に酩酊している間に、唇を重ね合わせたまま、ゆっくりと身体を反転させられる。啄ばむようなキスが繰り返され、数が増える度に触れ合う時間が長くなる。身体を支えるように背中に回されていた手がゆっくりと、まるで怯える子供を宥めるように上下に動いている。とくとくと二人の中で響きあう鼓動は、競い合うようにそのリズムを速めていく。
 はぁ、と、小さく漏れた吐息がどちらのものだったのか。
 ふと遠くなった隆の気配に閉じていたまぶたを開きかけた時、いつにない強さで抱きしめられた。肩に隆の頭の重さを感じて、心臓がまたリズムを加速させる。
「神沢、君……?」
「……好きだ」
 肩口から皮膚を通して響いてきた言葉に、なぜだか泣きたくなった。
 行き場を見つけられずにいた手をおずおずと伸ばし、隆の背中に静かに触れる。その広さと引き締まった硬い感触に、彼は男の人なのだとなぜか唐突に思い至る。存在を確かめるように背筋に沿って指を動かすと、耳のすぐ傍で隆が息を呑むのが聞こえた。
「駄目だ、峰倉」
「え……?」
 強い口調と共に身体がぐいと引き離される。先ほどまで隆に包まれていた部分がひやりと冷えた空気に触れ、寒さと同時に喪失感を覚える。
 その感覚に戸惑いながら隆を見上げれば、どこか苦しげな表情が浮かんでいた。
「ごめん。でもあのままだと――いや、今でも十分そうなんだけど――俺、峰倉の事、帰せなくなる」
「……っ」
 言葉の意味がわからないほど、幼いつもりはない。
 はっきりと彼の意味するところを理解して、依子は顔が一気に熱くなるのを感じる。どんな言葉を、態度を返せばいいのかわからないまま隆へと視線を戻せば、彼の日に焼けた顔も赤みを増していた。
「やっぱり驚いてる」
 しばらくの間じっと依子を見つめてから、隆は不意に微笑みを浮かべた。
 その唐突な表情の変化と彼が口にした言葉に戸惑って、そうと意識するより前に依子は問うていた。
「やっぱり、って……?」
「――峰倉は、俺の事警戒しなさすぎだ。信用されてるって思えるからそれはまあ、いいんだけど……あんまり信用されすぎるのも、少し辛い」
 くしゃりと、今にも泣き出しそうな顔で笑い、隆はおもむろにその場に腰を下ろした。低い位置から依子を見上げてから、何かを深く考え込むように目を伏せた。
「俺は峰倉の事好きで、いつでも峰倉の傍にいたいって思ってる。少しでも多く峰倉の事を知りたいって思ってる。俺が峰倉の所に行くのも、それが理由。けど……傍にいればいる程、どんどん欲が出てくるんだ。もっと近くにいたい、抱きしめてキスしたいって風に」
 言葉と共に息を吐き出し、ほんの短い間、口を閉ざす。僅かな沈黙の後、彼はまた口を開いた。
「実際に近くにいて、抱きしめたりキスしたりするとさ、やっぱり俺も男だし……その先に進みたいって思うんだ。峰倉はこれまでそんな事考えた事なかったかも知れないけど、俺は結構前から峰倉と一緒にいる時は、そんな事考えてたんだ。学校でも、外でも、峰倉の部屋でも」
 ひゅ、と、依子の喉の奥で妙な音がした。
 そんな事、考えた事なかった。
 もっと正確に言うならば、隆がそんな事を考えているとは思ってなかった。
 だって彼はこれまでどんな時でも穏やかで、依子を気遣ってくれて、時々甘えるように触れてくる以外では彼女を求めるような素振りを見せた事がなかったのだ。
 ――そうじゃない。隆はこれまで敢えて見せずにきたのだ。彼女を求める己の感情を。否定される事を、拒否される事を恐れて。
 なのに自分は、彼がそういった男の部分を見せない事にどこか安堵していたのだ。彼といれば安全だと勝手に思い込んでいた。そんな考えが、態度が、隆に辛い思いをさせているとも気づかずに。
 思考が深まるにつれ、後悔と罪悪感で自然と眉根が寄ってくる。それに気づいたのだろう、隆はいつもの穏やかな声で言葉を重ねた。
「そんな顔するなって。俺は峰倉を責めてるんじゃないんだ。たださ、知っててほしいって思ったから言ったんだ」
「けど……」
「だけど、峰倉が無理して俺に合わせなきゃならないって事はない。俺が過ぎた真似をしたらきちんとそう言ってくれてかまわない。嫌だって言われたからって俺は峰倉から離れないし、無理強いをするつもりもないから」
 依子の言葉を遮って続けられた内容は、まるで彼女の不安を見透かしたもので。
 本当に……どうして彼の言葉は、こんなにも依子の心を揺さぶるのだろう?
 言葉を返す事すらできず、ただ戸惑いの中でじっと隆を見下ろす依子の目をまっすぐに見つめ返し、隆は揺るぎない声で繰り返す。
「もう一回言うけど、嫌なら嫌だって言ってくれて構わないから。今言った事は、全部俺の本心なんだ」
「……うん」
「本当にちゃんとわかってる? 峰倉、変なところで遠慮するから心配だ」
 言いながら顔を顰める隆に、依子は苦笑を浮かべる。さっきまでの緊張感が嘘の様に消えていて、依子は深い呼吸を繰り返しながら隆の傍らに膝を突く。
「わかってるよ。でも神沢君、これまであたしが嫌がる事ってした事ないでしょ?」
「でも、これまでは、だよ」
 ほとんど同じ高さになった目線が絡み合う。その強い光を放つ瞳の奥に先ほど垣間見た見つけ、依子はまた戸惑いが胸の中に沸き起こるのを感じる。
 その戸惑いを決定付けるかのように、隆は低めた声で問うた。
「俺が本気で峰倉を帰したくないって言ったら、峰倉はどうする?」