かぶ

Truly Madly Deeply - 21

 パソコンのスピーカーからは、相変わらずポップなメロディの音楽が流れている。けれどそれは、部屋に満ちている痛いまでの沈黙を破るには至らない。
 実際には大した時間じゃなかっただろう。それでも感覚的にはやけに長く感じられた間をおいて、依子が苦しげな表情で目を伏せた。
 自分の言葉が依子を困らせるのはわかっていた。わかってはいたけれど、思いが止められなかった。それだけだ。けっして彼女を、苦しめるつもりじゃなかったのだ。
 僅かな後悔が胸に押し寄せ、鈍い痛みを心臓に感じる。それでも帰したくないと――もっと一緒にいたいという思いを打ち消す事はできず、気が吐けば隆は口を開いていた。
「帰したくないって言うより離れたくない、って言った方が正しいかな。そりゃあ、下心がまったくないなんて言ったら嘘になるけど。それでもなんて言うか、さ。……峰倉が帰った後、無駄に広いこの部屋で一人になるって考えるだけで、薄ら寒くなる」
 言葉を選びながら、弱音でしかない自分の心情を素直に吐露する。これが卑怯な手段だとはわかっている。こんな事を言えば依子が隆を突き放せなくなるだろう事は、彼女を知る人間なら誰でも容易く読める。
「……その気持ちは、わかる、かな。あたしの部屋はここよりずっと狭いけど、それでも神沢君が帰った後は、いつもすこし寒く感じてたから」
「そう、なんだ?」
 訊き返す隆に、うん、と一つ頷いて言葉を続ける。
「それに、前、神沢君が言ってた意味もわかった気がするし」
「俺が言ってた意味?」
「確か初めて来た時だったと思うんだけど、部屋の中に音がしてないと寂しくないか、って神沢君、訊いてきたでしょ? あの言葉の意味、この部屋に来てすごくよくわかった。ここって外とか隣の音が全然聞こえてこないし、本当に広いんだもん。これなら確かに何か音、してないとすごく孤独だよね」
 同じ寂しさを知る瞳が、柔らかな光を帯びる。彼女の中に芽生えたシンパシーに背中を押されるように、気が付けば隆は言葉を重ねていた。
「これまでは見送られる側だったから、もっと長くいたいって後ろ髪引かれる感覚しか知らなかったけど、見送る側も結構寂しいんだよな。正直、峰倉が帰るのを見送るぐらいなら――まあ時間が時間だってのもあるけど――峰倉を部屋まで送っていって、そこで見送ってもらう方がずっとましだ」
「神沢君……」
「峰倉が嫌だって言うなら、俺はこっちで寝るよ。寝巻き代わりになるものも貸すし、服は風呂入ってる間に洗濯できるから、明日の着替えも心配要らない。……それでも帰らなきゃならないってんなら、さっき言ったみたいに部屋まで送らせてほしい」
 これだけは譲れないと、揺るぎのない声で告げる。困ったような表情で隆を見つめていた依子は、しばらく視線を彷徨わせてからそっと息を吐いた。
「神沢君って、結構意地悪だよね。どっちの選択肢もあたしが困るってわかって言ってるでしょ?」
「困らせないようにする事もできるけど、それは俺が絶対嫌だから」
 きっぱりと言い切る隆に依子はまったくもう、と苦笑を浮かべる。
 彼女がこんな風に笑うのは大抵隆の言い分を呑む時だ。だからいつもはむしろ安堵する事ができるのだけれど、今回に限っては二つの選択肢を提示しているから気を緩める事はできない。
 ちらりと左手首に嵌めているシンプルなアナログの腕時計へと視線を落とし、依子はまた一つ息を吐いた。
「神沢君は明日、部活あるんだっけ」
「ああ。昼からだけど」
 答えながら、心臓が喉元まで競り上がってきたような錯覚に苛まれる。そうなんだ、と呟いた彼女の声や表情から結論を推測する事はできなくて、祈るような気持ちで次の言葉を待つ。
「あたしは明日、仕事があるから遅くても十時半には戻らないと駄目なんだ」
 まさかという思いが先立って、一瞬、言われた言葉の意味が理解できなかった。
「だから少し早めに起きる事になるけど、それでもいい?」

* * *

 予想どおりに広い脱衣所で、隆から借りたバスタオルとパジャマ代わりのシャツにイージーパンツを抱えたまま、依子は小さく息を吐いた。
 まったく、今日みたく予定がこんなにも大きく二転三転する日も珍しい。
 だけどその時々で下した判断を、彼女は欠片ほども後悔していない。
 今の状況を学院のみんなが知ったらどう思うだろう? 院長先生が知ったりすれば、きっと大目玉を食らってしまうだろう。あの人は学院の子供達に、「自分自身に誇りを持ちなさい」と教えているくせに、どこかで世間の型に嵌りきった考え方を捨てきれない部分がある。
 如月学園を受験すると言った時にあれだけの反応をしていたのだ。学院の出資者の息子と恋仲にあると告げたりしたらどうなる事か……
「……卒倒、しちゃうかも」
 ぽつりと呟くと同時にそのシーンを思い浮かべ、不謹慎だとは思いながらも依子は小さく吹き出した。
 今日のために選んだ服がキャミソールとスカートだったのは、ある意味ラッキーだったかもしれない。ボレロを脱いだ彼女は、服は着たままホックを外して肩紐を腕から抜くという、女の子ならではの技を使ってブラを取る。続いてスカートの下から下着を下ろし、洗面台に溜めた水で軽く手洗いする。
 はじめは駅前のコンビニまで替えの下着を買いに行く事を考えたのだが、洗濯機が乾燥機能付きのものだと教えられてそれを借りる事にした。夜間でも騒音の心配が要らないタイプのものだし、それ以前に全室完全防音なのだという隆の説明も、依子に洗濯機を貸してくれと言い出すきっかけを与えた。
 着ている服を丸ごと、それも乾燥までするとなれば、きっと時間が掛かってしまう。だからひとまず下着だけ、とりあえず手洗いした上で乾燥機にかけさせてもらう事にした。下着を乾燥するだけなら、きっとお風呂に入っている間に終わるだろう。
 しっかりと洗剤を洗い流し、型崩れしない程度に水分を絞った上で、ドラム式の洗濯機に下着を入れる。それからしばらく考えて、ほんの少しだけ柔軟剤も借りる事にした。
 隆に教えられたとおりにパネルを操作してタイマーを十五分に設定した。スタートボタンを押せば、ほとんど待つ事なく洗濯槽が回転しはじめる。意外なほどに静かなモーター音に一頻り驚きながらも、依子は自分の服に手をかけた。
 湯気の立ち込めるバスルームは、これまた依子の予想を裏切らない広さと清潔さを誇っていた。
 白い大判のタイルが張り巡らされた床と壁は染みや汚れ一つないし、淡いパステルブルーの浴槽は、大人が足を伸ばしても余りあるほどに広い。いつも膝を抱えるようにして入っている自分の部屋の浴室とは大違いだ。
 気弱の虫がもぞもぞと顔を出そうとするのを、依子は強く頭を振る事で追い払う。
「こんな豪勢なお風呂、そう使えるわけじゃないんだもん。満喫してもバチなんか当たらないよね」
 自分に言い聞かせるように呟く事で心を決め、少女は浴槽の傍らに膝を突いた。
 浴槽になみなみと溜められているお湯を洗面器に掬い取り、ざばりと両肩から二度程湯を被る。しっかりと掛け湯をしてから身体と髪を丹念に洗い、石鹸を湯で完全に流してから初めて浴槽に浸かる。これが依子が学院で教えられた風呂に入る時の手順で、物心ついた頃からそれを違えた事はほとんどない。
 念のためにと持ってきていた髪ゴムで髪をお団子の形にまとめ、ゆっくりと湯船に浸かる。広い浴槽で手足を伸ばせば、自然と湧き上がってくる至福に、ほう、と満足の息を吐く。全身を蕩かす心地よいお湯の感触を十分に味わって、ようやくこの後の事を考える余裕が生まれた。
「……やっぱり、抱かれちゃう、の、かな……」
 ぽつりと呟いた問いかけに、返る答えはない。
 けれど依子にとって、その考えはけっして嫌なものではない。これまでだって、二人きりの時間が増えるたび、その可能性を考えなかったわけじゃない。そしてそのいずれの時も、彼女が出した答えは一つだった。
 周りが何を言おうと、どんな風に考えようと、今、手に入れられる幸せだけは、全部手に入れたい。
 ただ、それだけ。
 隆は依子を自分に甘すぎるだとか、彼を警戒しなさすぎるなどと言っていたけれど、そうじゃない。彼女はただ、彼女なりに貪欲に行動しているだけだ。
 多くを望む事なく、ただ目の前にある小さな幸せで満足するような生き方をしてきたし、学院にやってくる子たちを通して、依子はその年齢にしては十分すぎるほど現実の片鱗を目の当たりにしてきた。
 だからわかってしまった。今の、まるで――否、まさしく夢の中にいるような幸福な時間が、永遠に続くものではないのだと。二人がどんなに強くそれを願ったとしても、周囲が、世間が許してくれない。いずれきっと、終わりが来る。
 ならばせめて今だけでいい、周囲の干渉を受けずにいられる間だけで構わない。
 時に苦しくさえ感じるこの想いを分かち合えるのなら、そしてそんな日々を過ごす事ができるのなら、そうすればきっと、いつか夢が醒める日が来た時、隆を困らせないように振舞える強さを持てる。
「だから大丈夫。何も怖くない。それに、神沢君だもん。怖がる事なんか、何もない」
 自分の意思を確かめるようにそっと唇に乗せた言葉は、僅かな反響を残してふわりと沸き立つ湯気に溶けた。