かぶ

Truly Madly Deeply - 22

「お風呂、空いたよ」
 ふと耳に届いたその声に、隆は意識が現実に引き戻されるのを感じた。
 夏の課題に手をつけていたはずなのに、気が付けばまったくと言っていいほど進んでいない。なのに時間だけが進んでいて、あまりにも気がそぞろになっている自分に苦笑が漏れた。
「……神沢君?」
 呼びかけられて振り返り、ほんの数歩分の距離に依子を見つけてまず驚いた。そして無防備に立っている少女の姿に、少年は半ば無意識にごくりと生唾を飲み込む。
 ドライヤーなんてものは置いていないから、手で乾かしたのだろう。生乾きの髪は、いつもと違ってしっとりと艶めいており、依子の頭から肩のラインにぴたりと沿って流れている。隆に比べればごく僅かにしか日に焼けていない彼女の肌は湯に上気して、黄金色に淡い桜色を重ねて不思議な色合いを醸し出してる。身体が冷えてはいけないからと選んだ厚手のシャツは、案の定依子には大きすぎて、先程と同じく彼女の華奢さを強調している。
 こうして二人きりで過ごす時間が増えるたび、隆は自分が男である事を、自分の中の獣性を、強く思い知らされる。
 そう。欲望はいつだってあった。
 はじめがいつかなんてはっきりとは覚えていない。ただ、彼女の存在を認識し、彼女へ向かう想いが憧れや恋と呼ばれるものだと気づいた頃から、じわじわとそれは育ちはじめた。ほんの偶然から彼女と親しく言葉を交わすようになるたび、二人きりで過ごす機会が増えるたび、触れあう回数が増えるたび、それは加速度的に凶暴さを伴って隆の中で成長していた。そしてそれは今も、牙を剥かんとして唸り声を上げている。
 ゆっくりと呼吸を繰り返し、なけなしの理性で内なる獣を押さえ込み、隆はようやく口を開いた。
「早かったね。もっとゆっくりしてもよかったのに」
「そうなの? あたしとしてはこれが普通なんだけど」
 首を傾げて訊き返す依子に、隆は小さく頷く。
「うちの母親なんか、風呂に入ると一時間は絶対出てこない。だから女ってみんな長風呂なんだろうって思ってた」
「あはは、そうなんだ。あたしはあんまり長風呂って慣れてないんだよね。ほら、学院じゃみんなで一斉に入って一斉に出る、みたいにしてたからさ。どうもそっちで慣れてて、あんまりお風呂でゆっくりできないの。まあ、あたしの部屋のお風呂はすごく狭いから、どっちにしてもあんまりゆっくりできないんだよね」
 苦笑しながら、二人の間にあった数歩の距離を依子はいとも簡単にゼロにしてしまう。すぐ傍らにいる彼女が纏う湯とシャボンの香りがまっすぐに届き、その甘さにくらりと目が回りそうになる。
 ――駄目だ。きっと理性の枷は、大してもたない。
「……うちのは結構広い方だと思うけど、ゆっくりしようとは思わなかった?」
「んー、ゆっくりしたいなぁ、とは思ったんだけど……」
「けど?」
「なんか、緊張しちゃって。あ、でも多分、いつもよりは長風呂してるはずだよ?」
「……待て。三十分掛かってないのにいつもより長風呂って、いつもならどれぐらいで上がってるんだ?」
 思わず素で問いかけた隆に、依子は軽く首を傾げて答えた。
「ええと……十五分ぐらい?」
「峰倉、それ、俺と変わらない」
「そうなの?」
 目をぱちくりとさせて聞き返す依子にはっきり頷きながら、隆は苦笑する。
「俺はほら、大抵部活でシャワー済ませてるから、家じゃざっと汗流す程度なんだ。けど峰倉は髪も長いし……そんな時間で本当に足りるのか?」
「んー、やっぱ慣れ、かな。髪はしっかり濡らしてから、シャンプーを手で軽く泡立てると、少ない量でも効率よく洗えるんだ。リンスはお湯に溶かしたのをざっと被る感じにすると全体に行き届くし節約にもなるし」
「すごいな。俺なんかとりあえずシャンプーとってかき回してりゃいいだろって感じで洗ってる。やっぱり女の子なんだな」
 感心しきりの隆に依子が軽やかな笑い声を上げる。曇り一つないその声も笑顔も、いつだって隆に不思議な清涼感を与えてくれる。それは今も同じで、ついさっきまで渦巻いていた乱暴な感情が落ち着きを取り戻していた。
「それより神沢君は何してたの?」
「え?」
 ひょい、と、上半身を屈めて隆の手元を依子が覗き込む。さらりと髪が肩から滑り落ち、隆の目の前に日に焼けていないうなじがさらけ出される。
 どくん、と、身体の奥深いところが反応を示した。
「これ、数Iの問題集? あ、もしかしてあたし、邪魔した?」
「そんな事、ない。それより峰倉」
「ん?」
 振り返る少女の腕を捕まえ、強く引く。まっすぐ隆に向かって体勢を崩す依子をあっさりと抱きとめ、少しばかり強引に膝の上へと座らせた。
「……びっくり、した」
 半端な体勢のまま振り返り、呆然とした表情で依子が力なく呟く。
「あはは、ごめん」
「もう、笑い事じゃないってば。一歩間違ったら二人して倒れてたかもしれないんだよ?」
「ちゃんと抱きとめる自信あったから」
「それでもね……」
「だって、こうでもしなきゃ峰倉、こんな事してくれないだろ?」
 溜め息を吐きつつ口を開く依子を遮り、隆がどこか楽しげに問う。その表情をじっと見つめ、彼女はもう一度深々と息を吐いた。
「そりゃ、確かに言われてもできないと思うけど……。ていうか神沢君、こんな事したかったの?」
「これ、ってわけじゃないけど、峰倉を膝に座らせてみたくてさ」
「ふうん……で、実際してみてご感想は?」
 どこか呆れた口調の依子に、隆は喉の奥で低く笑う。
「結構満足。これで峰倉が俺に抱きついてくれたら大満足になるんだけど」
「でも、重たくない?」
「や、別に。むしろ峰倉が膝の上にいるんだって実感できるから嬉しいかも」
「なんか、その感覚がよくわからない……」
 思いっきり顔を顰めつつも、依子は隆の膝の上でもぞもぞと体勢を横抱きに近い形に変え、視線は合わせないまま隆の首に腕を回す。
「――ええと、峰倉?」
「これで、大満足になった?」
「……後は、峰倉が俺をちゃんと見てくれたら、かな」
 身体を支えるため、背中に回した腕に力を入れながら率直に伝えると、腕の中の少女は小さな声でもう、と呟いて、どこか困ったような表情で視線を上げた。
「サンキュ、な。マジ嬉しい」
「こんな事が嬉しいなんて、神沢君って変」
「変でも別にいいよ、俺は。こうして峰倉抱きしめてられるだけで幸せだから」
 緩む頬もそのままに笑みを浮かべ、隆は甘えるように依子の肩へ額を擦り付ける。彼女の髪から香ったいつも自分が使っているシャンプーの匂いにさえ、妙に心が浮き立つ。くすぐったいのか、小さな笑い声を立てながら、依子はふと思い出したように疑問を口にした。
「そういえば神沢君、どんな音楽聴いてるの?」
「え?」
 唐突な問いかけに顔を上げると、ほんの少し高い目線から依子が見つめてくる。
「ほら、料理してる時から音楽かけていたでしょう? でも、料理中はあんまり聞こえてなかったし、ご飯食べてる時は話してたからやっぱり聴いてなくて。その、あたしは音楽も全然詳しくないけど、神沢君がどんなの聴くのか、興味あるんだ」
 照れたようにはにかむその表情に、心が擽ったくなる。うっかり抱きしめてキスしたくなる自分を抑え込み、意識して呼吸を穏やかに保ちながら隆は答えた。
「あんまり、ジャンルは気にしてないかな。最近は英語のヒアリングの訓練も兼ねて洋楽聴いてる事が多いんだ。今、流してるのはネットラジオでも、ここ数年のヒットチャートを雑多に流してる局なんだけど、うるさいだけの音楽が少ないから結構気に入ってる」
「へえ……じゃあ、特別好きなバンドとか歌手とかはいないの?」
「いや、いるよ。集中して聴きたい時はCD流すけど、大抵は待ってたら聞こえてくるから。……ほら、今はじまったのも、俺の好きな曲だし」
「え……?」
 言われて慌てて意識を音楽へと向ける。
 スピーカーから聞こえてきたのは、アルトなボーカルが奏でる甘く穏やかなラブソングで、耳障りのいいその音に、思わず聞き入ってしまう。
「これ、どこかで聴いた事あるかも。すごく綺麗な歌だね……」
「だろ? 詞もかなりいいんだ」
「ふうん……ね、どんな詞なの?」
 ふわりと振り返った依子に、隆はほんの少し考えてから答える。
「君のためなら何にでもなるし、何だってする。どんな時でもずっとこうして傍にいたい。何も怖がらないで。君は愛されているんだから……こんな感じ。だから俺、この曲聴くたび峰倉の事思い出すんだ」
「……神沢、君……?」
 そっと息を呑んで見つめてくる少女を、隆はまっすぐに見つめ返す。
「俺は本気だよ、峰倉。峰倉とこうして一緒にいるためなら、俺は何だってする。峰倉さえいてくれれば、俺は何だってできる。だから峰倉――」
 きゅ、と、腕の中の小さな身体を抱きしめる。艶やかに濡れた髪に顔を埋め、祈るように囁いた。
「――俺のものに、なってくれ」