かぶ

巡り合いの言葉 - 03

 完全に、呼吸を忘れた。それぐらいの衝撃を受けた。こんな真摯な告白を受けたのは、正真正銘生まれて初めてだった。
 自慢になるが、秀人は昔からもてた。高校三年生になるまで成長期が来なかったせいでむしろ可愛がられていたのだが、生まれてこの方二十五年、女にあぶれた事はほとんどない。今は運がいいのか悪いのか彼女と呼べる存在はいないのだが、それは仕事が忙しいから相手にしていられないという事情があるためと、真剣に向き合いたいと思える相手がいなかったからだ。
 一度も染めた事のない短い髪にすっきりと筋の通った鼻筋を持ち、顎から頬に掛けても垂れたところはなく、きりっと鋭角の線を引いている。若干垂れがちの目が気にならないわけじゃないが、一歩間違えれば鋭いだけの見た目に、その目が甘さを加えている。
 背も一八〇をちょいと超えていて、かつては背が低かったという逆境にも負けず、ずっと続けていたバスケのおかげか体格も結構がっしりしている方だ。今も暇を見つけてはジムに行ったり近所の公園で身体を動かしたりしているおかげでそんじょこらの男に比べれば鍛えられているだろう。
 流行とかを追いかける趣味はないが、服とか髪型とか身の回りの小物に対するセンスは悪くないと思う。性格だって、まあ、若干大雑把で面倒くさがりなところはあるが、特別悪いわけじゃない……と思う。女性との付き合いがあまり長続きしないのはあくまで女性にとっては秀人は無精が過ぎるというだけで、男友達は十分すぎるほどいるのだ。IT関連の会社に勤めていて、仕事の成績も結構いい方だから、お買い得だとも思う。
――だから女には不自由していないし、餓えているわけでもない。
 それなのになぜだろう。この目の前にいる少女がやけに気になるのは。
 隣に座っている女将と同じく、一本真っ直ぐな芯が身体と心の中心を通っているのがその佇まいからわかる。賭けてもいい。彼女は見た目だけでなく、中身もきっと最高の女になる。
 恋愛関係に陥るかどうかは別にしても、今はまださなぎの彼女が羽化するまでを見守りたいという感情が、時が経つにつれて強く大きく膨らんでいく。不意に、源氏も紫の上を見出した時、こんな感情を抱いたのかと考えかけ、オレはあんな尻軽ヤロウとは違うと頭の中からその考えを追い払った。
「三年ね……まあ、短いとは言えへんな」
「――っ」
 無意識のうちにポツリと呟いた言葉が届いたのだろう。きゅ、と要の眉根が寄せられる。うかつな言葉を口にした自分を胸の内で罵倒して、秀人は宥めるような笑みを浮かべた。
「ちゃうちゃう。そういう意味やないんよ。三年なんか、仕事に集中してたらあっという間やし。ただ、その間会わへんてなったら長いなって思ただけや」
 鋭い少女は、それだけで秀人が何を言わんとしているかを正確に理解した。ひゅ、と息を呑んで、期待に満ちた眼差しを向けてくる。
「そ、れって……」
「まあ、オレも一応常識人やて自負してるし、さすがに会うたばっかで恋愛とかは難しい思う。せやけど年齢だけを理由に無理とは言えんくらい、要ちゃんがどんな子なんか気になるんや」
「ほんまですか!?」
 ぱっと顔を上げる少女に、秀人は鷹揚に頷く。今にも踊りだしそうなほどに喜ぶ要を見ながら、女将は小さく息を吐いた。
「刑部さん、確か以前に今二十五や言うてはりましたよね? この子が成人するまであと七年はかかるんです。本気で言うてはりますのん?」
「そうですね。たしかに彼女が成人する頃には、オレはもう三十二です。そう考えれば、女将の言わんとしてる事もわかります。けど、オレは彼女を好ましく思いますし、この年で大人の都合で大切なものを諦める苦味を味わわされるというのは不幸やと思いませんか?」
 秀人の言葉に、女将がはっと息を呑んだ。わずかに顔を青ざめさせ、強く拳を握る姿を見て、秀人は彼女こそが『大人の都合』で様々なものを諦めてきた人なのだと思い知る。いらない事を言ってしまったと謝罪の言葉を秀人が口にするより先に、女将がそうですね、と呟いた。
「せやけど刑部さん。うちはむしろこの子にいらん期待をさせたくないんです。この子が刑部さんに追いつくより先に、刑部さんが他の女性を見る事がないとは限りまへんやろ? 要も言うてましたけど、刑部さんほどの人やったら、女の人たちも放ってはおきまへんやろし、刑部さん自身も健康な男性やからには、当然の欲求もある思います。そういった諸々が、要を傷つけへんかいう事が、うちは心配なんや」
 実に率直な女将の言葉を聞いて、秀人は内心で深く頷く。思春期を迎えたばかりの娘を持つ母親としては当然の心配だ。いくら常連客だからといって――いや、だからこそ、すんなりと信じるわけには行かないのだろう。
「女将の心配も当然です。けど、三年の間にオレが他の女性を見る可能性と同じぐらい、要ちゃんがオレがどういう人間かを知って、その上で他の男に目を向ける可能性もある思います。せやからまずは、仲のええ近所のお兄ちゃんみたいな感じで、例えばこちらに寄せてもろた際に少し話すとか、休みの日に予定が合うたらミナミや梅田なんかに出かけるとか、そんな感じで……あきませんか?」
 これは要にではなく女将に向けての言葉だった。
 なにしろ相手は法的にも恋愛関係を禁止されている年齢の少女なのだ。いくら秀人がまだそういう感情を抱いていないからといって、保護者に筋を通さず勝手に動くのはどう考えてもいいはずがない。
 返事が返ってくるまで、長い沈黙があった。壁にかけられた古ぼけた振り子時計の音が、心臓の鼓動と同じくやけに大きく響く。秀人だけでなく、要も固唾を飲んで女将を見つめているのに気づき、ほんの少し安堵に似た暖かなものが胸に浮かんでくる。
「わかりました。刑部さんがそこまで言うてくらはるんでしたらうちも考えます。ただし、もし他に、真剣に想う女の人ができはった時は、要にはっきり伝えてやってもらえますね?」
「はい」
 きっぱりと頷く秀人を強く見据えていた女将は、不意に相好を崩した。
「……最初は何言い出すか思いましたけど、要はやっぱり茜姉さんの娘やね。姉さんと同じ目で、同じような事言いだすんやから」
 そっと息を吐いて要を見つめ、それから秀人へと視線を戻す。
「今度から、店に来た時は食事の後、こっちに上がったってください。遅い時間でなければ要に相手させますよって。どこかに出かける場合は、前もってうちに伝えてもらえたらええです。もちろん門限は厳守してもらいますし、当然やけど常識の範囲内で節度を持ってこの子に構ったってください」
「当然です。女将に顔向けできんくなるような真似は絶対しません」
「――――その言葉、破ったら承知しまへんえ?」
 一瞬低められたその声に、秀人は胃が冷たくなるのを感じる。同時に、彼女はそれ程までに自分の養い子を大切に思っているのだと、秀人ははっきり理解した。
「もちろんです」
 もういちどきっぱりと秀人が頷くのを見て、固唾を呑んで事の成り行きを見ていた要がほっと息をついて満面に笑みを浮かべた。
「どないしよ。めっちゃ嬉しい……おばちゃん、ほんまおおきに!」
 言うなり、まるっきり子供の勢いで女将に抱きついた要を彼女は笑いながら抱きとめる。
「なんやの、要。急に甘えたになって……子供みたいな事するから、刑部さん驚いたはるで?」
 くすくす笑う育て親の言葉にはっと振り返った要は、目をぱちくりさせる秀人を見て、面白いくらい赤くなっていた。
「……なんや。ネコ被っとったんか」
 ぽつりと漏らしたと同時に、笑いの発作が秀人を襲った。さすがにここで笑い出しては要が可哀想だとは思ったものの、元からゲラな一面もあるため止まらなくなってしまった。
 実に楽しげに笑う秀人を睨み付け、恥ずかしさと怒りで顔を真っ赤に染めた要は言い放った。
「刑部さんのアホウ! もうこんな人知らへん!」
「あはははは、ごめんごめん。けどオレ、ちょっと安心した。どうせいずれは嫌でも大人になるんやから、子供の頃は子供でおってもええんちゃう? 正直、オレはすまし顔の要ちゃんより、年相応の顔してる要ちゃんの方がええと思う。せやからさ、オレの前では素のままでおってや」
「え……」
「それに実はオレ、大人ぶっちゃおるけどほんまは精神年齢結構低いねん。せやから多分、素の要ちゃんとの方が釣り合い取れる思うんよ。要ちゃんも取り繕ったオレより素のオレの方を知りたいんとちゃう?」
 首を傾げて見つめれば、二度、三度目を瞬いて、要ははい、と頷くのを見て、秀人は手を差し出した。
「ほな、そんな感じで、これからよろしく」
「う、うちこそよろしゅうお願いします」
 ぴっと姿勢を正した要は、どこかおずおずと秀人の手を握った。その小さな手を、秀人はしっかりと握り返した。