こっちの驚きやら戸惑いやらにはまったく気づいた様子もなく、梨尾はとんちんかんな言葉を吐く。まあ、その反応も理解できないではないけど。何しろ俺も、他の連中も、梨尾をオンナとして見た事がマジでなかったわけだしさ。
「じゃなくて。……それ、すっげ似合ってる。びっくりした」
「そう? 実は高校で使ってたやつなんだよね」
ぎりぎりでしどろもどろにならずに口にした言葉はやけに陳腐だった。だけど梨尾は俺の挙動不審には気づかなかったみたいで、どこか照れくさそうに自分の身体を見下ろしてそんな事を言った。
「高校で――って、え? 梨尾、水泳部だったんだ?」
「うん。まあ、熱心な部じゃなかったから、ほとんど水遊び部だったけど。あたし、これでも泳ぎは上手いんだよ?」
どこか自慢げに告げる彼女がやけに眩しくて、俺は正直、反応に困る。
うん、困るんだ。すごく。しちゃいけない場所が反応しかけてて、マジで困ってるんだ。ああもう本気でバーベキュー優先にして良かった。間違って先に全員で着替えてたりしたら、俺の下半身の状態モロバレじゃん。つか今の時点でかなり腰引けそうなんですけど? ぎりぎりで前かがみにならずにすんでるのは、歩いてくる途中で梨尾が水着の上からパーカーを着たからだ。おかげで良すぎるスタイルが地味に隠れている上、目に毒過ぎる白い肌も隠された。そうでなきゃ、今頃俺は海に飛び込むハメに陥ってただろう。
「水遊び部とか言って、実は結構本気でやってたんじゃねぇの?」
少しでも梨尾自身から意識を逸らすために、俺は何気ない調子でそんな言葉を口にした。すると梨尾は少し驚いた顔をして、苦笑混じりに頷きを返した。
「好きだったから、それなりには。今は受験とかで結構筋肉も落ちたけど、当時は筋トレとかもきちんとしてたから、今よりもっと女の子らしくない身体つきでね。腹筋割れてたし」
「マジ?」
「マジ。……って、見ても見えないし、今はもう割れてないから」
うっかりぺたんこのお腹を凝視した俺に、梨尾は即効でツッコミを入れる。
ああ、やっぱ梨尾だ。俺が梨尾をオンナだって認識したところで、梨尾自身は全然変わらない。
なんだか妙な安心感を覚えた時、後ろから不意打ちに鹿田が声をかけてきた。
「山上、本気で仕事サボりすぎ。いい加減にしないと食わさねぇぞ」
「げ、それはマジやめて。手伝うし、今からちゃんとやるし!」
「山上慌て過ぎ! あ、鹿田君さ、あたしも何か手伝う?」
盛大に笑いながら、梨尾が鹿田に問いかける。だけど鹿田はあっさりと首を横に振って返した。
「水着になってからバーベキュー焼くのは大変だろ。男でやるから、梨尾は他の子たちとのんびりしてて。なんなら水遊びしてきてもいいし」
「んー、でも、パーカー着てるから大丈夫だよ? それに、あたしっていつも男組に数えられてるじゃない」
「……今日の梨尾見て、男扱いするヤツいたら本気で眼科行き勧めるぞ」
ぼそりと呟くと、鹿田と梨尾が一斉に俺を振り返った。
「んだよ」
「いや……なんていうか、日常で一番梨尾を男扱いしている男のセリフだとは思えなくて」
「右に同じ」
「悪かったな、デリカシーのない男でよ!」
情けも容赦もない奴らの言葉にやけくそで返し、俺は二人を残してバーベキューセットへと向かった。
ちょっと間して、盛大な笑い声が後ろから聞こえてきたけど、俺はあえて聞こえない振りをした。
昼食のバーベキューは時に生焼けだったりもしたけれど、最終的に全員の腹は平等に膨れ、小休止を入れた後、男たちも水着になって海へと入っていった。
とは言っても、本格的に泳いだりするわけじゃなく、波打ち際でぱしゃぱしゃと遊んだり、もぐりっこをして貝殻だの海草だのを引っ張りあげては馬鹿みたいに笑ったり、適当に持ってきたビーチボールで気の抜けたビーチバレーをしてみたりと、実にユルい時間をすごしたわけだ。
だけど人数が人数なもんだから、だんだんとこう、物足りなくなってきて、午後も半ばを過ぎた頃、誰からともなく一般解放されている海岸に行ってみないか、と言い出した。
俺を含めて誰も反対するヤツはいなかったから、一応バーベキューセットだけはきっちり片付けた上で、最低限の手荷物を持って、プライベートビーチから人だらけの海岸へと移動したんだ。
だけどそこでは、意外な展開が俺たちを待ち受けていた。
夏休みには早いけど、海開き直後という事もあって、海岸は想像通りに人出が多かった。
海の家があるのを見つけて、どうせならこっちで何か買った方が楽だったんじゃね? みたいな事を言いながらも、俺たちはそこらへんをぶらぶらと歩いていたんだ。
一頻り波打ち際で遊んだり、海の家を冷やかしたりしたあと、案の定とでも言うべきか、梨尾を除いたオンナたちはナンパされたり逆ナンし、俺を除いた男たちはナンパに走り、最終的に梨尾と俺は、二人だけぽつんと取り残される形になった。
「……ったく、あいつらもな……」
結局はそれかよ、と嘆息する俺に、梨尾は仕方がないよ、と笑いを返し、それからこう続けた。
「山上も、行ってきていいよ。あたしは少し疲れたし、そこらへんでのんびり休憩してるから」
「けど、一人じゃあれだろ」
「あれってどれよ。どうせ山上も、本当はナンパしたいんでしょ? さっきもかわいい女の子に目が釘付けだったし」
わかってるよ、とでも言いたげに梨尾は笑ったが、それは違う。確かに他のオンナを見てたのは事実だけど、それは隣を歩いている梨尾から無理やり意識を逸らすためで、目では露出の高いオンナを見ていても、意識は梨尾から全然離れてくれなかったというのに。
だけどそんな事を大真面目に反論するわけにもいかず、俺はきまずく押し黙る。
その時、不意に横合いからオンナ連れの男が現れて、梨尾にどすんとぶつかったんだ。
「――っ!」
まったく予想していなかった衝撃に、梨尾はなすすべもなく投げ出される。その身体をとっさに抱きとめた俺は、考えるより先に、梨尾にぶつかった男へと剣呑な声を上げた。
「テメェ、前見て歩けよな!」
「あ? ああ、ワリイ。見えてなかった」
これっぽっちも悪びれない男は、軽薄な言葉そのものな見た目をしていた。
夏は始まったばかりだというのに、肌はすでにこんがりと焼けていて、あからさまにジム通いな筋肉ムキムキの身体つき。首にはセンスのないチェーンネックレスをしていて、羽織ってるパーカーも水着も、ナンパ目当てのエセサーファーが好むブランド物という、俺が言うのもアレだけど、典型的なナンパ野郎だ。腕からは、実にヤリやすそうな女がぶら下がっていて、両者共に程度が一発で見抜けてしまう。
そんなヤツに梨尾が怪我をさせられていたかもしれないという考えが、俺の元々あんまり高くない沸点を更に低いものにしてしまった。
「女の子にぶつかってその言い草かよ」
「だから、謝っただろ。第一怪我もしてないんだから、絡んでくるなよな」
「んだとぉ……!」
かっとなって腕を振り上げかけた俺を、その直前に冷静な声が止めた。
「やめなよ。あたしは大丈夫だから」
俺の腕につかまって体勢を整えた梨尾は、ここで初めて自分にぶつかった男へと向き直ったのだ。
そして。
「――先輩?」
「へ? ……あ、おまえ……梨尾」
二人が互いを認識した瞬間、場の空気が一気に気温を下げたような気がした。
束の間、自分の目が信じられないとばかり見詰め合う。
その緊張を破ったのは、梨尾が先輩と呼んだ男だった。クッ、と喉の奥で笑い、これ以上はないというほど馬鹿にした態度で口を開いた。
「お前、よくそんな水着で男捕まえられたよな。相変わらず色気のないカラダだけど、もしかして、ナニ? 実はアッチがすごかったりするわけ? まあ、筋力はあるから締まりはいいかもしんねぇけど、その硬いカラダじゃねぇ……お前もさ、こんな男みたいなオンナやめて、もっと可愛いの選んだ方がいいぜ」
視線を梨尾から俺へと移し、ヤツは興味津々の顔で成り行きを見守っているオンナの腰を抱いてみせる。
「そんだけの顔してるなら、お前も知ってるクチだろ。オンナってのがどんななのか。お前がなんでこんなヤツに付き合ってんのかは知らねぇけどよ、きちんと躾てやった方がいいぜ。あ、もしかしてあれか? たまにはこういう毛色の違ったのでも試してみたいってアレ? ならさ、後で教えてくれよ。こういうオンナがどんななのか。俺はこんなオトコオンナには絶対勃てねぇから無理だけど!」
下品な言葉を吐き散らしてげらげらと笑う男を前に、俺は生まれて初めて感じる強い怒りに頭が割れそうだった。
だけど衝動に任せてヤツを殴らなかったのは、傍らにいる梨尾が、悔しさを必死で堪えているのがわかったから。
俯いて、怒りと悔しさに強く拳を握り、全身を震えさせながらも何も返さない。
どうしてこんな事を許しているのか、俺にはわからなかった。だけど一つだけ、確かな事がある。
この目の前の馬鹿が思ってるようなオンナじゃ、梨尾はないって事。
「あー……確かに、あんたのオンナみたいなのって、イイっすよねぇ。可愛いし、色っぽいし? ね、今度俺と、どう?」
軽薄には軽薄で、ってわけじゃないけど、たっぷりのお愛想とフェロモンを塗りたくった笑顔をオンナに向ける。とたんに目を輝かせるその尻軽さに内心で嘲笑して、俺はは何気ないそぶりで両腕を持ち上げると、不意打ちに梨尾を抱き寄せた。
「なーんてね。悪いけど俺、そういう遊びはもう卒業したんだよね。だって簡単に足開く女ってつまんないし、色気ってもんの意味、間違いまくってるし。あんたらにはわからないだろうけど、本当に色っぽいってのは、俺のカノジョみたいな子の事を言うんだよ。なぁ、比佐子?」
「っ!」
唐突に抱かれた事と、カノジョを呼ばわりされた事、そして唐突に名前で呼ばれた事による三つの驚きで、梨尾は――比佐子、は、俺の腕の中で凍りついた。その耳元に唇を寄せて、俺は囁く。
「しばらく合わせろ。いいな」
「う、ん」
ぎこちなく頷くのを確認して、俺は更に言葉を重ねる。
「あんたさ、マジで比佐子のナニ? なんか色々言ってくれたけど、あれ、どれもこれもマジで的外れ。笑うの通り越して呆れたね。あんたは自分のオンナ見せびらかすのが好きみたいだけど、俺は違うの。だってさ、この水着の下がどんななのか、なんて、俺だけが知ってりゃいい事っしょ? だから俺が、水着はこれにしろって言ったの。他の男に見せるなんて、考えるだけでも吐き気がするし、妄想されてるとか思うと殴り殺したくなるんだよねー」
口調だけは軽薄に、だけど口にする言葉は限りなく本気で。
そう。俺は、嫌だったんだ。比佐子を他の男に見せるのが。他の男が、比佐子をソウイウ目で見るのが。比佐子が、俺以外を見るのが。
だから、ちょっと出かけるってだけでも誘ってみたり、意味もなくつるんでみたり、他の男が誘ったりしてるのに気づいたら乱入までしたりして。一緒にいて肩肘張らないでいられる存在ってのが何を意味するのかなんて事は、あえて考えずに。
こんな時に気づいてどうするなんて頭の片隅では思うけど、気づいてしまえば今更気づかなかった事になんかできるはずもない。俺の腕の中で、反応に困ってじっと動けずにいる比佐子をしっかりと抱き寄せて、そのなめらかな肩に唇を寄せる。
「やっ、やま――」
「名前で呼べよ」
とっさに俺の名字を呼びかけた比佐子に、反射的に命令する。その声は存外に剣呑で、彼女は一瞬怯えたように黙り込んだ後、小さく杜樹、と囁いた。その響きに、うっかり顔がにやけてしまう。
「ん? どうした?」
「えと、そ、の……も、いいからさ。向こう、戻ろう?」
居心地悪げに身じろぎする比佐子を更にしっかりと腕の中に閉じ込めて、俺は正直な感情を比佐子にぶつける。
「いいわけないだろ。カノジョ侮辱されてキレないでいるなんて、俺にはできない」
「けど、杜樹は――」
その後のセリフは、この場で言われちゃ激しくまずいし、何より俺が聞きたくなかったから、これ以上なくきっぱりと遮った。
「大丈夫。こんなクソ野郎殴ったりとかしないから。んな事したら、俺の手が腐るしチャコの事も怖がらせちゃうだろ?」
いっそ清々しいまでの笑顔でのたまって、俺は最後にもう一度、『先輩』に鋭い一瞥を投げた。
「アンタにはわからないだろうけど、こいつ、マジで最高にいい女だぜ。だけど俺のだし、俺だけのだから。今後こいつに妙な手出しするのも、変な口利くのも、俺が許さないから」
それを捨て台詞に、俺は比佐子を半ば抱きすくめる体勢のまま、俺たちが一日借り切っているプライベートビーチへと向かって歩きはじめた。