かぶ

ダチ→スキ→カノジョ? - 03

 岩場をぐるりと回るだけで、一気に喧騒から切り離される。他の連中はまだ戻ってきてなかったけど、俺ははっきり言って、好き勝手しているだろう奴らの事なんか、これっぽっちも気にしていなかった。頭の中にあったのは、気づいたばかりの気持ちと、腕の中にいる比佐子の事だけ。だってのに、プライベートビーチに戻って二人きりになったとたん、彼女は俺の腕から抜け出した。
 奇妙な喪失感にその場に立ち尽くしていると、比佐子は数歩先でくるりと振り返り、それまで一度も見た事がないような表情で、小さく言った。
「……ごめんね、変な事に巻き込んじゃって」
「別に、これくらい。てか、俺が事を大きくしたようなもんだから、チャコが謝る必要なんてないだろ」
 なんていいながらも、あそこで俺がキレないって選択肢はハナからゼロで、だからこんな事は所詮口先だけの言葉でしかない。それでも比佐子は納得できない様子で首を横に振った。
「だけど原因はあたしだから。……だけどさ、山上があたしの事、かばってくれたの嬉しかっ……」
「――待てよ。なんで、また、『山上』に戻ってるわけ?」
「……へ?」
 はにかむ顔が可愛い、なんて思いながらも、反射的に遮っていた。きょとんとした顔で見上げてくる比佐子に、俺は憮然と繰り返す。
「だから、なんで『山上』なの? さっきから俺、ずっとチャコの事チャコって呼んでるよな? なのになんでチャコは『山上』なの?」
「だ、って……あれは、お芝居だから、でしょ?」
「けど、一度呼び合ったんなら別に続けてもいいじゃん。俺、今更チャコの事、『梨尾』なんて呼びたくないし。比佐子は? 俺の事、『杜樹』って呼ぶの、嫌?」
 卑怯な言い方だってのは、十分すぎるほどわかってしていた。だけどこうでも言わなきゃ、比佐子は絶対承知してくれない。
「い、や……とか、そういう問題じゃ、なくて……ね?」
「じゃあ何だよ。嫌じゃないならいいじゃん。じゃ、俺はチャコをチャコって呼んで、比佐子は俺を杜樹って呼ぶでファイナル・アンサー?」
 比佐子って、しっかり者に見えながら、強引な論理展開とかには弱いんだよな。無理やりごり押ししたらパニックを起こすから、そこで最後の一押しをすれば、大抵はすんなりとこっちにとって都合がいいように事が運ぶ。
「え? や、ファイナル・アンサー、とか言われても……」
「はい、決定。……って、そうだ。俺以外でチャコって呼ぶヤツいる?」
「い、ない、けど……」
「なら、チャコをチャコって呼ぶのは俺だけね。これも決定だから。他のヤツに呼ばせるなよ?」
「あ、うん。……って、え? なんで? あれ?」
 ……やべぇ。こいつ、すんげぇ今更だけどマジ可愛い。
「くっ、くくくくく、はは、あははははは! おま、お前マジでいい。ホント、最高だよ!」
 ここまでの笑いの発作に襲われるのは、一体どれくらいぶりだろう。あんまりにも豪快に笑う俺に、理由もわからないままに笑われているのが悔しくてむっとしていた比佐子だが、それも長くは続かず、程なくして俺につられるようにして笑い出した。

* * *

 ま、そんな経緯で俺たちは名前でお互いを呼び合うようになったんだけど、実際の関係には特に大きな変化はなかった。
 つーかぶっちゃけ、これっぽっちも変わり映えしなかった。
 いや、俺はなるべくそういう方向に持っていこうと結構努力してたんだぜ? だけど比佐子は天然なのか何なのか、これっぽっちも気づこうとしない。どんなに雰囲気のいい場所に連れて行っても、どんなにムードを作ってみせても、頑ななまでに俺になびいてくれなくて、無駄に思える努力を夏の間中した挙句、俺は自暴自棄になって適当なオンナとつるむようになった。
 何度何人他のオンナを抱いても俺の中の一番は比佐子でしかなくて、それが苦しくて短い付き合いしかできなくなった。もうなんてーか、ほとんど自分で発散するのが嫌だから声掛けてくるオンナを相手にする、ってなぐらいの、振り返ってみればお前どこまで最低なんだってな感覚で。
 そうして秋が終わって冬も深まってきた頃、自分は一体何をしてるんだろうとわが身を振り返りつつあった頃になって、ふと気づいたんだ。俺が他のオンナの話をしたり、他のオンナと一緒にいるのを見た時の比佐子の表情が、苦しげな、切なげな色を浮かべるって事に。そして同じ頃、俺が何かに誘った時には、多少の無理をしてでも都合をつけてくれていたって事にも気づいた。
 まさか、って思った。そんなはずないって。だけどならどうして、ってな方向に思考は転がり、なんだやっぱりと決着するまでに長くはかからなかった。
 おかげで思いっきり気分は浮上したんだが、同時にそれまでの自分の行動に激しく自己嫌悪するハメになって。
 あんだけ遊んでいた俺が比佐子にそういう意味で触れてもいいんだろうか、なんて考えてしまったり、いやそれ以前に結論が間違ってたらどうするよ? ってなネガティブ思考が俺の中を支配して、動くに動けなくなってしまった。
 比佐子にオトコができたら諦められるんじゃないかと考えて、他の男が彼女に声をかけるのを黙って見逃したりもした。だけどそれが二度、三度と繰り返されるようになるとすぐに我慢ができなくなって、比佐子以外にはわかり易すぎるぐらいの牽制をしかけて近づくオトコを追い払い、すぐそこにいるのに触れられないせいで溜まるフラストレーションを晴らすために適当な誘いに乗ったりしながら、俺は比佐子との心地いい関係を維持する事に無駄に腐心するようになっていた。


 比佐子の関係に決定的なターニングポイントが訪れたのは三回生の冬、忘年会コンパでの事だった。
 俺は元々そんなに酒に強くないっていうか飲みすぎると素で寝てしまうタチだから、いつでも公の場では飲んでる振りをしても実際には全然飲まない。その日も同じで、最初の一杯をちびちびと飲みつつ、実際にはこっそり頼んだウーロンで喉を潤しながら周りを取り巻くオンナやダチなんかとくっちゃべっていたわけなんだが、珍しく参加していた比佐子の隣に腰を下ろしたあたりで俺の理性は一気に崩れ落ちた。
 どうも誰かに騙されたかなんとかして、妙に強い酒を飲まされたらしい。比佐子は珍しく俺に甘えるようにもたれかかってきて、そのまま眠りに落ちたんだ。ほんの数秒前までがんばって起きてようとしていたくせに、俺が隣に座って程なく、まるで安心したかのように、すとんと寝てしまった。
 いつもなら、こんな事はあり得なかった。これまでこんなに近づいた事だって、俺から以外では本当にない。俺の前で寝るなんて、元々寝ているところに俺が居合わせる、くらいでしかなかった。
 この瞬間、酔った勢いにしてでもいいから抱きたい、抱いて俺のものにして、手放したくない、なんて、そんな衝動が俺を貫いた。
 元々アルコールには強くない上、理性やら自制心なんてものにはあんまり縁のない俺だ。この状況で、我慢するなんて真似、できるはずもなくて。
 比佐子が潰れたから仕方なく送っていくと、見るやつが見れば本音がバレバレな言い訳をしてさっさと席を立ち、酔いが醒めて冷静になられては困ると思って、めったに使わないタクシーを使って俺の部屋へと連れ込んだ。
 ベッドの上に横たえて、必要な準備をしっかり整えてからようやく俺は、本当にいいんだろうか、なんて考えた。
 今ならまだ間に合う。ここで引き返せば、退出で使った言い訳を貫ける。膠着状態に変わりはないけど、逆に比佐子を失う事もない。
 そう考え直しかけた時、うとうととまどろんでいた比佐子がふと目を開けて、俺を見上げた。
「杜樹……?」
「目、覚めたのか?」
「んー……」
 どうやらまだ目が醒め切ってないらしい。ベッドの傍らに座り込んだ俺は苦笑しながら手を伸ばして、乱れた髪を顔からどけてやる。
「眠いなら寝とけよ。もう遅いしさ」
「うん……」
 あいまいに何かをもにゃもにゃと呟いて、比佐子はまた俺を見上げ、髪を撫でる俺の手に、頬を摺り寄せた。
「……杜樹の手、気持ちいいね。こんな風に触られるなんて、想像した事しかなかったのに……」
 思考が、完全に止まった。
 今、こいつ、何を言った? 俺に触れられる事を、想像してた、だって?
 一気に体温が上がった。耳の奥で、鼓動と血流がうるさいほどの轟音となって響いている。
「チャコ……なあ、いい?」
 一気に干上がった口から搾り出せた俺の声に比佐子が反応を返すまで、ほんの少しの時間があった。だけど最終的に彼女はふにゃりと微笑むと、こくんと一つ頷いた。
 想像通りとでもいうか、当然ながらとでも言うべきか、比佐子はバージンだった。アルコールのおかげでか痛みを訴えてくる事はなかったけど、証拠はきちんとそこにあって、俺は嬉しい反面どうしようもなく申し訳ない気分にもなってしまった。
 もちろん相手が比佐子だから何度も暴走しそうになりながらも、俺としては最大限に丁寧に抱いた。ぼんやりしていた比佐子は、それを現実と認識していたのか、それとも夢だと思っていたのか、俺には正直わからない。ただ、俺と繋がっている状態に慣れた頃、彼女はぼろぼろと涙を零しながら言ったのだ。俺に抱かれている事が嬉しいと。ずっとこうなりたかったと。夢みたいに幸せだと泣きながら微笑まれて、俺の理性はきれいさっぱり吹き飛んだ。
 その夜の俺は、もうマジで、これ以上ないってくらい幸せな気分に浸っていた。朝起きたらどうしようか、昼ぐらいまでベッドでいちゃいちゃしているのも悪くないか。いや、やっぱ初めてのすぐ後に何回もじゃ比佐子に負担がかかりすぎるから、ベッドから出て、ついでに部屋からも出て、きちんと健康的なデートをする方がいいか? なんて実に平和でのんきな事を考えていた。
 そして冬の明け方近い時間になった事に気づいた俺は、ようやく手に入れたカノジョを大切に抱きしめて、この上なく幸せな気持ちで眠りに就いたのだった。
 そんな俺に、その後に待ち受けているいじめだとしか思えないような波乱の事など、想像しえるはずがなかった。
 そう。カノジョと勝手に認定した相手によって、目が覚めた直後に絶望の片鱗を味合わされる事も、本当の意味で比佐子を手に入れるまで、あと四年近くもの紆余曲折が必要になる、なんて事も……