かぶ

真実の目覚める時 - 01

『ミセス・ランドルフ・モーガンヒル?』
 つんとした高飛車な声に、マデリーン・カサンドラ・モーガンヒルは、胸中で憂鬱な息を吐いた。こんな電話を受けるのは、今月に入ってからすでに三度。まだ新しい月が始まって一週間しか経たないというのに。
 彼女の夫であるランドルフ・アマデオ・モーガンヒル・シニアは、北米のみならず世界中にその名を冠したレストランやカフェなどをチェーン展開しているモーガンヒル・グループの頂点に立つ一人であり、各種経済誌だけでなく女性誌をも騒がせるだけの魅力と経済力を持っている。
 いつだって完璧に整えられた濃いブラウンの髪。男性的な太い眉の下には、深く落ち窪んだ眼窩の奥に髪と同じ色をした瞳が嵌っている。すっと筋の通った高い鼻と常にきゅっと引き絞られた唇はストイックで、無精髭を生やした事などほとんどない鋭角の頬から顎にかけてのラインは、女であれば指を滑らせてみたいと願わずにはいられない。昔から水泳を続けているせいか、生まれ持った恵まれた骨格に恥じない逞しく筋肉質な身体は、どんな服を着せてもけっして見劣る事はない。
 それがため、彼の愛人の座だけでなく、空いてすらない妻の座を狙った世界中の女性達から、この手の電話がかかってくる。若く美しいモデルや女優、それからさる名家の令嬢とのツーショットをパパラッチされた事も少なくはない。それらの中には真実も紛れているかもしれないが、そうしたスキャンダルの大半は話題づくりのためのでっち上げだとわかっている。けれどこんな事が起きるたび、精神が磨耗してしまうのはどうしようもない。
 差し当たっての問題は、この電話がありがちなただの作り話を吹き込むものなのか、それとも信憑性の高い情報を告げるものなのか、だ。
「そうですけれど、あなたは?」
『私は……そうね、あなたのご主人の関係者、とでも言っておきましょうかしら』
 高慢な笑い声がすでに痛み始めている頭に響く。
「残念ですが、主人は今こちらにはおりませんので――」
『ええ、それはちゃんと存じ上げてますわ。何しろ私、もうすぐ彼と一緒にフランスへ飛ぶんですもの』
 なるほど、行き先はきちんと押さえているようだ。確かに彼は、今日からフランスへ出張に出かけると言っていた。フライトの予定時刻は夕方のはずだから、今はまだ会社にいるはずだ。ほんの少し考えて、マデリーンはカマをかけることにした。
「もしかして何か、彼が忘れ物でもしたのかしら? でしたらすぐにでも空港へ届けますけれど?」
『……いいえ、別に結構よ。必要なものは向こうでも手に入る事だし、まだ出発まで時間もありますから。私はただ、あなたの旦那様が、これから誰とどこに行こうとしているのかを教えて差し上げようと思ってお電話をしているまでよ』
 どうやら彼女は詳しいスケジュールも知っているようだ。ならば彼女は本当に彼の愛人なのだろうか。それとも彼の予定を知る立場にある関係者なのかしら。いずれにしても、さっさとこの電話を切らなければ、頭の中で鳴り響いている銅鑼はいつまで経っても鳴り止まない。
「そうですの。それはご親切にどうも。ああ、そうだわ、主人にお仕事が上手くいくよう祈っていると伝えていただけるかしら?」
『私さえいれば彼にあなたのお祈りなんて必要ないけれど、そうね、一応伝えておくわ』
「ええ、お願――」
 苛立った声の直後、マデリーンの言葉を最後まで聞かず、電話の向こうの彼女は勢いよく受話器を叩きつけた。すでにガンガンと思い金属音が鳴り響いているのに、おかげで甲高い破壊音と神経を削るような耳鳴りまで重なって、本当に頭が割れてしまいそうだ。
 慎重に呼吸を繰り返しながら受話器を下ろし、マデリーンは目の前の壁に額を押し付ける。しっかりとした造りの家にいるはずなのに、足元や視界がぐにゃりと歪んで平衡感覚が狂っていく。きりきりと痛む心臓と胃を押さえながら、彼女は数メートル先にある寝室へと向かって、重い身体を引き摺りはじめた。


「母さんは、どうして父さんと離婚しないの?」
 唐突に聞こえてきた聡明な声に、マデリーンはベッドにうずめていた顔を上げた。
 どうやら寝室のドアを開けっ放しにしていたようで、開かれたドアの隙間から、いつか古いアルバムの中で見た事のある同じ年頃の夫と瓜二つな息子がまっすぐな眼差しを母親に投げかけていた。
「……どうしてそんな事を訊くの?」
「ごめんなさい。でも、さっきの電話、偶然聞いちゃったんだ。その、僕は聞くつもりじゃなかったんだけど、ロビンに電話しようと思ったら通話中だったから聞こえてしまって……」
 盗み聞きをしてしまったと言う罪悪感と羞恥に頬を染めながらも、深い眼窩の奥にある藍色の瞳には明らかな怒りが炎を揺らめかせている。
 ランドルフ・アマデオ・モーガンヒル・ジュニア。父親の名前と外見をそっくりそのまま受け継いだ、マデリーンの何より大切な宝物。濃い茶色の髪や彫りの深いハンサム顔立ちだけじゃない。まだ十歳だと言うのにいっぱしの大人のような落ち着きを見せるところも父親譲りだ。彼の外見でマデリーンが自分から受け継いだと自信を持って言えるのは、自分とそっくりな藍色の瞳の色だけ。
 それでも――いや、だからこそ、彼女は息子をどうしようもなく愛していた。
 頭痛は少しずつ治まりかけているものの、まだ僅かに残っている。その残響を抑えるように、マデリーンはこめかみを指先で柔らかく揉みながら上半身を持ち上げ、広すぎるベッドの上に座りなおした。
「でも、どうしてなの? 僕にだってわかる。父さんは僕の相手はしてくれるけど、母さんとはほとんど話もしないじゃないか。まるで無視しているみたいだ。それにあの電話。ああいうのを受けるのって、初めてじゃないんでしょう?」
 自嘲の笑みがふと零れ落ちる。あの子は父親の客観性と物事を見通す目も譲り受けているのだ。両親の仲が順調などではない事に気づかないはずがない。事実、日中の夫は彼女をまるで存在しないかのように扱う。彼が彼女の存在を思い出すのは、夜になって彼女とベッドに入る時だけだ。つまりマデリーンが、自分は本当にランドルフの妻なのだと実感できるのは、彼に組み敷かれ、翻弄され、深い余韻の中で抱きしめられて眠る、その時間だけだった。
 けれどそんな事を息子に告げるわけにもいかず、彼女は息子への問いかけを重ねる。
「どうしてそう思うの?」
「さっきの母さんの口調からなんとなく」
 気まずげに肩を竦めるその仕草も父親そっくりだ。それに年齢に似合わない聡明さも。
「そうね、確かに初めてではないわね」
「ならどうして? そんな屈辱を味わわされて、どうして離婚しないの? 父さんと母さんは政略結婚したわけじゃないから、別れても会社に問題はないんでしょう?」
「アマデオ、あなたどうしてそんな事……一体誰から聞いたの?」
 明らかに子供が知っているべきではない言葉の内容に、マデリーンは思わず呆然と聞き返す。母親の驚きは予想済みだったのか、少年はまたしてもひょいと肩を竦め、何事でもないように返した。
「アドリー叔母さんがヘスター叔母さん相手に愚痴ってたんだ。母さんの気が知れないって」
 口にはしないものの、その声音や表情は、自分も同感だと告げている。ゆっくりと深い呼吸を繰り返し、彼女は慎重に問いかけた。
「あなたは私達に、離婚してほしいの?」
「そうじゃない! そうじゃないけど……」
 ためらうように視線を足元に落とし、しばらく逡巡してから少年は苦しげな表情を母親へと向けた。
「……僕は、母さんが苦しむ姿は見たくないんだ」
 息子の率直な言葉には母親への愛情がたっぷりと篭っていて、数分前にずたずたに切り裂かれた心が癒される。
「あなたは優しい子ね、アマデオ。さあ、こっちへ来て抱きしめさせて?」
 腕を広げるマデリーンの頬には、自然と笑みが浮かんでいた。それを見て、アマデオはぱっと顔を輝かせて母親の腕の中へと飛び込んできた。いくら普段は大人びていても、こういう時はやはり年相応の表情になる。
 とはいえ、腕の中にいる息子は鋭すぎるほど周囲の感情に敏感だ。その場を取り繕う嘘を吐けばすぐに気づくだろうし、そんな欺瞞は彼を傷つけるだけだと知っていた。
 細い身体をしっかりと抱きしめながら、マデリーンは穏やかに言葉を綴りはじめた。
「確かにそうね、今の生活は楽しいばかりじゃないわ。だけど、私はあなたのお父さんと別れるつもりはないの」
「どうして?」
「だってそんな事をしたら、私かお父さんのどちらかが、あなたと毎日過ごせなくなってしまうもの。あなたはちゃんとわかっているのでしょう? 私もお父さんも、あなたをとても愛しているのだって」
「じゃあ、母さんは僕がいるから離婚しないの? 僕のために?」
 はじかれたように身体を離した息子の顔は、苦しげに歪んでいた。選ぶべき言葉を誤ったのだと即座に理解し、彼女はすぐさま彼の考えを否定した。
「馬鹿な事を考えないで! いいこと、アマデオ。私はあなたのために我慢をしているわけじゃないの。あなたを枷に思ってなんかないわ」
「……本当に?」
「ええ、本当よ。嘘じゃないわ」
 いぶかしげな息子に、彼と同じ色の瞳をまっすぐに向けて断言する。
 母親の言葉を信じたのか、僅かに表情を和らげたアマデオは、しかしすぐにまた疑問を口にした。
「なら、どうして父さんと母さんは結婚したの?」