かぶ

真実の目覚める時 - 09

「……ちょう、社長、聞いてらっしゃるんですか?」
 苛立ちの聞き取れるケネスの声に、ランドルフははっと意識を浮上させた。どうやらまた、無意識に考え込んでしまっていたらしい。
 久しぶりに家族と週末を穏やかに過ごしたというのに、なぜかあまりゆっくり落ち着けたという気分がしない。
 原因が何かと問われれば、すぐにでも答えられる。妻と息子の態度だ。一見普通に思えるのに、ふとした拍子に不自然さが浮かび上がってくるのだ。
 何がどう、と、はっきり言えるほど明瞭でなかったため、それらの違和感の原因を聞き出す事ができなかった。もしかすれば訊ねれば答えが返ってきていたのかもしれない。けれどなぜか、アマデオの母親を気遣う様子やマデリーンの自身を何かから守ろうとするような表情に気づくたび、彼らの共有している問題に対してランドルフがずかずかと足を踏み入れる事はできないのだと思わされたのだ。
 家族の間に問題があるのであれば、瞬く間に解決してみせる自信がある。なのに二人はそれを彼に知らせようとはしないのだ。
 おかげさまで、週明け早々だというのに、仕事がまったくはかどっていない。まあ、今のところは重要な仕事などほとんどないに等しいのだけれど。
 怪訝を通り越して不審な表情を浮かべる青年に、ランドルフは深い溜め息を吐いて手を上げた。
「悪い。聞いていなかった」
「……何か気になる事でも?」
「お前にも会社にも関係ない事だ。それより、何の話だったんだ? 用があって話しかけてきたんだろう?」
 あっさりと話題を変える雇い主をじっと見詰めた後、ケネスは諦めたように息を吐いた。
「こちらの書類にサインをお願いします。それから今夜のパーティですが、マデリーンを同行されるのであれば、車を回させますが」
「パーティ? ああ、ジェファーソンのところのか」
「――その様子ですと、たった今まで忘れてましたね?」
 じっとりとした秘書の視線に苦笑を返す。
「覚えてはいたさ。ただ、対応の優先順位が低かったために考えるのが後回しになっていただけで」
「あなたの場合、そういう状態を『忘れていた』と評するんですよ。で、どうなんですか? もし車を送るのではなく自ら迎えに行かれるのであれば、交通状況も鑑みると、当初の予定より早く会社を出なければならなくなりますからこの後のスケジュールが変わってくるんです」
「つまりはスケジュール調整をする自分の負担になるからとっとと決めろという事か」
「ぶっちゃければそうなりますか。で、どうされるんです?」
 これっぽっちも悪びれず、ケネスが肩を竦める。人の目が気にならない空間でのケネスは、一応の体裁は繕うものの、プライベートでそうあるように、立場の差を軽く飛び越えた態度を取る。けれどそれは不躾なものではけっしてない。上司であり、メンターとして敬っているものの、同時にケネスはランドルフを兄のようにも慕っている。だからこれは、ケネスのちょっとした甘えなのだ。そしてランドルフは、弟のようにも思っているケネスのこういう態度をむしろ好ましく受け取っている。
 それより今夜のコンパニオンだ。
 パーティの形式が曲がりなりにもフォーマルなものであるからには、誰かをエスコートするべきだ。ただし今夜のパーティは、ランドルフからすればそこまで重要度の高いものではないため、正式なパートナー、つまり妻であるマデリーンを必ずしも伴わなければならないわけではない。
 週末の間、あまり冴えた表情を見せなかったマデリーンを脳裏に浮かべ、どうしようかと改めて考える。結論は程なく導き出され、ランドルフは軽く頭を振りながら口を開いた。
「いや、今日は彼女は連れて行かない」
「では秘書室の誰かを?」
「なんならお前が同行するか?」
 にやりと笑って問えば、笑いを浮かべつつ身震いする。
「やめてください! 僕があの手の場を苦手にしているのはご存知でしょう?」
「俺だって得意なわけじゃない。ただ、体面ってもんがあるからな」
「ええ、それはわかっていますよ。――では、今夜は一人で行かれるのですね?」
 確認する声にあいまいに頷く。それを見咎め、ケネスは問いかけるように眉を跳ねさせた。
「行くのは一人だが、向こうに着けばエスコートする相手はいるだろう」
「そう、ですか。ところでマデリーンは今夜の事をご存知なんですか?」
 問いかけるケネスの顔には、ランドルフの答えをはっきり知っているのだと書かれている。まったく、長い付き合いというのはこういう時、便利なのか不便なのかさっぱりわからない。
「悪いがお前から連絡しておいてくれないか?」
「私が、ですか? 社長がお電話されればよろしいのでは?」
 一目を気にせずにいられる場でケネスが慇懃な態度を取るのは、何か納得できない事がある時だ。その理由を察しながらも、ランドルフは時計を指差した。
「もう程なく新規プロジェクト会議の時間だ。議事録係はレットの秘書に頼んでいるから、お前は時間があるだろう?」
「わかりました。では、私から連絡を入れておきます。他に何かお伝えする事は?」
「そうだな……。あまり遅くならないつもりだが、遅くなるようなら先に寝ていて構わないと伝えてくれ。あと、夕食は済ませて帰ると」
「了解です。では、会議に出られるまでにそちらの書類へサインをお願いしますね」
「ああ」
 頷きながら、ランドルフは渡された書類へと視線を落としその紙面に書かれている内容へと集中する。
 そんな雇い主へと礼儀正しく一礼して、ケネスは部屋の外にある自分のデスクへと戻った。

* * *

 不意に鳴り響いた電話の音に、マデリーンは思わず身を竦ませた。
 元々電話の音は好きじゃなかったのだけれど、ここ数年で完全に苦手になってしまった。ノイローゼになるまであと何歩だろう? こんな事を考えている時点で、すでに軽度のノイローゼなのかもしれない。やはりカウンセリングを受けるべきだろうか?
 沈鬱とした気分をなんとか押し退け、リビングで電子音を立てている電話へと近づく。ゆっくりと深呼吸を繰り替えして、微かに震える手を受話器へと伸ばした。
「……ハロゥ?」
『ハイ、マデリーン。ケネスです。お久しぶりですね』
 快活な青年の声に、先程まで心に圧し掛かっていた重いものが一気に晴れる。
「ケネス、久しぶりね。フランスではお疲れ様。ランドルフにこき使われなかった?」
『その質問については、雇い主の悪口になりかねないのでノーコメントを通させていただきます』
「それじゃあ答えを言ったも同然じゃない」
『それはまずいな。どうかランドには言わないでください。僕はまだ、職を失いたくないですから』
 互いにくすくすと笑い合いながら軽口で応酬する。彼と話す時は、いつもこんな感じだ。初めてランドルフによって引き合わされた時から、まるで仲のよい姉弟のような雰囲気が、二人の間には流れていた。
 一頻り笑ってから声の調子を整えて、マデリーンは本題に移る事にした。
「それで、今日はどうしたの? どうせあの人から何か伝言でしょう?」
『はい。今夜は取引先のパーティに出席されるため、夕食はいらないとの事です。なるべく早く帰るつもりだが、遅くなるようなら先に寝ているように、と』
「そう……」
 呟きに、失望混じりの溜め息が重なる。それを敏感に聞き取り、気遣うようにケネスが言葉を続ける。
『すみません。一応ランドには自分で連絡するべきだと告げたんですが、会議がせまっていまして……僕ももっと早く思い出していればよかったんですが』
「気にしないで。あの人が自分で電話をしてくるなんて、そんな事めったにないんだもの。けれど、確かにもう少し早く知っておけばよかったわね……」
 また溜め息が漏れる。
『どうかされたのですか? もしかして何か予定を立てていたとか……』
「そうじゃないの。実は今日、新鮮なサーモンとマグロが手に入ったから、カルパッチョにしようと思っていたのよ。だけど三人分買ってしまったから、アマデオと二人で分けるには少し量が多いかなって思って。あの子、生の魚はあまり得意じゃないのよね……」
『……すみません。僕がもっと早くに……』
 謝罪を繰り返そうとするケネスを、マデリーンは慌てて止める。
「お願いだから謝らないでちょうだい。あなたは何も悪くないんだから。悪いのは今夜の予定を忘れていたランドルフでしょう?」
『まあ、それは確かにそうですが』
 あっさりと頷く青年に、また笑いが漏れる。けれど笑いながらも頭の中を占めるのは、余ってしまう材料の存在だ。
 本当にいい素材だから、できればあまり手を加えたくない。だから他の料理に変更するという選択肢ははじめから却下している。余る分だけを他の料理に使うとしても、今度は分量が少なすぎる。今朝陸揚げされたものだし、明日のお昼まで持つかしら。
 そこまで考えて、ふとある考えが浮かんできた。
「ねえ、ケネス。あなたは今夜のパーティに参加するの?」
『僕ですか? いえ、社長を会場のホテルまでお送りした後はまっすぐ帰宅する予定ですが』
「だったらうちに来てディナーを一緒にしない? ここしばらく忙しくて顔を見せてくれなかったでしょう? ランドルフに言付けてくれたフランス土産のお礼もしたかったの」
 口にすれば、そのアイディアがとてもいいもののように思えてきた。ケネスを招待をする理由も都合よくあるし、ここしばらく顔を見ていなかったのも事実だ。
『ですが……その、いいんですか?』
「駄目ならはじめから招待しないわ。もちろん他になにか予定があるのなら、そちらを優先して――」
『何もありませんよ! たとえあったとしても、次の機会に回します!』
 この機会を逃すかとでも言わんばかりの勢いで返され、今度はマデリーンが当惑する。けれど招待を喜んでもらえるのは純粋に嬉しい。
「なら、ぜひ来てちょうだい。あなたが来ればアマデオも喜ぶわ。あの子、あなたの事大好きだから」
『あはは、それは光栄だな。では、社長を送った後でお邪魔しますね』
 嬉しそうな声で約束を交わした後、ケネスは誰かに呼ばれてしぶしぶといった風情で通話を打ち切った。その様子があまりにも不満げだったので、受話器を戻しながらマデリーンはまたくすくすと笑みを零す。心と一緒に軽くなった足取りでキッチンへと向かうその表情に、もはや電話を受ける直前まで宿っていた翳は欠片ほども残っていなかった。