かぶ

真実の目覚める時 - 08

 薄い布に遮られてなお眩しい光に意識が覚醒へと促される。
 重い身体をどうにか動かして仰向けになったマデリーンは、ゆっくりとまぶたを開いた。
 アイボリーのカーテンの隙間から差し込んでくる日の光は、彼女が思っていたより高い位置から降ってきている。まさかそんなはずは。そう思ってぎこちなく首を動かし、ベッドサイドにある無機質なデジタル時計へと視線を向ける。
 表示されていたのは正午に程近い時刻で、こんなに遅くまで眠っていた事など久しくなかったマデリーンは、信じられない思いで低く呻いた。
 それもこれも、全てはランドルフが悪いのだ。
 あの後、ベッドに座ったままの体勢で二人が共に達した後も、ランドルフはマデリーンを離さなかった。呼吸と鼓動を整えるため、妻を抱きしめたままベッドへと倒れこんだ彼は、まだ激しすぎる情熱の余韻でぼんやりしていたマデリーンの身体からバスローブを取り除き、どこか不満げな表情で一度身体を離して下着も取り去ってしまった。同時に彼自身も、ろくに下ろしていなかったスラックスと下着を脱ぎ捨てる。
 その時はただ単に、二人の汗と、それから口にするのも恥ずかしい種類の体液で汚れた着衣を脱がしてくれたのか、という感想しか抱いていなかったのだ。
 けれどランドルフはあれきしでは満足していなかったらしく、現実と恍惚の狭間をたゆたっていたマデリーンがそうと気づくより先に再び身体を繋げ、先立ってのそれ程ではないものの、十分すぎるほどの情熱と激しさで持って繰り返しマデリーンを愛し続けた。
 自分が何度絶頂を迎えさせられたのか、まったくわからない。
 結婚してからしばらくして、マデリーンがランドルフによってセックスの愉しみを覚えた頃にはこんな風に一晩中抱き合う事は少なくなかった。けれどここ数年はこんな激しい行為はなかったはずだ。
 若かった頃に比べれば、当然だけれどマデリーンの体力は格段に落ちていて、かつてならば空が白みはじめるまで付き合う事もできたけれど、もうそんなわけには行かない。
 まだ暗いうちにこれ以上は無理だと震える声で懇願したマデリーンへと欲望の丈をぶつけたランドルフは、体力の限界を超えたせいでぐったりと腕一本も動かせない彼女を抱いてバスルームに運び、湯を張ったバスタブの中で妻の身体を丁寧に清めてくれた。
 そして、これで本当に最後だからと腕の中に抱いた妻へと囁いた彼は、広いバスタブの中で、まるで自分だけが愛されているのではないかとマデリーンに思わせるような穏やかで優しい愛撫を施し、労るようにゆったりとした動きで彼女を愛した。
 最後に残されていた体力はそれで完全に使い果たしてしまい、全身を痺れさせるようなエクスタシーを味わった後、マデリーンはそのまますとんと夫の腕の中で気絶するように眠りについてしまったのだ。
 それから一体何時間眠ったのだろう? 日が昇るのが早くなってきたとはいえ、最後の記憶の中で、薄いカーテンの向こうはまだ真っ暗だったはずだ。ならば眠りに就いたのは遅くても五時ごろだろうか。それともバスルームで過ごした時間は、彼女が思っていたより長かったのかしら?
 ベッドと自分の身体を見下ろして、マデリーンはほんの少しくすぐったい思いで微笑を浮かべる。
 あれだけ激しい行為を繰り返したというのに、ベッドのシーツはきれいなものだし、彼女も手触りのいいシルクのパジャマを着ている。念のために触れて確かめれば、下着もきちんと着けているようだ。
 どうやらランドルフは彼女が眠りに落ちた後、彼女を拭いてパジャマを着せ、ベッドメイクまでしてくれたらしい。
 昔なら、二人で限界に達した後はそのまま眠ってしまい、目が覚めてから乾いた体液で酷い事になったベッドで目覚める事も少なくなかったのだが、どうやら夫はきちんと学習能力というものを持っていたようだ。手加減する、と言う事に関しては、学習しきれていないみたいだけれど。
 それにしても、と、マデリーンは重苦しい息を吐く。
 心がどれほど引き裂かれていても、身体は引き裂いた当人を受け入れる事ができてしまうのね。
 疑念と哀しみに満たされていながら自分がどれだけランドルフを求めたのかまで思い出し、自嘲が浮かんでくるのを止められない。
「心と身体は別って、本当だったのね……」
 痛みが深まるだけだと知りながら呟き、彼女はゆっくりとベッドを降りた。
 ノックの音が響いたのは、マデリーンが窓際のロッキングチェアからナイトガウンを取り上げた時だった。
「母さん、そろそろ起きた?」
「アマデオ……? どうかしたの?」
 母親の返答を了承の意と捉え、少年は寝室のドアを開ける。寝起きでぼさぼさの髪を手櫛で整える彼女の元へと駆け寄っておはようのハグとキスをすると、興奮も露わに告げた。
「あのね、今日は父さんと僕でランチを作ったんだ。天気もいいし、外はそんなに寒くないから、セントラルパークでピクニックしようって話になってさ。僕達の準備はもうできてるから、後は母さんだけだよ」
「ランチ? あなた達が?」
 ――二人で、何をしたですって?
 想像の及びつかない事柄を聞かされ、マデリーンは軽い混乱に目を瞬かせる。そんな母親ににんまりと笑い、アマデオは得意げに続けた。
「ちゃんと味見したから大丈夫だよ。食べられないものは入れてないし、ちゃんと美味しかったから。だからさ、早く着替えておいでよ」
「え、ええ、すぐに行くわ」
 戸惑いの抜けきらない母親の腰へとくすくす笑いを漏らしながら抱きついたアマデオは、待ってるからね、と元気よく言い残し、快活な足取りで寝室を後にした。


「やあ、マデリーン。かろうじてグッドモーニングと言える時間だな。よく眠れたかい?」
 全身に疲労感が残るマデリーンとは違い、実にすっきり爽やかな様子のランドルフに、マデリーンは鋭い視線を投げる。
「ええ、それはもう、誰かさんのおかげでね。それよりあなた、アマデオが何か聞き慣れない事を言っていたのだけれど……?」
 妻の剣呑な視線や声にも負けず、リビングを横切ってやってきたランドルフは、彼女の腰を軽く抱いてその頬へと挨拶代わりのキスを落とす。複雑な表情でそれを受け止めながら、マデリーンも同じようにキスを返す。それからダイニングのテーブルへと視線を巡らせ、そこにちょこんと鎮座ましましているピクニックバスケットを見つけた。
「……あれ、本当にあなた達が作ったの?」
「作ったのは中に入ってる物の方だけれど、答えはイエスだ。空腹を訴えて騒ぐジュニアを黙らせるには実にぴったりだったよ」
「僕、うるさくなんかしてないよ! それに、母さんが疲れてるって父さんが言うから、何かデリバリーしてもらったらどうって提案したのも僕だし」
 駄々っ子扱いをされ、体面を取り繕わんとアマデオが間髪いれず言葉を返す。少年のプライドを尊重して鷹揚に頷いた父親は、楽しげな表情を崩さず問い返す。
「確かにそのとおりだな。だが、料理をするのも中々楽しいだろう?」
「簡単だったしね。今度、ロビンに作って驚かせようかな」
「それはいいな」
 和気藹々と言葉を交し合う父子の様子はマデリーンの心を温める。
「さて、それじゃあ出かけようか。君は寝起きだからまだあまり空腹じゃないかもしれないが、セントラルパークまで散歩すれば身体も目覚めるんじゃないかな?」
「そうね。でも、その前に何か飲ませてちょうだい」
「ああ、もちろんさ。――朝はいつもグレープフルーツだったね?」
 頷きながら、マデリーンは純粋に驚く。ランドルフが自分の好みを覚えてくれていたなんて、思いもしなかったのだ。
「僕が入れてくる。母さんは座ってて!」
 キッチンへと移動しかけたランドルフを牽制するようにアマデオが飛んでいく。その姿を見送って、ランドルフは僅かにまなじりを鋭くした。
「なんだあいつは。俺から君を奪い取るつもりか?」
「まさか。あの子にはちゃんとガールフレンドがいるのよ?」
「ガールフレンド? ……もしかしてそれは、昨日からあいつが連呼しているロビンって子かい?」
「ええ」
 あっさりと頷いてみせると、ランドルフはにやりといたずらな笑みを口元に浮かべた。
「名前から男の友達かと思っていたんだが、あまりに何度も聞かされるせいで、危うく間違った想像をしてしまうところだった」
 大げさに息を吐いて胸を撫で下ろす姿に、マデリーンは小さく吹き出す。
「何も知らずに彼女と出会っていても、同じ想像をしたかもしれないわね。ロビンって、とてもハンサムだもの」
「ハンサム? それは女の子相手にはあまりふさわしくない賛辞だと思うが?」
「だけどぱっと見、本当に王子様みたいなんだもの。ブラウンの髪をいつもうなじでまとめているのだけれど、とても貴公子然とした顔立ちの子でね。私が十歳なら、性別なんか関係なしに恋してしまいそうなくらいよ。だけどアマデオと並んでいる姿はボーイッシュな美少女にしか見えなくて、いつも不思議に思うの」
 自分の言葉に一々表情を変えるランドルフを見て、マデリーンはくすくすと笑う。
「ロビンは確かに美形だよ。転校してきた当初は女の子達がすごい騒いでてさ、その日の放課後にはチアリーグのレベッカが付き合わないかって誘ったくらいなんだよ」
「レベッカって、お前のガールフレンドじゃなかったのか?」
「違うよ! 確かに何度かデートしたけど、あの子の喋る事ってファッションの事とアイドルの事ばっかりなんだもん。つまらないからもうデートしないって言ったら、ものすごい顔してデリカシーのない最低な男だって言われた」
 飄々ととんでもない事を口にする息子に、ランドルフもマデリーンも唖然として息子を見つめる。そんな両親の表情に、アマデオはきょとんと視線を返す。
「どうかした?」
「いいえ……なんというか、あなた、本当に……」
「?」
 瞳の色以外はまったく同じ造りの顔がマデリーンへと向けられる。
 ためらったのはほんの数秒で、彼女はくすりと笑みを零し、どこか愉快げに言ってのけた。
「昔のランドルフそっくりだわ」
「……マデリーン?」
「げ、マジ?」
 二人して思いっきり顔を引きつらせるのを見ながら、マデリーンはころころと笑って言葉を続ける。
「ええ、本当よ。あれは……そう、私がコロンビア大学に見学に行った時だったわね。ランドルフがキャンパス内を見せて回ってくれたのだけれど、その時通りすがりの学生に声をかけられたの」
「マデリーン、そういう話を子供にするのは――」
「あら、別にいいじゃない、昔の事なのだし。それに、アマデオはあなたが思っているよりずっと大人よ? ねえ、彼女の名前、メリッサで合ってる? いえ、メリンダだったかしら?」
 問いかける妻の視線に、低く呻いてランドルフは返す。
「……ミリガン、だったと思う」
「ああ、確かにそんな名前だったわね。 ――とにかく、その人がランドルフに訊ねたの。『その子は新しいガールフレンドかい? ミリガンが知ったら怒るぞ』って。それに対する彼の答えが、さっきのあなたとそっくりだったの」
「マデリーン」
「『彼女とは何度かデートしたけど、ゴシップとファッションの事しか話題のない相手とは間が持たないって言ったら引っぱたかれたよ。多分、向こうも俺とはもう二度とデートしたくないと思ってるはずだ』」
 咎める声を振り切って、最後まで一息に言い切ってしまう。
 がっくりと肩を落としたランドルフに、呆れたような視線をアマデオが向ける。
「なんていうか、父さんも大概酷いね」
「お前もだけどな」
「あら、私はどっちもどっちだと思うわよ」
 あっさりと告げるマデリーンに、男性二人がじっとりとした視線を向ける。そんな視線をさらりと受け流し、マデリーンは妙に真面目な顔つきで息子に向き直った。
「……ねえ、アマデオ。お願いだからお父さんの悪いところは見習わないでちょうだいね?」
「マデリーン!? 君は、自分が一体何を言ってるかわかってるのか?」
 妻の言葉に衝撃を受け、ランドルフが声を荒げる。そんな父親とは対照的に、アマデオはやけに神妙な顔で頷いた。
「わかってる。僕はロビンを哀しませるような真似はしないよ」
「ジュニア、お前……」
 どこか満足げな表情で視線を交し合う母子の様子に、何か妙な含みを感じる。
 けれど一人だけ仲間はずれにされたランドルフは、その大元を質す権利を自分が手にしているようには思えなかった。