かぶ

真実の目覚める時 - 13

「浮かない顔をしているな」
 ドレッサーに向かって髪を梳かしていたマデリーンは、背後からかけられた声に視線を上げる。
 無意識に手は動かしていたが、どうやら視界は何も映していなかったらしい。バスローブに身を包み、手にしたタオルで髪を拭きながら近づいてくる夫の姿を鏡越しに見つめながら、彼女はうっすらと笑みを浮かべた。
「そう、かしら。きっと、ぼうっとしていたからそう見えただけだとおもうけれど」
「本当に?」
 鏡越しだと遠近感が大いに狂うらしい。まだ遠くにいるように見えていたランドルフは、気がつけばもう手の届く距離にいる。
「君はいつもそうだな。何があっても動じてくれない。――いや、違うか。内心では動じていても、それを俺には見せてくれないんだ」
「そんな事……」
「ないとは言わせない」
 きっぱりとした夫の声に、マデリーンは小さく息を吐いてブラシをドレッサーへと戻す。
 振り返って視線を上げると、すぐ後ろに立っていたランドルフが、下ろした前髪の間から暗い瞳で彼女を見下ろしていた。
「君にとって俺は、そんなに頼りにならない夫なのか?」
「そんなんじゃないわ。ただ……」
「ただ?」
「……お仕事だけでも大変なのに、些事であなたを煩わせたくないと思っているだけ」
「些事、ね」
 ふん、と鼻で笑い飛ばし、ランドルフはその場に膝をついてマデリーンと視線を合わせる。
「そうやって君が俺から自分の問題を遠ざけるたび、俺は君が俺との間に距離を置こうとしているように思えてならない」
 一瞬、息が止まった。まさか夫がそんな風に考えていただなんて。
「きっと君はそうは思っていないのだろうけどね。でも、俺にはどうしてもそう思えて仕方ないんだ」
「あなた……」
 夫がそんな風に考えていただなんて、思いもしなかった。もしかして彼は、マデリーンが自分で思い込んでいたよりも、彼女の事を気にかけていてくれたのかもしれない。
 そんな期待に高まりを見せた心は、しかし次の一言でぴしりと凍りついた。
「君は俺の妻だ。妻の問題は夫である俺の問題でもある。だから何か問題があるのなら、話してくれ。家族の事でも、君個人の事でもかまわない。それの解決を図るのは、俺の果たすべき役目だろう?」
 やはり自分は、ランドルフにとって義務の一つでしかないのだ。
「そうね。では、何か問題が起きた時には必ずあなたに報告します」
「報告って……マデリーン、君は俺の部下じゃないんだ。そういう物言いはよしてくれ」
「あら、違ったの?」
 苦々しいランドルフの声に、マデリーンは努めて明るい口調で訊き返す。
「当然だ。夫婦間の事ならば立場は同等だが、家庭内の事に関して言えば、むしろ君の方が俺よりも立場は上だろう?」
「そうだったの? なんだ、そうと知っていれば、もっとあなたにあれこれ指図していたのに。ううん、この十年、もったいない事したかもしれないわね」
 くすくすと笑って言葉を返せば、ランドルフが呆れたようにやれやれと首を振る。
「もしかして俺は、とんでもない墓穴を掘ってしまったのかな?」
「そうかもしれないわね。覚悟していてちょうだい。きっと明日からは、帰宅時にあれやこれやとお使いを命じられるはめになるかもしれないわよ?」
「……なんて事だ。とうとう俺も他の連中の様に、妻の尻に敷かれるはめになるのか」
 大げさに嘆息したランドルフは、けれど次の瞬間、不意打ちの様にマデリーンの腰へと手を滑らせた。
「だが、この尻の下に敷かれるのなら、それも本望かもしれないな」
「! ランドルフ!?」
 唐突な態度の変化にびくりと反応したその身体を、ランドルフは両の腕で捕まえる。
「話はまだだ、マデリーン。どうして気になる事があるのに、それを俺に訊かない?」
「何の事かしら」
「例えばさっきの件だ。ケネスの言葉に、君は確かに反応していた。だけどそれについて、俺を問い詰めようともしない」
「だってあなた、きちんと説明していたじゃない」
 内心の動揺を押し隠すように微笑むものの、こうもしっかりと抱きしめられていては、乱れた鼓動を隠せるはずもなく。
「けれど信じてはいないのだろう? いや、信じようと努力しているものの信じきれずにいる、というのが正しいか」
「そんな事……」
「ないとは言わせない」
 あまりにもきっぱりと決め付けられて、咄嗟に反発したくなる。けれど彼の言葉が真実であるからには、否定をする事もできない。ランドルフはアマデオと同じでとても鋭い。嘘やごまかしを口にすれば、それが真実でない事は、即座に見抜かれてしまう。
 だからいつも、マデリーンは沈黙を守るのだ。
 視線を伏せて口を閉ざす妻をランドルフはじっと見つめ、それからゆっくりと息を吐いた。
「また、だんまりか。……俺はそんなにも、君に信用されていなかったんだな」
 寂しげなその口調に、はっとして視線を上げる。とても深い茶色の瞳が傷ついていて、心臓の奥深くへと、鋭いガラスの欠片が差し込まれたような気がした。
「信用、していないわけじゃありません。ただ……」
「ただ?」
「ただ、あなたを信じているだけです。あなたの告げる言葉を、信じているんです。だから何も訊く必要がないの」
 その言葉に嘘などない。
 マデリーンはいつだって、ランドルフの言葉を信じている。――信じようと、している。それでも時折、信じきれない時があるのだとは、惑いを覚える事があるのだとは、口にはしなかった。
 見下ろしてくる夫の瞳は、彼女の言葉がどこまで真実なのかを見極めようと鋭く光っていた。速くなりそうな呼吸を意識的に抑え、それが自分の真実なのだと伝えるために、ひたと視線を合わせる。
 長くも短くも思える時間の後、長い指が優しくマデリーンの頬に触れた。
「どうやら俺は、どうしようもなく不甲斐ない夫だったみたいだ」
「え……?」
「妻がこんなにも夫を信じてくれているというのにその真意を疑っていただなんて、愚かの極みだろう?」
 すい、と、指先で掬い取った一房の髪にそっと唇で触れ、ランドルフは穏やかな笑みを浮かべる。
「ケネスのあの発言に対して、正直かなり怒っていたんだが、俺もあいつに対して大人気ない真似をしていたのは事実だからな。自業自得だと納得しない事もない。だが、君を傷つけた事に関しては、あいつを許すわけにはいかない」
 厳しい口調で低く唸るランドルフの手が、無意識にマデリーンの髪を強く握る。引張られてはいないから痛みは感じないものの、掴まれたそれから、彼の深い怒りが伝わってくる。
「――私は大丈夫よ。あなたはちゃんと説明してくれたもの。だからあなたにも、もちろんケネスに対しても、怒ってなんかいないわ」
「だが、マデリーン」
「本当よ。信じてちょうだい。私は何も、怒っていない。それどころか、あなたたちに対して申し訳なく思っているぐらいなんだから」
 正直な思いを口にして、困ったように微笑む。
「誰かを夕食に招くのなら、やっぱりきちんとあなたに伝えておくべきだったわ。きっとケネスが伝えてくれるって勝手に思ってしまっていたけれど、他人任せはやっぱり駄目ね。今度からはきちんとあなたに前もって、直接は無理でもせめてメッセージを送る事にするわ。それなら驚かせる事にもならないでしょう?」
「マデリーン……君は俺たちを甘やかしすぎだ」
 そっと妻を抱き寄せ、観念したように息を吐きながらランドルフが呟く。
「そう?」
「ああ。他の夫婦だったら、賭けてもいい、きっとケネスの一言で泥沼な夫婦喧嘩が始まっていたはずだ。そうならなくても、俺の説明に対して疑念をぶつけるぐらいはされていたはずなのに。そのついでに、君の立場に立たされた女性は、火種を投げ込んだ当の本人を恨めしく思っていただろう」
 やけに実感の篭ったセリフに、マデリーンは小さく笑う。そして、茶目っ気たっぷりに訊いてみた。
「あら、そうした方がよかったかしら?」
「そう……だな。ほんの少し、君が嫉妬を見せてくれるかと期待していたかもしれない。だが、争いたいかと訊かれれば、答えはきっぱりと否だ。まあ、物分りが良すぎるのもどうかと思うけどね」
「ランドルフ、それじゃあ私はどんな反応を見せればよかったのか、結局よくわからないままだわ」
 あまりに矛盾した言葉を返され、マデリーンは戸惑いの瞳を投げる。それを真正面から受け止めた夫は、穏やかに微笑んで返した。
「そのままの君でいい。ただもう少し、俺に遠慮しなくなってほしいだけだ」
 それが紛れもない真実であると、マデリーンにははっきり伝わってきた。
 だからその言葉に対して僅かな戸惑いはあったものの、最後には「わかったわ」と答え、抱きしめられるままに夫へと身体を預ける事にした。

* * *

 残っていた仕事を終え、そろそろ就寝しようかと立ち上がったところで、机の片隅においてあった携帯電話が無機質に着信を告げた。
 表示された番号を見て小さく息を吐く。
「はい」
『あたしよ』
「わかってる。何の用だ?」
『決まってるじゃない。明日以降の予定を教えてちょうだい』
「今のところ、特に変更はない」
『あら、本当に?』
「君に疑われるような云われはないんだが」
『それはどうかしら。今日だって、あんなにさっさと帰るとは教えてもらってないわ。この間だって、予定が変わったって連絡が遅かったし?』
 棘のある言葉に、彼は苛立ち混じりに息を吐く。
「それはすまない。だが、あの人の行動を前もって予想するなんて無理だからね。それに俺は、はじめから伝えておいたはずだ。『遅くなるかもしれないが、早く帰るつもりだ』と、そう伝えなかったか? はっきり言って、今日はこっちも不意を突かれたんだ。おかげでいらない失態を見せてしまった。……君の事だから、もっと上手く立ち回ってくれると思っていたんだけどね」
 言外に、電話の相手にも非はあるのだと告げる。それに気づかぬ相手じゃない。損ねた機嫌も露わに、鋭く切り返してきた。
『あたしは……精一杯、努力したわ』
「へぇ? 君が? 精一杯努力して? ……正直、最近になって君の言い分がどこまで正しいのか、わからなくなってきたよ」
『馬鹿を言わないで。ただ、障害があるからはっきりした行動に出られないってだけよ。あなただってそうでしょう? 障害があるから欲しいものが手に入らない』
「こっちの状況はともかく、そっちの状況が本当に君の思っているとおりかどうかがわからないと言ってる。あの人の真意が一体どこを向いているのか、今日は真剣に混乱させられてしまったよ」
 電話口のこちらでそっと吐き出した嘆息は、彼女にしっかり届いてしまったらしい。
『さっきも言ったでしょう。障害さえなくなれば、それでいいの。だからそっちもあたしにとっての障害を取り除くよう、最大限努力してちょうだい』
「それはするけれど……まあいい。昨日の事を上手く使えば少しは揺さぶれるかもしれない」
『何でもいいからちゃんと協力して。いいわね』
「わかりましたよ。じゃあ、また何かあれば連絡する」
『ええ、待ってるわ』
 それだけで、何のためらいもなく通話は打ち切られた。
 こちらもこちらでさっさと終話ボタンを押し、無造作に机の上へと携帯を投げる。胸の中に溜まった苦い息を吐き出すと、机の片隅に置いてある写真立てへと手を伸ばした。
 以前出張でイギリスに渡ったとき、とあるアンティーク市で偶然見つけたそのフォトフレームは、彼の中にある彼女のイメージにあまりにぴったりで、それを見つけた瞬間、恋に落ちたような衝撃を受けた。普段ならきっちりと値段交渉をするというのに、この時ばかりは店主の言い値を素直に払ったぐらいだ。
 職人の手作りだという銀細工のフレームの中では瑞々しい緑の中で一人の女性が、輝くような笑顔をカメラとは違う方向へと向けている。
 その笑顔の向かう先が誰なのか、彼は知っていた。その対象が自分でない事など、先刻承知だ。
 彼女がその笑顔を向けるのは、彼女が心から愛しているただ一人だけ。彼にできるのは、その笑顔を横から盗み見るだけ。
 冷たいガラス越しに指先で写真の頬を撫で、染み入る痛みと共に彼女の名を祈りにも似た気持ちで囁く。
 彼女の笑顔を手に入れるためには、一度その笑顔を曇らせなければならない。それが苦しくないとは言わない。だが、目的のためならば手段を選んではいられない。
「マデリーン……すまない」
 謝罪の言葉を口にして、彼は手の中のフォトフレームを元の位置へと戻した。