かぶ

真実の目覚める時 - 14

 その音が耳に届いた時、彼女は微睡みの中にいた。
 昨夜は何が原因だったのか、残っていたらしい仕事を改めて終わらせた後、出張から戻った夜と変わらぬ激しさでランドルフはマデリーンを抱いた。それ故に朝早くから起きだして夫と息子を送り出した後で、彼女は足りない休息を、日の良く当たるベランダ沿いに置いたカウチでゆったりと貪っていたのだ。
 遠くから聞こえてくるその音に意識を覚醒させ、どこかぼんやりとしたままリビングへと入る。セントラルヒーティングがあるとはいえ、最低限の温度に保たれている室内は、窓際こそ日差しによる熱で微睡むにやぶさかではない温度を保っているものの、陰の部分では冬の冷気が人工の熱と小競り合いを続けている。温められていた身体が冷えるのを感じ、マデリーンはふるりと僅かに身を震わせた。
「ハロー?」
『ミセス・ランドルフ・モーガンヒル?』
 その声が意味するところを認識した瞬間、先程とは違う理由で身体が震えるのを感じた。
「そう、ですが。今日はどのようなご用件でしょうか」
『昨夜の事で誤解がないようにと思ってお電話を差し上げているの。この意味、おわかりよね?』
「誤解? どういう意味かしら?」
『あの人、昨日は早く帰ったけれど、それは私がそうさせてあげたからだって事』
 声に滲む苛立ちと優越に、マデリーンは心臓が冷たく凍えるのを感じる。
 だけどそれに負けるわけにはいかない。何より今日は、どうしても確認しなければならない事が一つあった。
「……あなた、ミズ・ブルネイね」
『あら、どうしてそう思うの?』
 投げた疑問に、電話線の向こう側にいる女性は大して動じた様子を見せなかった。それはマデリーンが間違えているからなのか、それとも自分の正体が知られている事をすでに知っていたからなのか、一概には判じ切れない。今のマデリーンにできるのは、それが賢い事ではないと知っていても、自分の手札を曝すだけだ。
「昨日、ケネスが話していたの。ランドルフがエスコートしたのはあなただって」
『それで? あなたのご主人はどう言っていたのかしら?』
 依然、声に変化はない。もしかして自分は間違えていたのだろうか。
「彼は……認めたわ。けれど会場までエスコートしただけとも言っていたの」
『だから私と彼は何の関係もないと、そう言いたいの? これまで私が話した事は全て嘘だと?』
 馬鹿馬鹿しいとでも言わんばかりに、鼻先で笑い飛ばす声が耳に届く。
『なら、いい事を教えてあげるわ。ええ、そうよ。ランドルフは私を会場にエスコートしてくれたわ。会場に入るなり、それぞれの用事を済ませるために別れた事も認めてあげる。だけどね、問題は会場に入るまで、ではなくて?』
「――どういう、意味かしら」
 喉の奥を、重く冷たい何かが滑り落ちる。
『その気があるのなら調べてみればいいわ。地下の駐車場で私があの人を出迎えてから私たちが会場に入るまで、一時間ほどタイムラグがあった事なんて、すぐにわかるわ。私があのホテルで部屋を取っていた事もね。ここまで言えば、その間私たちが何をしていたのか……わかるわよね?』
 毒に満ちた言葉は、マデリーンの中の何かを確実に打ち砕いた。
 その場に崩れ落ちそうな自分をぎりぎりのところで押しとどめ、しかしすぐ傍らの壁に縋るようにしながら、マデリーンはアリシアから投げられる言葉をただ受け止めていた。
『いい機会だわ。あなたもそろそろ覚悟を決めたらどう? あの人は息子を産んだあなたを気遣っているのか自分から言い出そうとはしないけれど、私のために離婚してくれるつもりなの。今はまだ隠れて会うしかできないけれど、それはあなたがいるからだって、口癖のように言ってるわ。だからね、あなたから言ってほしいの』
「な、にを……?」
『決まってるでしょう。離婚の一言よ。そうすればランドルフは喜んであなたと別れ、私と新しい人生を歩んでくれるようになるわ。あなたもまだそんなに歳をとってるわけじゃないんだし、学位もあるんだから、子供がいても自活するぐらいできるでしょう?』
 頭の中が真っ白になった。
 離婚を求められる、というところまでは、したくはなかったけれど想像できていた。だけどまさか、アマデオの親権をあっさり自分に預けるような事はないだろうと思っていた。
 ランドルフは、マデリーンはともかくアマデオの事は深く愛している。だから万が一にも二人が離婚するような事があったとしても、息子は手放さないだろうと思っていた。
 だというのに、今告げられた言葉は予想の真逆を行く。
「待ってちょうだい。それは……それは本当に、ランドルフの意思なの? あの子を、アマデオを私に引き取らせるというのは……」
『当然でしょう。だって、その子はあなたの子供なんだもの。ああ、安心してちょうだい。ランドルフの後継者なら、これから私が何人でも産んであげるから』
 くすくすと笑うその声すら、もはや耳には入ってこなかった。世界が一気に色のないものへと変わっていく。
『とにかくそういう事なの。なるべく早く覚悟を決めて、あの人を解放してあげてちょうだい。もちろん、私からもあの人にお願いして、あなたたちの生活に支障がないよう援助してあげるから』
 どこまでも上からの言葉だったが、それすら気にならなかった。今のマデリーンには、夫が息子すら切り捨てようとしているという、それだけしか理解できなかった。
 それから一体どれだけの時間が経ったのか、気づいた時にはすでに通話は切れていた。戸惑って時計へと視線を移せば、まだ十時を回ったばかりだったはずが、すでに正午に程近くなっていた。
 まだ微かに震える手で受話器を戻し、立ち上がる。
 朝食を摂ったのは家族を送り出す前だったから、本来ならばすでに空腹でもおかしくないはずだ。なのに何か食べたいとはこれっぽっちも思えなかった。
 今は、たとえ現実逃避だと言われようと、全てを忘れてただひたすらに眠りたかった。一度眠ってしまえば、今の会話は悪い夢だと思えるかもしれない。
 強すぎる衝撃に泣き出す事もできず、乱れた足取りで寝室へと向かったマデリーンは、何も考えずベッドへとその身を投げ出した。