かぶ

真実の目覚める時 - 15

 その日、いつもどおりの時間に出社したランドルフは、重苦しい雰囲気を纏った秘書の姿を自分のデスク前に見つけ、足を止めた。
「ケネス?」
「おはようございます」
「……本当に早いな。何か急な用件でもあるのか?」
 僅かに眉をしかめた上司へとまっすぐ視線を返し、ケネスは首を横に振る。
「――昨夜の事を、改めて謝罪したく思いまして。状況や身の程を弁えず、過ぎた事を申しました」
 深く頭を下げる青年を、ランドルフはデスクにビジネスバッグを置きながらじっと見つめる。
「いや、昨日の事は俺にも非がある」
「そうですね」
 あっさり肯定されて目を瞠るものの、ランドルフは小さく肩を竦める。
「だから、俺とお前の間では痛み分けとしよう。それでいいか」
「はい。ところでマデリーンは……その、僕の言葉を、気にしてましたか?」
 なるほど、つまりこいつはそれが気になって早くからここで待っていたのか。
 おかしいと思っていたのだ。昨日の状況からして、また、ケネスの性格からして、ランドルフの怒りを解くためだけに早朝から待ち構えるという行動はあまり彼らしくない。同じ待ち構えるにしても、本来の彼ならばむしろ、なぜあのような言動に出たのかを淡々と説明し、納得させようとするはずだ。なぜならあれきしの事でランドルフが傷ついたり怒ったりするはずがないと、ケネスは知っているのだから。
 けれど昨夜、ケネスの投げつけた言葉はランドルフだけではなくマデリーンにもぶつかってしまった。
 家族を交えての付き合いをはじめて以来、ケネスとマデリーンは実の姉弟もかくやと言うような穏やかで親密な関係を育んでいる。ランドルフはケネスにとって目指すべき目標であると同時に、いずれは追い抜こうと思っている対象でもある。だから時には全身でぶつかり合う事もあるが、マデリーンはそういう対象ではない。
「……お前にした説明で納得したらしい。多分はじめから、大して気にしてなかったんじゃないか」
 軽く肩を竦めながら、起動したPCを操作して新着メールの受信を開始する。
 見る見る増えていく受信リストに目を落としたまま、ランドルフは続けた。
「どうしても気になるなら、時間が空いた時にでも電話して直接謝ればいい」
「いいのですか?」
「電話するのが気まずいなら、メッセージでも花でも送ればいい。……そうしないと気がすまないのだろう?」
 どうやら図星だったらしい。仕事モードに入ればいくらでもポーカーフェイスを貫ける青年が、まるで少年のように顔をかっと赤らめて視線を彷徨わせている。
「まったく、別にそれならそうと最初から言えばよかったんだ」
「そうでしたね。今後は単刀直入に申し出る事にしますよ」
 くつくつと喉の奥で笑う上司に、ケネスは溜め息混じりに肩を竦める。
「今のところ、用事はこれだけです。後ほど本日の予定を伝えに参りますので」
 告げて一礼し、くるりと自分の机のある秘書室へと踵を返す。その背中へ、ランドルフは呼びかけた。
「ケネス」
「なんでしょう」
 足を止め、顔だけで振り返ったケネスに、視線を上げぬまま告げる。
「マデリーンに関して、抜け駆けしようなんて考えは持つな。彼女は俺の妻だ」
「…………」
「もう一つ。俺に対して不満があるなら俺にぶつけろ。彼女を巻き込むな」
「……わかりました。今後はそうします」
「ああ。そうしてくれ」
 その言葉を受けて、ケネスが再び歩き出す。程なく秘書室に続くドアが開き、静かに閉ざされた。

* * *

 その電話を取ったのは、学校から帰って来たばかりのアマデオだった。自室に持ち帰った荷物を置き、ホームワークに取り掛かる前にジュースでも飲もうかとリビングにやってきたところで機械が受信を告げたのだ。
「ハロウ?」
『ランディかい? 僕だ、ケネスだけど……お母さんはいるかい?』
「……いるけど、何の用?」
 いつもなら声も表情も明るいものになるはずが、昨日の一件があったせいで、つい警戒が先立ってしまう。
 それに気づいたのだろう。ケネスは電話線の向こう側で、苦い笑いを漏らした。
『昨日の事を、改めて謝りたいんだ。君にも不快な思いをさせたね。本当にすまない』
 意外にも、と言えば失礼になるかもしれないが、ケネスは真剣な口調でアマデオに謝罪の言葉を告げる。
 子供と見れば、まるで物事のわからない幼児を相手にするような態度を取る大人が多い中で、アマデオが年齢に見合わない早熟な精神を持っている事を知っているケネスは、少年を小さな大人のように扱ってくれる。
 だからアマデオは、父親の秘書であるこの青年が大好きだった。
 大好きな人が大切な人を傷つけたという事が赦せなかった。だけど本人が反省をしているのなら、そして同じ過ちを繰り返さない限りは、赦してあげるべきだ。他ではどうかしらないが、とにかく少年はそう教えられている。
「ケネスがちゃんと反省してるなら、僕はいいよ。でも、今度母さんを傷つけたら、その時は絶交するからね」
『わかってるよ。……ありがとう』
 あえて子供っぽい言い草で、しかし限りなく本気でそう告げると、ケネスは心底からほっとしたように言葉を返してきた。
『ところで、マデリーンは……』
「待って。すぐに呼んでくるから。――時間、大丈夫だよね?」
 改めて確認したのは、今がまだ午後四時過ぎ――すなわち就業時間中であると知っていたからだ。もし、父親の目を盗んでこっそりかけてきているのなら、あんまりのんびりしていられないはずだし、私用電話が見つかるのはあまり具合がよくないだろう。
 そう考えて心配になった少年の耳に、すっかりいつもの調子に戻った青年の声が届いた。
『大丈夫だよ。忙しい時間じゃないから』
「そうなんだ。じゃあ、少しだけ待ってて」
 こちらもあっさりと機嫌を直し、保留ボタンを押して両親の寝室へと向かう。
 軽い足取りでやってきたアマデオは、ノックをする直前になってほんの少し躊躇した。
 いつもならマデリーンが自分で迎えに来てくれるのだけれど、今日は体調が思わしくないからロビンを迎えにきた車に同乗してくるようにと伝言を受けたのだ。
 もしまだ体調が悪いのなら、できるだけそっとしておきたい。そう考えたものの、呼んでくるとケネスに告げてきた手前、ここで踵を返すわけにもいかない。
 結局、ほとんど聞こえるか聞こえないかというような控えめなノックをして、反応があるかどうかを試す事にした。
 果たして、寝起きのような掠れた声がドアの向こうから返ってきた。
「……アマデオ? どうかしたの?」
「ええと、ケネスが昨日の事を謝りたいって電話してきてるんだ。体調が酷いならかけなおしてもらうけど……」
「そういう事なら出なくちゃね。少し待って」
 ドア越しにも、疲労感の滲む声だった。本当に大丈夫だろうかと少年はいぶかしんだが、落ち着いた足音は確かに近づいてくる。程なく開かれたドアの向こうから現れた母親の顔を見て、アマデオは真剣に顔をしかめた。
「母さん、本当に大丈夫?」
「少し眠ったから」
 それでは答えになっていない。よっぽどそう返してやろうかと思ったが、今の母親の様子を見れば、そんな事をすれば逆効果である事など、馬鹿でもわかる。苦々しい気持ちで、彼は短く告げた。
「電話、保留にしてるから」
「ありがとう」
 血の気の薄い頬に笑みを浮かべ、リビングへとマデリーンは向かう。その足取りは、傍目にもしっかりしているとは言いがたく、表情が暗くなるのを止められない。
 開かれたままのドアから寝室の中へと視線を向けるが、起きたばかりらしく乱れたブランケットが目に付く以外、気になるものはない。
 しばらく考えて、アマデオは一番初めの目的を適えるべく、そして母親の様子を確認するべく、もう一度リビングへと足を向けた。