かぶ

真実の目覚める時 - 16

 どんなにそっと下ろしても、受話器はカタリと音を立てる。
 その音にさえびくついてしまう自身を情けなく思いながら、肺の底から息を吐き出す。空っぽになった身体を暖房でぬくめられた空気で満たすけれど、気分はほとんど晴れなかった。
「聞いてた限りじゃそうは思えなかったけど、もしかしてケネス、また何か言った?」
「――アマデオ!? いやだ、あなたずっといたの?」
 びくりと全身で反応したマデリーンを、ダイニングテーブルの向こう側からアマデオが、オレンジジュースの入ったグラスを手の中で玩びながらじっと見つめている。子供に特有のまっすぐすぎる視線が弱い心を見透かしているようで、なぜかいたたまれない気持ちが湧き上がってくる。
「うん、いたよ。母さんが心配だったから」
「心配って……どうして?」
「気づいてないの? 母さん、誰が見ても心配せずにはいられないような顔してるよ。本当に心配されたくないなら、もっとちゃんと大丈夫って顔してよ」
 口先では不機嫌を装っても、その瞳の奥にははっきりと不安が揺れている。
 あの日――電話の事を知られた日から、アマデオは何かにつけて母親を気遣い、時には先回りをして守ろうとさえしていた。それは少年らしい義侠心によるものだろうとマデリーンは思っていたのだが、もしかして、他にも何か理由があったのだろうか?
 浮かんだ考えをそのまま口にしようとするも、その直前に少年の顔がくしゃりと歪む。はっと息を呑んだ瞬間、アマデオが感情を爆発させた。
「僕、わからないよ。どうして母さんがそんなにも我慢ばっかりしているのか。どうして父さんに訊かないの? 電話の事、どうして隠してるの? 嫌がらせされてるんだって、はっきり言っちゃえばいいじゃないか!」
「アマデオ……?」
 めったにない息子の癇癪に、マデリーンは本気で反応を返せなかった。
 違う。めったに、などというものではない。アマデオのこんな様子を見るのは、まるで初めてだ。
「そうやって我慢して我慢して我慢してずっと我慢してたら、きっといつかロビンのママみたいになっちゃう! そんなの、僕は嫌。絶対に嫌だ! そんな事になるくらいなら、母さんが止めても僕が父さんに全部話す!」
 座っていた椅子から弾かれたように飛び出して、少年は母親へとしがみつく。その様子があまりに必死で、マデリーンは無意識に息子の身体を抱き返しながらも、必死で投げられた言葉の意味を理解しようとした。
 ロビンのママみたいに、という言葉が意味するものはわかる。年が明けて程ない頃、ロビンの母親であるローナが突然にその行方を晦ましてしまった一件の事だ。
 子供たちがとても仲良く、また住居が近いからという理由でマデリーンとローナも比較的親しく付き合っていたのだが、彼女の出奔はあまりにも突然で、それを知らされた時は心底から驚いたものだ。
 他人の家庭事情にあまり首を突っ込んではならないからと、敢えて詳しく聞こうとはしなかったのだが、寂しげな様子でロビンが語ったところによると、以前より夫婦間で何か問題があったらしい。けれどローナは積極的にその問題を解決しようとはせずに一人で抱え込んだ挙句、堪えきれなくなって家を飛び出してしまった。数日の内に現在の居場所を伝えては来たものの、飛び出してから三週間が経った今もローナが戻って来ていない事から、根本的な問題はまだ解決していないのだろうと推測している。
 ならばアマデオが恐れているのは、マデリーンがローナのようにある日突然どこかへ消えてしまう可能性だろう。
 だが、それにしてはこの反応はあまりにも激しすぎる。もしかすると、マデリーンが知っている以上の事を、ロビンから聞かされているのかもしれない。
 息子が何に怯えているのか、その根源を知らないままでは根本的な解決を図る事はできない。問題は、その内容をいくらマデリーンが問いただそうとも、他人のプライバシーに関わる内容であるからには、アマデオはけっして語ろうとはしないだろうという事だ。
 安易な慰めは逆効果だと、経験から知っている。それでもマデリーンは息子をほんの少しでも安心させてやりたくて、静かに口を開いた。
「……私はローナのように、あなたを置いてどこかに行ったりしないわ」
「それは、知ってる。でも、わからないじゃないか。母さんの我慢の限界がいつ来るかなんて、誰にもわからないよ。僕は……僕は嫌だ。これ以上母さんが苦しい思いをするのも、それをただ見ているのも、僕はもう嫌なんだ!」
 幼い手が、柔らかなニット地のシャツを強く握り締める。今にも泣き出すのではないかと思うほど潤んだ瞳を母親へと向け、少年はきっぱりと言い切った。
「母さんが父さんに言いたくないって言うんなら、僕が言う。止めても無駄だよ。誰よりも一番に母さんを守らなければならないはずの父さんが何も知らなくて、それで母さんを守れないっていうのなら、僕が母さんを守るために戦うよ!」
「アマデオ!?」
「だって、僕がそうしなきゃ、誰が母さんを守るの? 父さんの事だけじゃないよ。僕はあの日からずっと母さんの事を見てたけど、母さんはただ傷つけられているばかりで、ほんの少しも自分自身を守ろうとしないんだ。そんなのおかしいよ。どうして何もしないの? 嫌なら嫌って言えばいいんだ。あの電話の人にも、ケネスにも、それから、父さんにだって。もし母さんが自分で言えないんなら、僕が代わりに言ってあげる」
 ずっともどかしかった。歯がゆかった。自分が子供なのが、悔しかった。母親のために何もできないのが、どうしようもなく口惜しかった。
 嫌がらせの電話の事を知って以来、アマデオはマデリーンの一挙一動をじっと見守っていた。その間、頭にあったのは、母親が失踪した事を知った直後のロビンの事だ。
『母さんがあたしのために無理してたの、知ってた。だけどあたし、父さんと母さんと一緒に暮らせるのが嬉しくて、見ない振りしてたんだ。あたしが……あたしがもっと早く、もういいよって言ってあげれてたら、そうしたら母さんはこんな事、せずにすんだのに!』
 自分自身を激しく責めて大粒の涙を零し続ける少女を、アマデオはただ何も言わずに抱きしめるしかできなかった。
 あの時だって、彼は大切な少女のために何もできない自分を不甲斐なく思っていた。彼女が泣き止むまで、感情が落ち着くまで抱きしめて、涙を拭うしかできない自分が情けなくてたまらなかった。
 愛情があればどんな事でも乗り越えられる、などという謳い文句は、それぞれが差し出す愛情の重さが正しく釣り合っていなければ成り立たない。その厳然たる事実を、泣きじゃくるロビンを抱きしめながらはっきりと理解した。理解せざるを得なかった。
 だからあの日、偶然に電話を盗み聞きしてしまったアマデオは、自分の母親もロビンの母親と同じく危うい均衡を保つ天秤に乗っているのだと気づいたのだ。
 閉ざされた扉の向こうではどうなのか知る事はできないけれど、アマデオの前にいる時の両親は、喧嘩をする事はなくても、いつだってどこか他人行儀なよそよそしさがあった。交わす言葉は穏やかだし、挨拶代わりのキスは欠かさない。それでもお互いに一歩引いているような、そんなぎこちなさがあった。
 そのぎこちなさをこれまで疑問に思わなかったのが自分でも不思議だと思ったけれど、その原因はすぐにわかった。
 アマデオが二人の間にいる時は、二人とも惜しみない愛情を与えてくれるのだ。ただし、その対象はあくまで息子であり、人生のパートナーに対するものではない。アマデオが二人の間から身を引けば、とたんに二人の間には目に見えない隔たりが生まれてしまう。両親から受け取っていた愛情を、そのまま両親の間の愛情だと思っていたから、その不自然さにずっと気づかずにいたのだ。
 一度気づいてしまえば、もう目を反らし続ける事なんかできなかった。
 すぐにでも父親に全てを打ち明けるべきだと思ったけれど、それをしなかったのは偏にマデリーンがそれを望まなかったからだ。これまで隠し続けてきた秘密を息子に知られたというだけであんなに動揺したのだ。彼女の意思を無視して父親に話したりしたら、それがきっかけで考えたくもない色々が目の前に突きつけられるような羽目になれば、きっと彼の母親は耐えられないだろうと、容易く予想が付いた。
 だけどもう、これ以上は駄目だと思った。じりじりと母親が崖っぷちに押しやられているのを黙ってみているなんて、もう無理だ。
「母さんは僕や父さんと一緒に暮らせるだけで幸せだって言ってたけど、僕には全然そうは見えない。今のままで幸せなんだって、思い込もうとしてるだけにしか見えないよ。そんなのは、本当の幸せなんかじゃない!」
「っ――」
 顔を蒼白にして、ただ息を呑むしかできない母親に、自分が危ない橋を渡っているのは百も承知で、アマデオは目の当たりにした現実をきっぱりと突きつけた。
「本当はわかってるんでしょう? 母さんにだって、こんなのがいつまでも続けられるはずないって。父さんは……まだ気づいてないみたいだけど、それでもいつかは気づくよ。だけど父さんが気づいた時に母さんの我慢が限界を超えてたら、それじゃ遅すぎるんだ。そうなったら傷つくのは、母さんだけじゃない。父さんも――それに僕だって、ずっとずっと後悔する事になるんだ!」
 視界をずっと塞いでいた風船が、唐突に目の前でぱんと弾けて割れた。
 そうとしか表現できないような衝撃を受け、悲痛な表情を浮かべて見上げてくる息子を、マデリーンは身動きさえもできず、ただひたすらに見下ろしていた。
 自分自身を守るための殻に必死で閉じ篭っていたから、ずっと気づけずにいた。苦しんでいるのは自分だけだと思い込んでいたから、目の前にあるものすら見えていなかった。
 考えてみればすぐにわかる事だ。たとえば息子が病気にかかったり怪我をして唸っている時、彼女は看病をしながら、息子の苦しみを我が事のように感じていた。夫が仕事が上手く行かないからと悩んでいる時は、そっとその大きな身体を抱きしめながら、自分にも何かできればいいのにと心を痛めていた。すでにそれぞれの家庭を持っている兄弟たちに何事かがあるたびに、両親が諍いを起こすたびに、マデリーンも同じように苦しい思いをしていた。
 なのになぜ、自分の母親が苦悩している姿を目にするアマデオも、同じように心を痛めているだろうという単純極まりない事実に気づけなかったのだろう。
「アマデオ……ごめんなさい。本当に、ごめんなさい……」
「母さん……?」
 力なくその場に膝を突いて、息子の小さな身体を抱きしめる。喉の奥に熱いものが込み上げてきて、言葉を続けられない。
 けれど敏い少年は、すぐに母親の言葉が意味するところを理解した。悲痛に引き締められていた表情はくしゃりと崩れ、泣き笑いの顔になってマデリーンの首にしがみつく。
「謝らないで。僕だって、悪かったんだ。何かがおかしいってもっと早く気づくべきだったのに、目の前の幸福ばかり見ていたから気づかなかった。僕の方こそ、ごめんなさい」
「馬鹿ね、アマデオ。あなたが謝る事なんて、何一つないのよ? あなたはむしろ、私の目にかかっていた厚いベールを取り払ってくれたのだから。感謝の言葉を求めるならともかく、謝るだなんて!」
 やはり涙の滲んだ瞳で微笑んで、こつんと息子の額に自分の額をぶつける。
「私は強いつもりだったけど、本当は弱かったの。自分で自分を守ってるつもりだったけど、あなたの言ったとおり、守ってなんかなかったわ。ただ現実から逃げようとしていただけ。何があってもただ目を瞑って、何もなかった振りをしようとしていたの」
「だけど……どうして?」
 純粋な瞳で疑問を投げられ、マデリーンはゆっくりとした動作で立ち上がると、リビングのソファへとアマデオを促した。