かぶ

真実の目覚める時 - 18

「携帯電話を?」
 夕食時には間に合わなかったものの、アマデオがベッドに行く前に帰ってくる事のできたランドルフは、スーツから部屋着へと着替えを済ませてリビングに戻るなり、待ち構えていた息子に「母さんに携帯電話を買ってほしいんだ」と切り出され、驚きに目を瞬かせた。
「うん。ほら、母さんこれまで持ってなかったでしょう? 本当は僕が欲しかったんだけど、それは絶対駄目って言われたから、じゃあ母さんが持ってってお願いしたの」
「だが……そんな必要があるか?」
 いぶかしげな視線を向けてくる父親に、息子はこれ以上になくきっぱり頷いた。
「あるよ! ……って、まあ、主に僕が友達のところに寄っていいかって聞くために使うと思うんだけどさ」
 それだけでは理由として弱すぎると気づいているのだろう。居心地悪く肩を竦めた息子に、ランドルフはあっさりと返した。
「それなら別に、家にかければいいじゃないか」
「だけど母さんが必ず家にいるとは限らないじゃない。買い物に行ったり出かけたりしてる事もあるし、留守録の機械にメッセージを残しても、すれちがったりするんだ。それじゃあ母さんに悪いでしょう? だから父さん、お願い!」
 半ば腕にぶら下がるようにしてねだってくる息子に、困ったような息を吐く。
「お願いと言われてもな……」
「だって、僕が持つのは絶対反対でしょう? ちゃんとわかってるよ。だって母さんにも言われたんだ。だけど、母さんが持つなら問題ないと思うんだ」
「確かにお前が携帯電話を持つなんてのはもっての外だ。しかしだからと言ってマデリーンに持たせるその動機が理解できない。別にこれまでは問題なかっただろう?」
 ほんの少しもガードを緩めない父親にアマデオは、これは意外と大変な仕事になると内心で息を吐いた。
 マデリーンは、彼女が携帯電話を持つという意見に賛同してはくれたが、ただし、と一つ条件を付けた。それが今、アマデオがやっている事――すなわち、父親の説得だ。
『私もね、考えなかったわけじゃないのよ。だけどあの人がその必要はないって言い張るから』
 反対された時の事を思い出したのだろうか。ほんの少し苦い表情を浮かべたマデリーンは、驚いたように見上げてくる息子にぴっと指先を突きつけた。
『だからあなたがあの人を説得してちょうだい。私は嫌よ。あの人が仏頂面で睨んで反対するのに逆らうなんて。今日の事で十分すぎるほど気力を使い果たしたのに、これ以上は絶対無理』
 いっそすがすがしいまでのきっぱりとした言葉に、アマデオはイエス以外の答えを返せなかった。
 正直なところ、父親の説得くらい容易い事だと思っていたから、あの時は「構わないよ」とあっさり首を縦に振ったのだが、今のアマデオは、あの時の自分に「考え直せ。母さんと共同戦線を組むべきだ!」と忠告してやりたい気分でいっぱいだった。
 ちなみに頼みのマデリーンはと言えば、ランドルフがリビングにやってくるのと入れ違いで、シャワーを浴びるからと部屋に戻ってしまっている。
 完全な孤立無援の状態にありながら、それでもアマデオは諦めるつもりなどさらさらなかった。
「だから……母さんに、迎えに来てくれたのに、友達のところに行きたいって言ったり、逆に突然友達を招待したいって言ったりするのが申し訳ないんだよ」
 一体いつからこんな事を考えていたのかは知らない。前もって一応の理論武装はしていたようだが、ビジネスの最前線で高度な交渉を連日行っているランドルフが相手では、さすがのアマデオでも分が悪い。ランドルフは呆れと戸惑いを感じながらも、まっすぐに言葉を返してくる息子の表情を、慎重に観察する。
「なら、前もって言っておけばいい」
「突然行ったり、呼びたくなった時はどうすればいいの?」
「だから家に電話すればいいじゃないか。どうせマデリーンは一日のほとんどを家で過ごしているんだ」
 なぜそんな事がわからないのだと苛立ちを覚えかけた瞬間、息子の周囲を取り巻く空気が、すうっと温度を下げた事に気づいた。
「――なにそれ。つまり父さんは、母さんに一日中家にいろって言いたいわけ?」
 あまりにも傲慢な父親の言葉に、少年は非難交じりの視線を向ける。
「そういう訳じゃないが……それが事実だろう?」
「そうだね、今は」
「ジュニア?」
 今は、という言葉を強調され、ランドルフは再びいぶかしげな視線を息子へと投げた。
「別に、大した事じゃないよ。たださ、母さんって一日中家にいるじゃない。そんなんじゃ、毎日が単調で楽しくなさそうだから、たまには外で気晴らしした方がいいんじゃないかなって、僕は思ったんだ。僕の友達のお母さんたちも、結構色々やってるって聞くし」
 まるで子供のような口調だが、アマデオはさっきまでの子供らしい熱さをすっかり消している。
 どうやら息子の機嫌を損ねたらしい。この後どう動くべきかと冷静に図りながら、ランドルフはアマデオの言葉に乗ってみせる。
「色々、とは?」
「僕はあんまり詳しくないけど、聞いた話だと、スポーツクラブやヨガに通ったり、ボランティア活動したり、中にはパートタイムで働いたりしてる人もいるみたい。友達と一緒にランチやディナーに行くとか、旅行に行ったりもしてるみたいだよ」
「それを、マデリーンが望んでいると?」
「……望んでないとは、限らないよ」
 あいまいな返事を口にするアマデオの真意が、ランドルフには上手く読めない。こんな事を言い出した背景には何かがきっかけとしてあるはずなのに、その『何か』がまったく見えないのだ。しかしその真意が見えないからといって、相手の言い分を最後まで聞かずに切り捨てるのはランドルフの主義ではない。口が重くなりつつある息子に、辛抱強く同じ疑問を繰り返した。
「結局、お前はどうしてマデリーンに携帯電話を持たせたいんだ?」
「だったら父さんはなぜ、母さんに携帯電話を持たせたくないの?」
「その必要がないからだ」
「だからどうして? 父さんは……父さんは、そんなにも母さんを家に閉じ込めておきたいの?」
 予想外の方向からの反論に、思わず絶句した。母親と同じ色を持つ瞳は、自分に対する不満をありありと浮かべている。どうやら息子は、父親が母親を不当に扱っていると思っているようだ。
「まさか。閉じ込めるなんて人聞きの悪い事を言うんじゃない」
「だけど、そうとしか思えないじゃない。他の子のお母さんたちは大抵携帯電話を持っているし、色々な趣味を持っていたり、カルチャースクールに通って自分の時間を楽しんでる。なのにうちはどう? 母さんは僕や父さんの世話と家事だけをして一日を過ごしてるじゃない。そんなの変だよ。母さんにだって、もっと色んな事を楽しむ権利があるはずだよ!」
「……それは、マデリーンの考えなのか?」
 しばしの沈黙の後、ようやく絞り出せた声は、自分でも情けないほどひび割れていた。それに気づいているのかいないのか、アマデオは鋭い視線を父親へと向ける。
「誰の事を話してると思ってるの? 母さんだよ? たとえそんな事を思っていても、口にするはずないじゃない。まあ、僕の目には、今の生活で満足するのが当たり前だって思い込んでるようにしか見えないけどね」
 刺々しい口調からも、マデリーンがそんな風に考えるようになった原因がランドルフにあるのだと、考えているのがわかる。
 わからないのは、どうしてこうも突然に息子がこんな事を言い出したのかだ。
 そう考えて、ランドルフは内心でそうじゃないと呟いた。これは、今日、アマデオが唐突に思いついた事などではない。こんな考えを持つようになった一番最初のきっかけについてはわからないが、思い返せば確かに息子の様子は変化を見せていた。
 まるで――そう、母親を、何かから守ろうと必死になっているような、そんな様子がそこここに見えていた。
 今回の事も、アプローチこそ違うものの、根底は同じところにあるはずだ。そしてその事を、妻も息子もはっきりと認識している。それは彼らの間で深刻な問題として扱われているのだろう。
 ひっかかるのは、二人ともがランドルフを、その問題から遠ざけようとしている事だ。彼の前ではまるで何事もなかったかのようにふるまいながら、ふとした拍子に厄介ごとの片鱗をランドルフの目に触れさせる。そしてランドルフがそれを目にしたと表した瞬間、二人は慌ててそれをランドルフの目の前から隠してしまう。そんな態度からも、二人を煩わせている原因には、自分が深く関わっているという答えが否が応にも導き出される。
 目を閉じてゆっくりと呼吸を繰り返す。リラックスしようとしているように見せながら、ランドルフの頭の中では恐ろしいほどの速さで様々な思考が形を成していく。
 突然黙り込んだ父親に、アマデオは不安を感じたらしい。そっと二の腕に触れると、さっきまでの強気さを失った声で話し始めた。
「父さんを、傷つけるつもりはなかったんだ。ただ……どうしても、ロビンのママの事を思い出しちゃって」
「ロビンのママ?」
「うん。……父さんには話してなかったけど、年が明けてすぐぐらいに、ロビンのママ、家でじっとしてなきゃならないのが我慢できないからって、出て行っちゃったんだ」
 息子が口にした言葉に、はっと息を呑んだ。
「ロビンのママってね、すごいんだよ。母さんと同じで大学を出た後、銀行で働いてたんだ。そこでロビンのお父さんと知り合ったらしいんだけど、色々あって結婚できなくて、だから一人でロビンを育ててたんだ。最近になってロビンの事をロビンのお父さんが知って、それで二人は結婚したんだけど……」
 そっと息を吐いて、アマデオは哀しげに目を伏せた。
「本当は仕事も続けたかったらしいって、ロビンが言ってた。自分で色々考えて、家族二人で色々な事をするのが好きな人なのに、ほんの少しの自由もなくて、すごく息苦しそうにしていたんだって。だけどロビンのママは、ロビンのためにずっと我慢してたんだ。ロビンが父親と会いたいって言ったから、父親と一緒にいたいって言ったから、だから全部我慢する事にしたんだって。だけど我慢しきれなくなって、どうしようもなくて、家を出たんだ。――その話を聞いた時、僕、ぞっとした」
 喉に絡んだような声には、ありありと恐怖が表れていた。息子のこんな声を聞くのは初めてだった。僅かに眉を顰めて視線を転じると、青ざめた頬に空虚な目をした息子を見つけ、ランドルフは息子が受けた衝撃の大きさに気づいた。
「ジュニア……」
「その時、初めて思ったんだ。母さんは大学を卒業してすぐに父さんと結婚したって言ってたけど、それは本当に母さんが望んだ事だったのかなって。本当は、勉強した事を生かして何かしたかったんじゃないの? だけど結婚しちゃったから、僕が生まれたから、その全てを諦めたとしたら? なら、今もずっとやりたい事を諦め続けてるの? それともただ我慢してるだけ? なら、その我慢はいつまで続くの? ずっと我慢して、我慢し続けて、それで我慢の限界が来ちゃったら……?」
 まるで機械のような、感情の篭らない声が滔々と言葉を連ねていたアマデオは、自分の中の最大の恐怖を口にした次の瞬間、今にも泣き出しそうな顔で父親に縋った。