かぶ

真実の目覚める時 - 19

「お願いだよ、父さん。僕はもう嫌なんだ。母さんが寂しそうな顔で笑うのを見るのも、母さんの息苦しそうなため息を聞くのも。そのたびに僕は思うんだ。ああ、また母さんが限界に近づいてる。目には見えない崖に向かって、また一歩近づいてるんだって。だけど僕じゃ助けられない。母さんに何を言っても、僕じゃ意味がないんだ。そんなに窮屈なら、いっそ家を出たらって言っても、母さんは笑って『そんな事をしたら、あなたやお父さんと一緒にいられなくなるでしょう?』って、そう言うんだ。『私にとって一番大切なのはあなたたちだから、大丈夫なの』って」
「それは……それが、マデリーンの本心なんじゃないのか?」
「もしかしたら、そうかもしれない。だけど僕には、一番は僕たちだから、自分の事は後回しでいいって言ってるみたいにしか聞こえない。ううん、違う。一番は僕たちじゃなければならないから、自分の事は考えるべきじゃない、考えちゃいけないって言ってるように聞こえるんだ」
 いくらなんでもそれは考えすぎだろうと言いかけて、ランドルフは口を噤んだ。
 アマデオの言葉を、何の確証もなく百パーセント正しいと考えるわけにはいかないが、全否定をするわけにもいかない。
 なにしろ息子に言われるまでもなく、かつてのマデリーンは確かに、自立心と向上心に満ちた女性だった。周囲がどんなに口を酸っぱくして、女に学問など不要だと説得しても、彼女は自らの学識を高めたいとの意思を曲げなかった。奨学金を取ってでも大学に通うと言い張り、そしてそれを見事に実現させたのだ。家族から離れ、知り合いと言えば、数年前から親の仕事の都合で年に数度会うようになっただけのランドルフしかいない都会で、降りかかる数多の誘惑を退けながらも彼女は実に優秀な成績で卒業した。
 だが、卒業した後に彼女が本当に望んでいたのは、一体どんな未来だったのだろう?
 まだ女性の社会進出が今ほど認められていなかったとはいえ、マデリーンが望んでいたのなら、彼女はいかなる未来でも選べていたはずだ。大学院に進んで更に知識を深める事も、大手企業の第一線で働く事だってできたはず。けれど現実が彼女に与えたのは、果てしなく限られた選択肢だけだった。すなわち、家族や親族が薦める男たちの誰かと結婚するか、どうしても結婚しないというのなら周囲の怒りを一手に引き受けた挙句、懐かしく愛しい全てを捨てて自分の望みを叶えるのか。その二つだけだった。
 マデリーンがランドルフの手を取る事を決めたのは、三回生の終わりも近い、スプリングブレイクの事だった。
 実家に帰りたがらないマデリーンを両家の親の命令で連れ帰ったランドルフは、家族中が彼女の妹の結婚に沸きつつも、都会に出ながら結婚相手を探す事もせず、自分を高める事に全身全霊を捧げているマデリーンを、言外に非難している事に気づいた。それが原因で、彼女が帰りたがっていなかったのだという事にも。
 当時のランドルフは大学院を卒業し、社会に出たばかりだった。これからは微力ながらも父親を助け、モーガンヒルの名を更に大きくしていこうと思っていた矢先に、父親が心臓を患って倒れたのだ。
 自分自身の後継者はいるものの、その後に続くかどうかわからない。何しろ彼の息子は数々の浮名を流してはいるが、結婚を真剣に考えようとはしていない。まだ若いから一時の情熱を追いかけてばかりいるのかもしれないが、こんな事では自分が死ぬまでに孫の顔を見る事ができるかどうかもわからない。
 そんな風に考えたらしい父親は、病床を見舞った息子に、一刻も早く結婚相手を見つけろと命じたのだ。そして、可能であれば一日でも早く孫の顔を見せてくれと、そう願った。
 病に伏せている父親を無碍に扱う事もできず、ランドルフは不承不承ながらも周囲を見回し、結婚相手となりうる女性を探し始めたのだが、候補はそう多くなかった。何しろ彼の回りにいたのは、彼の見た目やモーガンヒルの名に惹かれるばかりの女たちばかりで、彼女らは一時の遊びには適していても、一生を過ごすどころか一週間を共にするすら願い下げだった。
 そんな時に、ランドルフはマデリーンの境遇を知ったのだ。
 彼女は賢く、美しく、学もある。田舎と言っては怒られそうだが、中部の出身にしては都会的な考え方を持っているし、自分の意思というものを持っている。何より彼女はきちんと距離を保ってランドルフと付き合っていたものの、その瞳には確かにランドルフへの思慕を浮かべていた。
 マデリーンにプロポーズしたのはニューヨークに戻る二日前の夜だった。その時の彼の頭の中にあったのは、どうすれば二人ともが今の膠着した境遇から抜け出せるかというそれだけで、それによって全否定される事になるマデリーンの将来など、欠片ほども考えていなかったのだ。
 あの時彼女が自分のプロポーズを受けたのは、あれは、本当に彼女の本心だったのだろうか?
 あまりにも長く言葉を返さずにせいだろう。腕にしがみついてきていたアマデオが、どこか不安げな表情で父親を見上げていた。
「……そう、だな。確かに俺は、マデリーンの本当の望みが何なのかなんて、考えた事はなかった」
 ようやく言葉を口にする事ができたものの、その声はどこか虚ろに響いていた。はっとして、少年はまじまじとランドルフを見つめる。自分とよく似た顔立ちの中、唯一異なる瞳の奥に確かな痛みを見出して、アマデオの胸が苦しさと期待の間で締め付けられる。
「とう、さん……?」
「言われて思い出したよ。お前の母さんは、本来ならとても自立心の強い女性だったんだ。なのに、俺が家にいろと強要した。外に出るのは最低限にして、それ以外の時間は俺とお前の事だけをやってればいいと、そう思うように仕向けた」
「だけど……どうして?」
 戸惑いに視線を揺らす息子へと、自嘲を浮かべながらランドルフが答える。
「多分悔しかったんだろうな。俺は、双方にとって最適な事をしたと思っていたんだ。俺もマデリーンも、周囲からさっさと結婚しろとせっつかれていたし、彼女となら誰にも文句を言われる事のない夫婦になれると思っていた。だけど俺との結婚が決まったとたん、マデリーンは本来の自分をすっかり隠して、俺に従うばかりの女になってしまった」
 ふぅ、と苦い息を吐き出して、まっすぐに見つめてくる息子からテラスの外へと視線を移す。
「どうして変わってしまったのかなんて、考えもしなかった。俺は――多分、その方が都合がよかったからかもしれない。従順な彼女にあっという間に慣れて、彼女に対する自分の中の印象を上書きしたんだ。だから彼女は家庭に入り、夫と子供のために尽くしていればそれで満足だろうと、勝手に思い込んでいた」
「じゃあ、父さんが母さんを今みたいに扱ってるのって、母さんが変わってしまったからだっていうの?」
 訝る声にしばし考え込むものの、はっきりとした答えは出しかねてあいまいに頷く。
「かもしれない。だが……いや、マデリーンにばかり責を問うのは不公平だな。きっと彼女は、俺が彼女に対して聞く耳を持っていない事に早くから気づいたんだろう。だから自分を押し殺す事にした。そして俺は、それこそが本来の彼女なのだと都合よく勘違いした。勘違いしてそのまま……十二年近くもの間、本当のマデリーンから目を逸らし続けてた」
 十二年、という数字を改めて認識したとたん、ランドルフの胸に苦いものが込み上げてきた。困ったような苦しげな表情を浮かべながら自分を見上げてくる息子は、もう十歳にもなる。かつては片腕で簡単に抱き上げる事ができるほど小さな存在だった赤ん坊が、いっぱしの大人のように物を考え、口を利くまでに成長するまでの期間は、短いとは間違っても言えるものではない。その間、妻はいつだって穏やかに、献身的に、ただひたすらに夫と息子の事だけを考えて自分自身を押し殺し続けてきたというのか。
 改めて思い返せば、この長い年月の間に大きな衝突が起きなかったという異常な状況を不思議に思わなかった自分が信じられない。何度も無理な要求を強いてきたはずなのに、理不尽な状況に追いやっていたはずなのに、マデリーンが声を荒げたり、正面切って逆らったりと、感情を露にした事は本当に一度もなかった。
 そしてそれを自分は心の中では身勝手な不満を抱きながらも、奇妙な満足感を持って受け入れていたのだ。
「……参ったな……」
 緩やかに頭を振って、ランドルフは革張りのソファへと身を沈めた。暖房が効いた部屋はとても暖かいのに、精神的な寒気が身体を突き抜ける。
 まったく、なんという事だろう。ならばこれまで自分がしてきた事は、すべてが意味のない事だったのだ。いや、それどころかむしろ逆効果でしかなかったのかもしれない。
 昔から駆け引きには強く、その読みを大きく間違えた事はほとんどなかった。なのにこうも身近なところで根本的な読み違いをしていただなんて……あまりにも愚かしすぎて、笑う事さえできない。
 仰向けた顔を左手で覆い、千々に乱れる心を無理やり押さえ込む。肺の底から長く息を吐き出して、ようやくランドルフは口を開いた。
「いいだろう。お前の言うとおり、マデリーンには携帯電話を持たせよう」
「本当に!?」
 息子の気配が一気に明るくなるのを感じ、ランドルフもつられるようにして笑みを口元に浮かべる。ゆっくりと左手を顔から外し、頭はソファの背もたれへと乗せたまま、今にもソファの上で跳ねだしそうな息子へと顔を向けた。
「さすがに今すぐは買いに行けないから、実際に持たせるのは明日以降になるが……」
「別にかまわないよ! 母さんが携帯電話を持つってのが大事なんだから!」
「そうか」
「うん。あ、そうだ。明日、僕の学校が終わったら、一緒に買いに行こうかな。いろいろな種類のものがあるから、きっとすごく迷っちゃうんだろうなぁ」
 うきうきと翌日の計画を立てはじめるアマデオの言葉に、ふとランドルフが目を細める。そのまま数秒間無言で思考し、彼は満足げに破顔した。
「残念だが、お前にその楽しみを与えるわけにはいかない」
「へ?」
 きょとんと父親を振り返ったアマデオは、獰猛とすら感じられるような笑みを浮かべた父親の顔を見て、せっかくの楽しい気持ちが一気に吹き飛ばされたような気分になった。
 そして、それは限りなく正しかったのだ。
「マデリーンに持たせる携帯電話は、父さんが選ぶ」
「えええええ!?」
 一拍の間をおいて、アマデオが盛大にブーイングをはじめる。劈くような喚き声に顔をしかめるものの、ランドルフの目は明らかに笑みをかたどっている。
「文句は言うなよ。もともと俺は、マデリーンに携帯電話を持たせるつもりはなかったんだ。第一、誰が使用料金を払う事になると思ってるんだ? 他にもいろいろと都合があるからな。そのあたりはすべてこちらに任せてもらう」
「ずるいよ父さん! それならせめて、週末を待ってから一緒に選びに行こうよ」
「却下だ。妻に持たせる物の選択権は、夫に大きく委譲されているというのは常識だぞ」
「そんな常識、聞いた事ないよ!」
「それはお前がまだ世間を知らない子供だからだろ。せめて自分の力で物を手に入れられるようになるまでは、母さんへの贈り物は父さんに任せておきなさい」
「酷いよ父さん。横暴が過ぎる。携帯電話の事を言い出したのは僕なのに!」
「ああ、そうだったな。素晴らしい提案をありがとう。お前のおかげで、久しぶりに喜ばれる贈り物ができそうだよ」
 実に白々しい言葉に、少年が癇癪を起こして傲岸不遜な父親へと飛び掛るまでに要したのは、一分にも満たない短い時間だった。