かぶ

真実の目覚める時 - 20

「……以上が本日の予定ですが、何か変更等ございますか?」
 ともすれば、詰め込みすぎだと文句を言いたくなるようなスケジュールを滔々と読み上げたケネスに向かって、特に何もないと言いかけたランドルフは、その直前で口を閉じた。
「社長?」
「思い出した。悪いがケネス、最新の携帯電話のカタログを持ってきてくれないか? 個人用だからどこのものでもかまわない。機体はシンプルなデザインのもので、なるべくならば色のバリエーションの多いものがいいな」
「個人用、ですか?」
「ああ」
 奇妙な顔になるケネスへと頷いて返し、更に言葉を重ねる。
「持ってくるのはできれば昼前にしてほしい。それから午後に少しでいいから時間を空けてくれ」
「それはまた、なぜ?」
「決まってる。携帯電話を買いにいくんだ」
「――社長が、ご自身で?」
「悪いか?」
 先ほどから奇妙な表情を浮かべていた青年の顔が、更に複雑なものへと変化する。それを見やりながら、ランドルフが実に楽しげに続けた。
「正直、携帯電話なんてものを誰かに贈るような日が来るとは思ってなかったんだが、それが望みなら仕方ない。ついでだから俺の私用の携帯も同じもので揃えようかと思ってるんだ。俺も彼女も、妙な機能は別に気にしないが、日常的に持ち歩くからにはデザインや色に拘りたくてね。あまり無骨なものも、逆に悩ましいようなのも嬉しくないから、そのあたりを考慮してもらえると嬉しいな」
「ええと……つまり、あなたも携帯電話を買い換えると言う事ですか?」
「買い換えるんじゃない。仕事とは関係なしのものを持つ事にするだけだ」
 はじめは思い付きだったのだろうそのアイディアが、どうやらいたく気に入ったらしい。
 鼻歌でも歌いだしそうなほどに浮かれている雇い主にどう反応していいのかと内心で悩みながら、ケネスは重ねて問うた。
「それで、彼女というのは?」
「お前にわからないはずがないだろう?」
「わからないから訊いているんです」
「愚か者の振りをしてもあまり意味はないぞ。とにかく、携帯電話のカタログと、それを買いに行く時間だ。店に行って手続きをしたり、受け取る余裕があるのなら、別に移動途中でも俺はかまわない」
「そうですか。では、そのように調整いたします」
 一瞬で秘書の顔に戻り、軽く一礼をしてケネスは社長室を後にする。
 踵を返すその間際、ちらりと頬に浮かんだ不快感をランドルフの鋭い目が確かに捕らえていた事に、ケネスが気づく事はなかった。

* * *

「――それにしても、今日はやけに機嫌がいいのね」
 先ほどまでの、頑として自分の意見を貫こうとしていた意志の強い声とは打って変わった、どこか甘えさえ感じられるようなその声に、ランドルフは手元の書類から視線を上げた。
 他の女性が着たのであれば、ビジネスの場には相応しくないと判じられるであろう、深いワインレッドのタイトなスーツを身に纏い、小粒なルビーを連ねたピアスを付けたアリシアの嫣然とした微笑みに、彼は胸中で苦い息を吐いた。今日のビジネスランチのため、わざわざ個室を借りたからには周囲に部外者はいないものの、関係者である彼女自身の秘書とランドルフの秘書であるケネスが同席している。二人きりの時であればまだしも、他の人間がいる時にプライベートな会話はできる限り避けたいと、いつだってはっきり伝えていたつもりだったのだが。
「そうだったかな。特に意識はしていなかったが」
「ごまかそうとしても駄目よ。ちゃんとわかっているのだから」
 意味ありげに視線を投げかけ、大して乱れていない髪を撫で付ける。周囲の耳目を気にする事なく秋波を送ってくるアリシアは、確かにそうできるだけの自身を持つに相応しい容姿と聡明さを持っている。だがこのようなあからさまな真似をしてくるあたり、彼女も所詮はただの女でしかないのだろう。
 今日の目的は、完成が間近に迫った若年層を対象に展開するイタリアン・レストランの内装における最終確認だった。すでに基本的な設計は決まっているし、内装についても大まかな発注は終わっている。だから手元にある書類と相手側の指示書をつき合わせて齟齬がないかどうかを確認するだけの簡単な打ち合わせのつもりだったのだが、アリシアが内装の一部について変更したいと言い出したため、予想以上に面倒な話し合いとなってしまった。
 おかげできちんと食事をしたはずなのに、あまりしっかり食べた気がしない。シェフに声をかけるつもりだったが、時間もなくなってしまったし、ほとんど記憶にない味を適当に褒めるのは、逆に失礼というものだろう。
「それより、ねえ、今夜ディナーを一緒にどうかしら? 私の友人が先日こぢんまりとしたレストランを開いたの。私も設計に少し係わっていたものだから、ぜひお友達と一緒に来てくれと言われているのだけれど」
 もちろん断らないわよね? と、期待に満ちた視線に気づき、今度こそ表立ってため息を吐いた。
「残念だが、今夜は息子と交わした約束を守らなければならないのでね」
「それ、先に延ばす事はできないの?」
「君の予定の方こそ、先に延ばせないほどのものなのか?」
 反射的に返した言葉は意図したより鋭く響いた。そんな反応をランドルフがすると思っていなかったのだろう。アリシアはどこか呆然とランドルフを見返していた。
 彼女の言葉に唯々諾々と従うつもりはないが、だからと言ってここで機嫌を損ねるのはよくない。ささくれつつある内心を押さえ込み、どうにか穏やかな声を出した。
「約束は約束だからね。私の予定は先着順で埋まっていくから、次からそういった提案は早めにしてくれないか?」
「そう、ね。確かに突然だったもの。とっさに予定を変える事もできないでしょうね」
 うまく隠したつもりでも、内心の不満が目に表れている。自分に自信を持っている女性や、上昇志向の強い女性は嫌いではない。だが、自分を過信していたり、野心ばかりの人間は、男女を問わずあまり好めない。
「……そうだな。よほどの事でもない限り、前もって決まっていた予定を変える事はほとんどないな」
「あなたの予定を変えられるほどの事って、一体何なのかしら。やっぱりお仕事関係?」
「仕事もそうだが、家族は更に優先されるよ」
 言いながら、自分でも白々しいと思った。これまで実際に家族を優先させた事がどれほどあっただろうか。同じ事を考えたのはどうやらランドルフだけではなかったらしい。隣に座ってコーヒーを啜っていたケネスが、咽かけてぎりぎりで堪える。そしてアリシアは、更に直接的に思った事を口にした。
「ご家族が最優先、ですの? ……おかしいわね。私、あなたはご家族よりもお仕事を愛されていると聞いた事があるように思うのだけれど」
「酷い誤解だ。私は確かに仕事に打ち込んでいるが、家族をどうでもいいと思った事はない」
「まあ、それは素敵だわ」
 おざなりな作り物めいた笑みを浮かべ、それらしい言葉をアリシアが吐く。
「それではいつか、ご家族との予定のない日にでも、私とディナーを一緒にしてくださいますわね? あなたをぜひにでも招待したいところがあるの」
「アリシア……ここにいるのは正しく判断力のある人間ばかりだが、外であまりそういう言葉を口にしては、妙な誤認を周囲に植えつける事になる」
 懲りずにあからさまに誘いをかける彼女に、ランドルフの苛立ちは秒針の進みとともに、加速度的に高まってくる。
「誤認は誤認でしかないわ。他の人がどう思っても、真実を私たちが知ってさえいれば、それで十分でしょう?」
「そういうわけにはいかない。世間には口性の悪い人間が意外と多いからね。何より、さっきも言ったと思うが、私には妻子があるんだ。軽率な行動や考えなしの言葉は、私だけでなく彼らにも迷惑を被らせる可能性がある。……君だって、不名誉な噂を立てられるのは不本意だろう?」
 警告をこめた言葉は、しかし正しく受け取られなかったらしい。
「いいえ。あなたとであれば、たとえ事実無根の噂だったとしても、私は不本意だと思わないわ」
 どうやら彼女を聡明な女性だと評価していたのは、大いなる間違いだったらしい。
 心底からうんざりとして、彼は剣呑になりそうな声を限りなく抑える。
「君はそういうけれど、私には妻があるんだ。……人には意外だと言われるが、私はこれでも中々に古風な人間でね。妻がいるからには浮ついた真似はできないと、こう考えてしまうんだよ」
「……それは、素敵ですこと」
 それは実に冷え冷えとした声だった。けれどその顔には、実に綺麗な笑みが浮かんでいる。きっと腹の中は煮えくり返っているのだろう。
「――社長。そろそろ時間ですが」
 わざとらしく腕時計の文字盤を指先で叩き、ケネスが重苦しい沈黙を破る。場を正しく読んだ青年へと視線で感謝を告げ、ランドルフはすっと立ち上がった。
「申し訳ないが、次の予定が入っていてね。支払いは済ませておくから、君さえよければもう少しここでゆっくりしていってくれたまえ」
「ありがとうございます。では、お言葉に甘えさせていただきますね」
 慌てて立ち上がった秘書など気にも留めず、ただ一人席に着いたままアリシアは返す。
「そうしてくれ。それでは失礼する」
 会釈して、先に立ったケネスを追いかけるようにランドルフはざわついた店内へと足を踏み入れる。
 背後で扉の閉まる音に重なって、何かが割れる音が聞こえたような気がした。