かぶ

真実の目覚める時 - 22

 離れていても家中を鋭く貫いて聞こえてくる電子音に、マデリーンは野菜を刻む手を止めて、じっと息を潜めた。
 ひとつ、ふたつと呼び出し音が数を増やすに合わせて、浅い呼吸を繰り返す。それは十を数える直前に不意に途切れ、大して長くない静けさの後、軽やかな足音へと取って代わった。
 ひょい、とキッチンに顔を覗かせたのは、ハンサムな顔をほんの少し不満げに歪ませた息子だった。
「電話、父さんから」
「ランドルフ?」
「うん。話があるから母さんを呼んでくれってさ。――母さんは夕食の準備中だから僕が聞くって言ったんだけどさ、母さんに直接話したいからって聞いてくれないんだよ。これ、どう思う?」
 唇を尖らせながら付け加えられた言葉から不機嫌の理由を察して、マデリーンはふんわりと笑みを零す。ざっと手を洗って水気を拭うと、膨れている息子の頬に触れてから柔らかな栗色の髪をくしゃりとかき混ぜる。それからありがとうと囁きを残して、彼女はリビングの片隅にある電話台へと向かった。
「ハロウ?」
『マデリーンか?』
「ええ、私です。どうかしました?」
 僅かに剣呑さを纏っている夫の声に、彼女はそっと眉をひそめた。もしかして何かあったのかしら。そんな不安を覚えたのだが、それはただの杞憂なのだと、耳に届いた次の言葉ですぐに知れた。
『やっと捕まったか。まったく、今日はどうしたんだ? 昼過ぎから何度か電話をかけたというのに、君は一度も出なかった。何かあったのか?』
 あんまりにもあっけない幕切れに、マデリーンは思わず笑いそうになった。
 何の事はない。夫はただ、いつもならば確実に家にいて、電話を取るはずの妻が不在だった事が気に入らないのだ。
 零れかけた自嘲混じりの笑みを隠すためにそっと息を吐き、彼女はなんでもない風を装って言葉を返した。
「ごめんなさい。今日は午前中に家の中の事を終わらせてしまったから、午後は家の外の用事に費やしていたの。ほら、いつもは私、あまり外に出ないでしょう? だからつい欲張ってしまって、あれこれ一度に終わらせようとしてしまったの。おかげで気が付いたらアマデオを迎えに行く時間になっていて……」
 この言葉に嘘はない。
 ただ、いつもなら家を長く空けっぱなしにしない彼女がそうしたのは、昨日のアマデオの言葉があったからだ。
 家にかかってくる電話は取らないで、という息子の言葉を完全に受け入れるには、家でじっとしていては具合が悪い。マデリーンがどんなにそれを望んでいなくても、電話はかかってきてしまう。相手が通話を諦めるまで、外敵に怯える小動物のように隠れているのは嫌だった。
 音が聞こえるのが悪いのなら、受信音の音量を最小に絞ってしまえばいいかもしれないとも考えたのだが、それでは音を元に戻し忘れてしまう可能性がある。そして、確率はとても低いとはわかっているものの、万が一にも夫が絞られた受信音に気づいてしまった場合、マデリーンには上手く言い訳できる自信がなかった。何より、アマデオはああ言っていたけれど、やっぱり彼女はランドルフに、自分の状況を伝えたいとは思えなかった。
 結局マデリーンに考えられたのは、自分が家にいさえしなければ、電話が鳴っても取らなくていいという、限りなく逃げに近い作戦だけだった。
 そんな事を考えながら、マデリーンは穏やかに続ける。
「だけど、本当にどうしたの? あなたがそんなに必死になって私を捕まえようとするなんて珍しいじゃない」
『そうか?』
「そうよ」
 きっぱりと肯定すれば、電話の向こうが唐突に静かになった。何かを考え込むような沈黙の後――ランドルフがこんな風に黙り込むのはとても珍しい事で、マデリーンは思わず何かおかしな事を言ってしまっただろうかと振り返りかけたぐらいだ――意外にもあっさりとした声が聞こえてきた。
『まあいい。それより今晩なんだが』
「はい」
『本当は夕食に間に合うように帰りたかったんだが、急な打ち合わせが入ってしまったんだ。なるべく短く切り上げたいとは思ってるんだが、そうもいかなさそうだ。それで悪いんだが……』
 僅かな逡巡の間を置いて、ランドルフは思いがけない言葉をマデリーンに告げた。
『……俺が帰るまで、起きて待っていてくれないか』
 一瞬、本気で耳を疑ってしまった。
 これまで「遅くなるから先に寝ていてくれ」と言われる事はあっても、「起きて待っていてくれ」と言われた事は一度もない。それどころか、遅くなるからという連絡がくる事さえ実に稀なのだ。
 その稀な機会も、主に家族で前もって何かの計画を立てていたのに、急な用事で反故にしなければならなくなった、という状況を除いてしまえば、まさしく皆無に等しい。
 今日は何か予定していたかしらと、電話の隣に置いてある卓上カレンダーへと視線を滑らせるが、日付を見てもそれらしい記憶は浮かんでこない。
「ええと……つまり、私はあなたが帰ってくるまで、起きていればいいのね?」
『すまないが頼む。その、少し……君と話が、したくてね』
「私と、話を?」
 不自然に、鼓動が跳ねた。
 何だろう。夫は私に、何を話したいというのだろう。
『ああ、別に特別な事じゃないんだ。ただ、いくつか君に訊きたい事があってね。大した内容でもないから、そんなに気負わなくていい』
 マデリーンの不安は、どうやら電話の向こうにまで伝わっていたらしい。ランドルフが安心させるように言葉を重ねた事で、それがわかった。
 このところ、とみに平静を取り繕うのが下手になっている。これではいけない。こんな事では、ランドルフに釣り合えない。
「わかりました。では、お待ちします」
『ありがとう。じゃあ、また後で』
 いつもながらそっけなく会話は幕切れとなり、通話は打ち切られた。


 耳障りな音に顔をしかめながら受話器を戻して視線を動かすと、興味津々の顔をした息子が、すぐそばにあるソファの背もたれから身を乗り出していた。
「父さん、僕は起きてなくていいって?」
「……アマデオ、あなた、いつから盗み聞きが趣味になったの?」
「盗み聞きって酷いなぁ。僕は元からここにいたよ。聞かれたくなかったなら、母さんが父さんの部屋に行けばよかったんじゃない?」
 実に無邪気な顔をしていけしゃあしゃあと生意気を言う息子へと足を進めたマデリーンは、ぴっと指先を突きつけた。
「ランドルフ・アマデオ・モーガンヒル・ジュニア。反論するなとは言わないけれど、そんな品のないパパラッチじみた切り返しは、私は好きじゃないわ」
「――ごめんなさい」
 こういう時の母親には逆らうべきでないと、経験から知っている。ユーモアに溢れ、少しぐらいなら生意気な言葉を口にしても大抵は許されるが、こんな調子付いた真似を許すほど甘い親じゃない。
 素直に謝罪の言葉を口にした息子をじっと見下ろしたマデリーンは、息子の顔にはもうからかう色がない事を確かめてから、ゆっくりと手を下ろした。
「わかってくれたらいいの」
「うん。ちゃんとわかった」
 神妙に返すアマデオにやれやれと息を吐き、ソファを回って小さな身体の隣に腰を下ろす。
「だけど、一体何の話なのかしら? こんな改まって、なんて、珍しいと思わない?」
 行儀悪い真似をしていた少年は、ちょこんとかしこまって座りなおすと、ほんの少し考えてから口を開いた。
「うーん、あれじゃないかな。携帯電話。昨日約束したから、早速買ったんじゃない? ほら、父さんって、内心はどうでも約束した事はきちんと守ってくれる人だし」
「でも、それなら別に、わざわざ話がある、なんて言わなくてもいいと思わない? 渡したいものがあるって言えば済むし、遅くなったらなったで朝になってから渡してもいいのだし」
「それは……そっか」
 当然といえば当然な指摘に同調して、ならどうしてだろう、とアマデオは考え込む。その横顔をじっと見つめて、マデリーンはまさかとは思うけれど、と前置きをする。
「……あなた、あの人にいらない事は言ってないわよね?」
「いらない事って?」
 何の事だかさっぱりわからない、とでも言いたげな表情で見つめ返してくる息子を、マデリーンはどこか疑わしげに睨む。
「アマデオ。私はあなたが卑劣な嘘を吐く子じゃないと知っているわ。だけど同じぐらい、あなたは狡いくらいに知恵が回る子だって事も知っているの。何か心当たりがあるのなら、早めに言っておいた方がいいわよ」
「本当にわからないんだって! そりゃあほんの少し、父さんの罪悪感を煽るような事は言ったかもしれないけど、母さんが言わないでって言った事については、誓ってもいいよ、一言も話してない
 慌てて言いつくろうアマデオの瞳は真剣で、そこにはごまかしや嘘は欠片ほども見えない。
「そう。――だとしたら、本当に何なのかしら」
 考えはじめると、すぐに嫌な方向へと思考が向かってしまう。それに気づいたのだろう、アマデオは勤めて明るい表情を作ると、母親の袖を引いた。
「別に、どんな話でもいいんじゃない? 確かにちょっとイライラしてる風だったけど、そこまでシリアスってわけでもなかったし。それより僕、お腹空いたんだけど、ご飯まだ待たなきゃだめ……?」
 まるっきり子供の顔でそんな事を言ってくる息子に、暗くなりかけた気分が一気に吹き飛ぶ。
「まったくあなたって……でも、そうね。確かにお腹が空いてきたわ。急いで作るから、もう少し待ってて」
「うん!」
 満面に笑みを浮かべて頷く少年の額にそっと口付けて、マデリーンはキッチンへと戻った。