かぶ

真実の目覚める時 - 34

「……ったく、お前、一体いつからそんな生意気な口を利くようになったんだ?」
「さあ? とりあえず、子供って親の背中を見て育つらしいから、父さんの影響もあると思うよ」
 アパートメントの地下駐車場で、いつもはマデリーンが運転するネイビーブルーのSUVにエンジンを入れながら、ランドルフが苦々しく問いかける。しかし返ってきた答えは変わらず鋭いもので、零れる息が自然と苦味を帯びる。
「なら、訊きなおそうか。お前、俺の事が嫌いなのか?」
「……別に」
「それは、どう見ても別にって態度じゃないだろう? 特に今朝のお前の言動を見てる限りでは、どう都合よく解釈しようとしても、俺の事が嫌いなようにしか思えないぞ」
 滑らかに車を発進させながら、目の端で助手席に座る息子の表情を窺う。
 家族が揃っているところを見た誰もがランドルフに生き写しだと評する顔の造りをしているが、子供らしい顔をしている時は、不思議な事にどうしようもなくマデリーンの面影が浮かんでくる。けれどそれも、こんな風に大人びた顔をしていては台無しだ。こういう時は、いっそ憎らしいまでに自分に似ていると思い知らされる。自身の顔は嫌いではないが、ナルシストではまったくないランドルフとしては、息子には瞳以外でももっと妻に似てほしかったのだが、今更そんな文句を言ったところでどうしようもない。
 一つ大きくため息を吐いて、ランドルフは率直に問いかけた。
「――で、何が気に入らないんだ?」
「だから、別にって言ってるじゃない。気に入らない事なんて何もないし」
 まったく、この頑固なところはどちらに似たのだろうか? ランドルフは頑固というよりは執着が強いタチだから、これはマデリーンだろうか。……ああ、駄目だ。彼女譲りだと思うだけで、この苛立たしい頑固さが一気に愛しくなる。本当に、どこまでも重症だ。
「嘘を吐くな。気に入らない事があるから、そんな態度を取っているんだろう? 言いたい事があるならきちんと口にしなさい。母さんに聞かれたくない事なら、絶対に話さない。なんなら守秘義務の契約書を作ってやってもいいぞ」
 息子が少しでも話しやすいようにと、彼が気にするだろう事を先回りして潰してしまう。さすがに父親が守秘義務なんて言葉を持ち出すとは思っていなかったのか、何度か目を瞬かせて、アマデオは小さく頭を振った。
「そこまでしないでもいいってば。僕はただ、気に入らないって言うか……仲間はずれにされたのが、嫌だったんだ」
 居心地悪く身じろぎしてアマデオが渋々と口に出した理由は、ランドルフとしてはまったく思いもかけないものだった。
「仲間外れ?」
「多分、父さんも母さんもそんなつもりなかったんだろうけど、さっきの二人を見てたらさ、なんか僕の事なんかすっかり忘れてるみたいに見えて。仲直りしてくれたのは嬉しいけど、僕一人だけ残して世界創ってるのを見てるとさ、なんか凄く悔しいって言うか、哀しいって言うか……とにかく嫌な気分になってしまって」
「ジュニア……」
「ちょ、父さん前! 前向いてよ危ない!」
 うっかり視線を真横に固定してしまった父親へと向けて、アマデオが引きつった声を上げる。
 ラッシュが始まるにはまだ早いが、それでも車の数は増えてきつつある。そうでなくてもニューヨークの交通事情は、脇見運転を許す程甘くはない。
「それはすまなかったな。そういうつもりはなかったんだが……どうにも浮かれてしまって、今はマデリーン以外の事を考えるのが、凄く難しいんだ」
「……ねえ、それってノロケ?」
 心底から呆れたような声で突っ込んでくる息子に、父親は明るく笑う。
「何とでも言えばいい。痛くも痒くもないからな。――お前だって、いずれわかるさ。これこそが運命の女だって相手を見つけて、長い求愛の末に彼女の心がこの手に与えられたのだと知らされた時、どれほどの幸せに包まれるのか……。天にも昇るようだとか、月を飛び越えるようなって表現があるが、まさにそんな感じだ」
 視線は目前の道路から逸らしはしないものの、父親の目に映っているものはまったく異なる光景だろう。けれどその横顔は確かに満ち足りたもので、こっそりシートベルトの調整をしながらも、アマデオはあえて指摘はしなかった。
「運命の女って、母さんの事?」
「――他に誰がいるって言うんだ?」
 逆に心底から不思議そうに問われ、妙な苛立ちが少年の中で嵩を増す。しかしそれを何とか抑え込み、できる限り平坦な調子で訊ねた。
「でも、いつから母さんの事、そんな風に思ってたの?」
「そんな事に興味があるのか?」
「うん、興味ある」
 予想外にきっぱりと息子が頷くのを見て、ランドルフはそっと息を吐く。
「……お前、実は意外とゴシップ好きか?」
「そうじゃないけど、多分自分の親の事、だからかな。ていうかさ、これまで父さんも母さんも、まるで他人みたいだったじゃない。だから余計気になっちゃって」
「そういうものなのか。……まあいい。別に隠す事でもないしな」
 低く笑いながら肩を竦め、ランドルフは少し考えてから改めて口を開いた。
「今になって思えば、だが、あれは多分……俗に言う一目惚れってやつだったんだと思う」
「――はぇ?」
 今、耳に届いた言葉は、本当に父親の口から出てきた言葉だったのだろうか。
 真剣にそんな事を考えてしまうほど、その声はアマデオの予想からかけ離れていた。
「ええと……ごめん、確認するけど、今、何て言った?」
「一目惚れ、だ。ああ、ちくしょう、何度も言わせるな。恥ずかしいだろうが」
 大きな手で赤く染まった顔の下半分を隠しながら、ランドルフは諦めたように言葉を続けた。
「俺自身、当時はまったく自覚してなかったんだ。だけど振り返れば振り返るほど、思い当たる節が多くてな……」
「……それなのに、拗れたの?」
「逆だ。だからこそ拗れたんだ。お互いに臆病が過ぎたせいでな。失いたくない、失えない相手を前にすれば、ほんの些細な言動にも敏感になってしまう。嫌われはしないか、疎まれはしないかってそればかりが気になって、正しい判断すらできなくなるのさ」
「ふうん……そういうものなんだ」
 よくわからない、と言いたげな息子の頭を、ランドルフはくしゃりと撫でる。
「今の時点でもうわかってたりしたら大変だ。けど、いつかそんな相手に出会えたなら、お前はやり方を間違えるなよ」
「まあ、確かに父さんの二の舞だけは嫌だね」
「だろうなぁ。俺もやり直せるものならやり直したいくらいだからな」
 肩を竦める息子の生意気な言葉に笑いながら返し、車の流れを見ながらハンドルを切る。アマデオの通う学校まではあと数ブロック。そのせいか、通勤用とは明らかに違う種類の車がやけに多い。
「お前にも色々心配やら迷惑をかけたんだろうな。これまでの事はもう取り返せないが、これからは違う。お前には気に入らないかもしれないが、俺はもう、遠慮も自重もしない。これまでの分も、マデリーンに想いを伝えるつもりだ」
 だから邪魔をするなよ。そんな言葉が、聞こえたような気がした。
 運転席の父親の横顔からはどんな感情も窺えない。それでも彼が先ほど口にした言葉がどこまでも真実なのだという事だけは、はっきりと理解できた。
 それならば、アマデオには何も言う事はない。マデリーンを護るべき騎士は、父親の方のランドルフなのだ。これまでは息子のランドルフが子供ながらもその代理をしていたけれど、あるべきところに全てが収まるのであれば、文句を言うべきではない。たとえ、どんなに口惜しくても、だ。
「まあ、これで母さんが泣くような事がなくなるのなら、僕はそれで――」
 いいけれど、と締めくくろうとしたところで、タイヤに悲鳴を上げさせてSUVが急停止した。
 シートベルトのおかげで身体が大きく投げ出される事はなかったけれど、つんのめった拍子に首が強く振られて鈍い痛みを覚えた。
「なんだよもう! 危ないじゃないか!」
 反射的に父親へと身体ごと振り向いて抗議の声を上げる。一体どうして急ブレーキなんかかけたのかと更に問い詰めようと口の中に用意した言葉は、精悍な顔を険しくさせている父親を見た瞬間に行き場を失ってしまった。
「とう、さん……?」
「……て、いたのか?」
「え……?」
「マディは……マデリーンは、泣いていたのか? 俺のせいで? お前の前で?」
 かろうじて聞き取れるだけというほどに引き絞られた声は、怨嗟と後悔に塗れていた。
 言うべきでない事を言ってしまった。それがわかってももう遅い。そっと下唇に歯を立ててどう取り繕うべきかと思案するものの、上手いかわし方が浮かんでこない。
 背後から鳴らされたクラクションをきっかけにランドルフが再び車を動かしはじめるものの、彼からははっきりとした答えを求める意思が伝わってくる。
 学校の正面に停められていた送迎の車が歩道際から道路へと滑り出すのが見えた。その空いたスペースへとランドルフが二人の乗っている車を滑らかに駐車させる。今度は無理なく車が停止し、限りなく居心地の悪い無言の中で唯一の雑音だったエンジンまでが沈黙した。
 表立って催促はしてこないけれど、それはこのまま黙秘を続けていいという意味では決してない。
 ここで正直に話してしまうべきだろうか。それとも沈黙を守っている母親の意思を尊重するべきか。
 シートベルトを外し、足元に置いてあった荷物を膝の上に抱える。それから二度、大きく呼吸をして、少年は心を決めた。
「僕は、知らないよ。ただ、こんなに長くすれ違っていたのなら、泣いてた事もあったんじゃないかって思っただけ」
「本当に?」
「疑うなら、母さんに直接訊けば? もう遠慮も自重もしないんでしょう? それに、僕から聞くより母さんから聞いた方がいいんじゃない」
 さあ、これできっかけはできた。父親がこの事について追求するのか、追及された母親が全てを洗いざらいぶちまけるのか。それはもう、両親の間の問題だ。どうせ同じ役目を返上するのなら、重荷も一緒に押し付けてしまえ。
「それじゃ、僕は行くよ」
「ああ。気をつけて」
 思ったとおり、ランドルフの心はすでにマデリーンの元に飛んでいってしまっているらしい。感情の篭らない言葉に小さく笑って、アマデオは助手席のドアを開けると冷たい空気の中へと勢いよく飛び出した。