かぶ

真実の目覚める時 - 35

「マデリーン、今帰ったよ」
 玄関脇のシューズボックスに置かれた陶器の鍵置き皿へと車のキーを戻しながら、アパートメントの奥へと呼びかける。しかしコートをクローゼットにかける段になっても返事がない事を訝しく思い、ランドルフは急ぎ足でリビングへと向かった。
「マディ?」
 廊下とリビングを仕切るドアを開けて中を覗く。出かけるときに彼女が座っていたはずのダイニングテーブルには、彼女が使っていたグラスは残っているものの、求める相手の姿はない。特に食器が使われた形跡もないから、食事も摂らずに待ってくれているはずなのに。
 しんと静まり返った部屋は、しっかりと暖房が効いているにもかかわらず、やけに寒々として感じられた。
「マデリーン……どこに行ったんだ?」
 じわじわと不安が胸に押し寄せ、ランドルフは突き動かされるようにして部屋の奥へと進む。キッチンの中に人影がないことを確認し、ダイニングスペースの向こうに設置したホームシアターへと目を向ける。当然ながら大型のテレビモニタには何も写っておらず、柔らかくあたたかみさえ感じるクリーム色のソファにも人の姿は見えなかった。
 ならば寝室にいるのだろうか。そう考えて踵を返しかけ、ふと動きを止める。先ほどまでとは打って変わって、防寒用ブーツの厚く硬い靴底がなるべく音を立てないようにと気をつけながら、三人がけのソファへと近づいた。
 遠くから見ただけでは気づけなくても仕方がない。彼女は横長のソファに身を横たえて、朝の日差しの中、穏やかな眠りに浸っていたのだ。
「マディ、頼むから驚かさないでくれ……」
 そっと吐き出した安堵の息の下で囁いて、ランドルフはソファをぐるりと回る。マデリーンが眠るその傍らに片膝を立てて座り、安らかな表情を浮かべている妻の髪にそっと触れた。
 眠りの中にいるマデリーンを見つめるのは、ランドルフにとって至福のひと時だ。彼女が目を覚ませている間は、中々じっと見る事ができなかったから、彼女の意識がない眠りの時間にだけ、存分にその顔立ちを、眠っている間でさえくるくると変化する表情を、ずっと見つめていた。たとえば今日、突然目が見えなくなったとしても、ランドルフはマデリーンの寝顔であれば、いくらでも鮮明に思い出せる自信がある。
 けれど今は、とても申し訳ないのだけれど、この眠りを破らなければならない。
 やろうと思えば何とでもできるが、一応のタイムリミットは昼として設定している。それまでの時間を、妻の寝顔を見つめ続けたところで飽きる事も退屈する事もないが、どうせなら目を覚ましている彼女と一緒に過ごしたい。
「そろそろ起きてくれないか、愛しい人。俺一人を残して夢の世界で遊ぶのはもう終わりだ」
「……ちゃんとした起こし方で起こしてくれなきゃ嫌よ」
 あえかな笑みを浮かべながら、甘えるようにマデリーンは囁く。声の調子からして、彼女が睡魔の影響を多大に受けている事は想像に難くない。まあ、そうでもなければこんな嬉しい言葉をくれるとも思えないのだが。
 しかしだからといって、このチャンスをみすみす棒に振るようなランドルフではない。満面に笑顔を浮かべると、腰を浮かして膝立ちになり、ふんわりと広がった髪を挟み込まないように注意しながらソファに肘を突く。それから仰せのままに、と囁き、静かに腰を屈めた。
 目を閉じて唇全体でマデリーンの唇に触れ、柔らかな弾力を確かめる。ただそれだけで、どうしようもなく心に歓喜が満ちる。これはいったいどんな魔法なのだろう。なぜ彼女だけが、こんな些細な事でこれほどの幸福を自分に与える事ができるのだろう?
 そっと唇を離し、もう一度口付けを落とす。今度は目を薄く開けたまま、唇で唇を淡く愛撫する。うっとりと与えられるキスを享受するマデリーンの嬉しそうな顔は、ランドルフに強い満足感を与えた。
 愛しむように妻の髪に触れながら、唇同士が微かに触れ合う距離を保ち、囁きの吐息を吹き込む。
「これでもまだ、目を覚ますには足りないか?」
「覚めてるけど、覚めたくないの。ねえ、ドルフ、もうひとつ、キスをちょうだい……?」
 彼女が本当に甘えている時にだけ聞く事のできる呼び名で呼ばれ、元から浮かれていた心が果てしなく浮上していく。
 眠っていたのはマデリーンのはずなのに、まるで自分こそが夢を見ているのではないか、なんて風に思えてきた。
 ならばこの夢が覚める前に、少しでも多くを味わっておこう。
「君が望むのなら」
 恭しく言葉を返しながらそっと髪に指を絡め、愛を告げるように繰り返し繰り返しマデリーンの唇を啄ばむ。触れる唇が幸せな笑みの形へと変化するのを感じながら、ランドルフは最後に強く唇を押し付けて、名残を惜しみながら顔を離した。
「ご満悦かな?」
「……夢を見ているのだと思ってた……」
「ほう? つまり君は、俺の事を夢に見てくれていたというのかい?」
「さあ、どうかしらね? だってどこまでが夢で、どこからが現実だったのか、正直よくわかってないの。ああ、でもいい加減に起きなければね。まったく、病気でもなんでもないのにこんな寝穢い真似をするなんて、本当にどれくらいぶりかしら?」
 大きく伸びをしたマデリーンが恨めしげな視線を投げてくるが、こんな気安い言葉の応酬がほとんど初めてに近いせいもあり、ランドルフは喜びを隠し切れない。
「それはすまない。だけど俺は、君をもっと甘やかしたいと思っているんだよ」
「ねえ、お願いだから、そういうのは程ほどにしてちょうだい。あまりにも慣れてないせいで、私も、それからきっとアマデオも、神経が持ちそうにないわ」
「さて、それはどうだろうね? 人間は環境や習慣に実に順応しやすい生物であるという意見があるから、きっと一ヵ月後にはこういうのが当然になっているんじゃないかな」
「……私としては、ならなくてもいいのだけれど」
 心底からのため息とともに吐き出された言葉に笑って立ち上がり、ソファに座ったままの妻の手を取る。
「なら、君には申し訳ないけれど、この件に関してのみ、俺は誰の反論も聞くつもりはないんだ。何しろ俺は、君の事をずっと甘やかしたいと思っていたんだからね。これまで抑えていた分も合わせてこれからは君を存分に大切に扱うつもりだから、諦めるなり覚悟を決めるなりしてもらえると嬉しいよ」
「アマデオじゃないけれど、あんまりワンマンに振舞うと、そのうち反旗を翻すかも知れないわよ?」
「マデリーン、まさかとは思うが、俺が君にそんな気を起こすような余裕を与えるなんて、本気で思っているのかい?」
 あまりにも自信たっぷりなその様子に、マデリーンは堪え切れず、とうとう吹き出した。
「いいわ、今は負けてあげる」
「ぜひそうしてくれ。どうせ俺の方が、絶対的に君に弱いんだ。だからどんな事においても君に譲歩してもらわなければならないんだ」
 反論を許さぬ強さで言い切って、ランドルフはぐいとマデリーンの身体を引き寄せた。小さな悲鳴を上げながらもあっさりと腕の中に納まった妻を当然のように抱きしめて、彼は朝の日差しにも負けないくらいの明るい笑顔を浮かべる。
「さあ、長く待たせたけれど、そろそろ食事にしようか。スクランブルエッグはもう冷えているだろうけど、ベーコンを焼いている間に温め直せば少しはましになるんじゃないかな。――ああ、もちろん準備は俺がするから、君はテーブルについて待ってておくれ」