かぶ

真実の目覚める時 - 43

「何か飲むか?」
「いえ、結構です」
「そうか」
 短いやり取りを経て、ランドルフは重厚な年代ものの執務机の前に腰掛けた。
 建物自体がそれなりに年代を経ているアパートメントは、内装もそれにあわせてかしっとりしたものになっている。調度品も磨き上げられた木製のものが多く、ステンレスとアクリルでまとめられている冷え冷えとした会社のオフィスとは大違いだ。
 どちらの部屋の中にいてもランドルフの存在感に違いはないが、ケネスの目には、自宅の執務室にいる彼の方がオフィスの彼よりも、確かな地表に立っているように映る。まるで自分のあるべき場所はあちらではなくこちらなのだと、彼自身が強く認識しているかのように。
「何をぼさっと突っ立ってるんだ? ここはオフィスじゃない。好きに座ってくれて構わないんだぞ?」
「あ、すみません。どうも少し食べ過ぎたようで、頭があまり動いてないんです」
 からかう声の上司に苦笑で返し、ケネスはランドルフの正面にある安楽椅子へと腰を下ろす。
 これは仕事の延長であるという意識があるせいか、いつもなら帰って程なく、もしくは夕食の後には必ずラフな私服に着替えるランドルフは、ジャケットを脱いでネクタイを外し、袖と咽元のボタンを外しただけという姿になっていた。
「……どうせ俺とお前の間の事だ。今更遠回りな前置きはいらないだろう」
「そうですね」
「なら、早速はじめようか。お前は俺の何が気に入らない?」
 ずばりと核心を問うランドルフの目は、内心だけでなくその裏まで見透かすほどに強い。実際に読まれているわけではないだろうが、まるで頭の中を詳細に眺められているような気になってくる。
「正直なところを述べても?」
「それこそが望みだ」
「そうですか。では……」
 ゆっくりと息を吸い、肺の中で溜めてから吐き出す。
 どうせ覚悟などできるはずもないし、できたためしもない。それに実のところ、先ほどまでに見せ付けられた諸々のせいで、ケネスは自分が立っていた地面が磐石なものではなかったのではないかと揺らいでいるのだ。
「ではぶっちゃけますが、正直、先ほどまでのあなたを見ていて、言いたかった事が何なのか、わからなくなってしまいました」
「あ?」
「僕は今日、あなたのマデリーンに対する不誠実さを追及しようと思っていたんです。企業人としては尊敬しているけれど、家庭人としては最低な方だ、と。そのはずなのに、今日のあなたはまるで人が違ってしまったかのようにマデリーンしか見ていなかった。彼女もそんなあなたに対して少しの照れや遠慮を見せてはいたけれど、これまでと違ってまっすぐにあなたへの愛情をさらけだしていた。――馬鹿馬鹿しい質問なんですが、あなた、実は中身別の人だったりしませんよね?」
「当たり前だ。……と、言いたいところだが、確かに少し、昨日までの俺とは違ってるかもしれないな」
「知れないじゃなく確かに違ってます。僭越ながら、何があったのかお聞かせ願えますか?」
 ランドルフが口にしたあいまいな表現をばっさりと切り捨て、ケネスは更なる答えをと望む。そんな青年をじっと見つめ、男はゆっくりと琥珀色したアルコールで口を湿らせる。
「ジュニアから何か聞かされたんじゃないのか?」
「少しばかりは。でも、それじゃ納得できないというか」
「ほう?」
 片方の眉を跳ね上げ、もう一口ウイスキーを啜る。そんな仕草は、女であればうっとりと見ほれるだろうし、男であってもああなりたいと嫉妬を含む憧憬を抱かせる。
「なら聞くが、お前は何に納得したいんだ?」
「何に……ですか? そうですね。僕は……多分、あなたの本心を知りたいんです」
「俺の本心?」
「ええ。何しろ僕はあなたが誠実な夫ではないという面ばかり見ていましたから、こんな突然の変貌についていけないんです。もしかして、マデリーンに二人目でもできましたか?」
「いや、まだだ。だが、近々期待してもいいかと思っているよ」
 ふ、と瞳を和ませて、ランドルフがデスクに置かれているシルバーの写真立てに視線を投げる。以前に覗き見た事のあるそれは、ケネスの記憶が正しければマデリーンの写真が飾られていたはずだ。それを見つめる彼の視線は変わらず熱い。
 するりと脳裏を通り抜けた自分の思考に引っ掛かりを覚えながら、ケネスは更に言葉を重ねる。
「それは、マデリーンとの誤解が解けたってあたりが関係しているんですか?」
「ん? ああ、そうだな。――まったく、そうと知った時は驚いたよ。驚いて、自分自身の鈍さを果てしなく恨んだし、憎んだ。だが今更だとも思ってね。とりあえず、開き直ってこれからは彼女への感情をまっすぐに表現しようと決めたんだ。そのついでに、これまで抑えていた分も取り返そうと思っていてね。何しろ十年以上の時間を無為に過ごしたんだ。当然だろう?」
 わざとなのだろうか。婉曲な表現ばかりを使う上司に焦れて、ケネスはきっぱりと言葉を放つ。
「ランド。はっきり言ってください。僕が相手なら、何も照れたりする必要はないでしょう?」
「仕方がないな。なら言ってやる。俺はずっと昔からマデリーンに惚れているんだ。彼女がまだ少女だった頃からな。だから彼女を手放すつもりはないし、当然、お前にやるつもりもない。わかったら無駄な足掻きなどせずさっさと諦めろ」
「っ――!」
 予想以上の直球が、予想外の剛速球で返された。与えられた衝撃に反応もできずにいるケネスに、ランドルフは低く笑ってみせる。
「つまりはそういう事だろう? お前が言いたかったのは、俺がマデリーンを愛していないのなら自分が彼女を幸せにする。どうせそんな内容だったんだろう? 残念だが、お前の野望は叶わないよ。何しろ、どうやら気づいていなかったのは俺だけらしいが、マデリーンは昔から俺を愛していてくれたのだし、俺も先ほど言ったように彼女を愛している。他の人間が入り込める隙間なんてないし、あったとしても塞いでやるさ」
「……すごい自信ですね」
 思わず笑いが漏れた。
 これが他の人間であれば、何を言っているのかと嘲笑するところだが、生来の図太さによるものだろうか、ランドルフがこういう物言いをすると、妙な説得力がある。おかげでビジネスシーンにおけるはったりの類は面白いほどに通じるのだが、日常ではこれが原因で時々敵を作ってしまっている事に本人が気づいているのかどうか。
 それはともかくとして、ケネスとしては、これもランドルフのブラフだと言ってしまいたかった。馬鹿を言わないでください、マデリーンはあなたに愛想を尽かしていますよと、言えるものなら言いたかった。
 だけどそれができない事は、他の誰でもない彼自身が知っていた。
 持っていたはずのカードが全て役立たずとなってしまった今、ケネスの手の内にあるのはたった一枚のカードだけだった。それは切り札であり、同時にとてつもない諸刃の刃となって久しい。何しろそれが切り札であるという確証は、昨日の昼からすでに揺らいでいる。今夜のランドルフの様子を鑑みれば、むしろ我が身に跳ね返ってくる可能性の方が高い。
 こんな場合は、本来なら勝負に出ない方がいい。しかし今でなければ確かめる機会が失われるだろう事ははっきりしているし、何より明かされる真実如何によっては今後の対応が大きく変わる。
 まったく、こうも勝率の低い勝負に出なければならないとは。一体自分が何をしたというのだろうか? 何を間違えたのだろう? いや、わかっている。自分が何をしたのかも、何を見誤ったのかも、全て。そしてもしこれまでの考えが全て誤りであるのなら、その誤りを正すべきだ。――遅くならないうちに。
 腹を決め、ゆっくりと息を吸う。ほんの一瞬、強い酒がほしいと痛切に願ってしまい、己の弱さに改めて内心で笑う。
「――ですが、それならあなたの素行はどうなのです? マデリーンはあなた以外は男性として見ていません。僕だってご存知のとおり弟扱いだ。だけどあなたは、そんなマデリーンに対してどう申し開きをされるのですか?」
 意外にも、ケネスの言葉に対する反応は長い沈黙だった。
 果てしなく気まずい沈黙の後に続いたのは、実に苦々しいため息だった。
「お前までそれを言うのか」
「むしろ僕だから、と言うべきではありませんか? 僕はあなたがマデリーン以外の女性をパーティに同伴する姿をこの目で何度も見ています。あなたに宛てて送られてくるカードやプレゼントが途絶えた事はありませんし、約束の確認の連絡が来るのも日常茶飯事です。本当に彼女を想っているのであれば、そしてそれをはっきりと示していたのなら、そんな事態は起きなかったはずですが?」
「……へぇ、そっちはそんな事になっていたのか」
 純粋に驚いた様子でランドルフは返す。馬鹿にしているのだろうかと、精神が不安定になっているせいでめっきり短くなっている導火線に火が点いた。しかし。
「だが俺は、いつもはっきり言ってたつもりなんだがな」
「……え?」
 思わず目を瞬かせた。そんなケネスを、実に疲れた表情のランドルフが見やる。
「俺はいつもはっきり告げているつもりなんだ。まあ、本人に対して言えなかった言葉を外で使うのはどうかと思っていたからその言葉は使わなかったが、それでも言うべき事はきちんと言っている」
「なんと……仰られたので?」
「時と場合によって言葉に違いはあるだろうが、『俺にはマデリーンがいる』と。だから誘いに乗る事も、こちらから誘う事もしないと、そんな風にいつだって告げていたんだ」
 その言葉に思い出したのは、前日の昼、アリシアとのランチを切り上げて帰る間際のランドルフのセリフだった。妻子がある、妻があると繰り返し、更にはだから浮ついた真似はできないと重ねていた。
「ああ、そういえば……昨日もそのような事を言ってましたね……」
「だろう?」
「ですがあれでは少しばかり、婉曲すぎやしませんか?」
「わからないな。確かに妻子があっても火遊びを楽しむ男は少なくないが、そういう男は家族の存在を遊び相手から隠そうとするはずだ。それに家族が第一だと告げる男を追いかけて、女に何の得がある?」
「そ、れは……」
 これは何かのジョークだろうかと考えるが、ランドルフの表情はどこまでも真面目だ。もしかしてこの人は、自分が独身の――いや、既婚であってもだ――女性の目にどれほど魅力的な存在として映っているのかを知らないのだろうか? まさかそんなはずはないだろう。ケネスがコロンビア大学に在籍していた頃ですら、ランドルフの名前がビジネスニュースで取り上げられるたび、彼の武勇伝も一緒に槍玉に挙げられていたのだ。女性が自分をどう見ているのかについては、身をもって知っているはずだ。
 だけど、何だろう? 彼の態度とケネスの認識の間には、どこか奇妙なズレがあるように思えてならない。
「……多分、ですが。あなたのような地位にある方の愛人になるという事は、上昇志向の強い女性からすれば、かなりのステータスになるのではないでしょうか」