かぶ

真実の目覚める時 - 44

「愛人の座が?」
 理解できないと眉をしかめる上司に一つ頷き、ケネスは頭痛さえ覚えながら説明する。
「ええ。更にぶっちゃけてしまいますが、実際のところはともかく、世間ではあなたとマデリーンの仲はとても冷え冷えとしたものだと言われています。何しろマデリーンはパーティに参加しないし、あなたは参加するパーティごとにパートナーをとっかえひっかえしている。それも見た目にも中身にもかなり質のいい女性ばかりを選んでね」
「ケネス……」
「いいから最後まで聞いてください。今言ったような噂がまことしやかに流れていては、どんな手を使ってでものし上がろうとしている、自分に過剰なまでの自信を持つ女性にとって、あなたは格好の獲物になるんです。最初は一晩の相手でかまわない。何しろそういう女性は自分の美貌のみならず手練手管にも自信があるので、一度でも相手をすれば二度目、三度目があるだろうと考える。そしていずれは正式な愛人の座を手に入れ、時間をかけてあなたの心を手に入れるなりマデリーンを妻の座から追い出すなりして、行く行くは自分がその後釜に座る事を目標にするんです」
 言葉を重ねれば重ねるほど、ランドルフの機嫌が急降下していくのが目に見えてわかった。わかってはいたが、この部分をしっかり理解していてもらわなければ、ランドルフが現実に正しく対処する事はできないという事もわかっていたので、後に待ち構える損を全て引っかぶるつもりで最後まで言い切った。
 ケネスの言葉の後に続いた今度の沈黙は、そこまで長いものではなかった。
「……聞いてもいいか?」
「どうぞ」
「それはお前の経験談か?」
 頭痛が一際強くなり、眩暈でくらりと視界が揺れる。深々と息を吐き出して、ケネスは搾り出すような声で返した。
「あなたは一体何を聞いていたんですか。僕はまだ独身ですし、何より僕ごときにそんな手練手管を使ったところで大した利益にはなりません」
「ならなぜお前はそんな事情にそうも詳しいんだ?」
「秘書としての情報網もありますし、学友からの噂話もあります。それにそういう女性や状況をこの目で見た事もありますからね」
「なるほどね」
 気の乗らない様子で相槌を返し、ランドルフはもう一つ、呆れたように息を吐いた。
「しかしやっぱり理解できないな。何度も言うが、俺は初めから妻と息子がいると前面に出しているんだ。それに、たとえ一度や二度、遊びの相手を務めたとしても、遊びはあくまで遊びだろう? パーティのエスコート相手も、目に付いたからというだけの理由で決めていたりする。そんな扱いをされていながら、どうしてそんな風に思い込めるんだ?」
「ですから、それだけ自分に自信があるんでしょうよ。聞いた話ですが、彼女らが自分を磨くためにかける金額は並の金額じゃないらしいですよ」
「見た目ばかり磨いたところで、中身が伴っていなければ何にもならないだろうに」
「一応、頭脳も優秀なんですけどね」
「今更IQや偏差の高さと人格はこれっぽっちも比例しないなんて事、教えられなければならないのか?」
 ふん、と鼻先で笑い飛ばし、ランドルフは再びシルバーフレームへと視線を向けた。そのとたん、たった今まで零下を回っていた視線がまさしく一瞬で小春日和の穏やかさを取り戻す。その変化はあまりにも顕著で、ケネスは思わず呆れてしまう。
「……そんなにもマデリーンを愛しているのなら、なぜ初めからそう告げなかったのです?」
「同じ言葉を返してやる。お前こそなぜ、マデリーンに想いを告げなかった? 俺とすれ違っていた頃なら、お前にほだされていたかもしれないだろう?」
 またしても零下に視線の温度を下げ、ランドルフは青年秘書をじっと見つめる。
「馬鹿を言わないでください。あなたは勝手にマデリーンを見損なっていたようですが、僕の目には彼女があなたを愛している事ははっきり見えていた。勝ち目がないとわかっていて、弟がわりという立場をそう易々と捨てられるはずが――」
 はっと息を呑み、口を閉ざす。その表情から彼が正しい結論に達したと知り、ランドルフは自嘲を頬に浮かべた。
「俺からすれば、全財産を賭して手に入れた、この世にたった一輪しか存在しない、ガラスケースの中で咲く希少な花に直接触れたいと渇望するような想いだったんだ。すでに所有しているのに、その本質に触れる事だけができない。ガラスを割ってしまえばいいとは考えるんだが、割ったその破片で傷つくかもしれないし、外の空気に触れたとたん枯れて散ってしまうかもしれない。――そんなくらいなら、どんなに焦れて苦しくても、渇望に身を焼かれようと、手にできた事だけで満足しようと必死で自制していた。……ただそれだけの事だ」
 すいと視線を伏せ、ずいぶん薄くなったウイスキーをゆっくりと飲み干す。小さくなった氷の立てる音が、しんと静まり返った部屋にやけに大きく響いた。
「驚いたな。ランド、あなたには詩作の才能もあったんですね。ああ、それとも『恋は人を詩人にする』ってやつですか?」
「好きに言えばいい。何を言われても堪えやしないからな」
 咽喉の奥で低く笑うその顔に照れは欠片ほども見えない。見えるのは、確かな愛を得ているものだけが持ち得る幸福感より生まれる倣岸さで、それがやけに癪に障った。
「では、あなたは現在、愛人を持ってはいないのですね?」
「ケネス……お前、本気で殴り飛ばされたいか?」
 投げつけられた剣呑な声にも動揺を見せず、ケネスは軽く肩を竦める。
「単なる確認です。何しろ僕のデスクには、あなたの愛人を名乗る女性からの電話が一日に最低一度はかかってきますので」
「次回から電話をかけてきた女の名前をリストアップしておいてくれ。この午後から渉外担当に、俺の不名誉なレッテルへの対応を依頼しているんだ。もしかすると、彼らの対処に役立つかもしれない」
「わかりました。では、以後そのように」
 姿勢を正して生真面目に返す青年を、ランドルフは観察するようにじっと見つめる。
 何か妙だ。秘書としての彼が慇懃と呼ぶべき態度を取るのは初めての事ではない。どちらかといえば常だというのに、何かがいつもと違う。無言のまま目を眇め、何気ない口調で呼びかけた。
「ケニー」
「はい」
「お前、何を知ってる?」
 小さく、本当に小さく頬が引きつる。それに目敏く捕らえたランドルフは机に両肘を突き、その大きな手を組み合わせた上に男性的な顎を乗せた。
「何を……って、何の事ですか?」
「さあな。それはお前が教えてくれるんだろう? 何しろ隠し事をしているのは俺じゃない。お前だ」
 言葉の真意を探るように、ケネスは真正面からランドルフを見つめ返す。マデリーンやアマデオの海を思わせる深い青とは対照的な、からりと晴れた空に似た薄青の瞳が、嵐の予感に翳っている。
 まぶたを強く閉じ、ゆっくりと空気を吸い込み、肺が痛くなるまで息を止めた上で静かに吐き出す。タバコの煙は大して気にならない方だが、今は二人ともタバコを好まないタチなのが救いだった。今のような心境に、状況にある時に、紫煙で澱んだ空気は致命的だ。そうでなくてもこめかみの辺りがずきずきと痛んでいるというのに。
「一つ、お訊ねしても?」
「今度は何だ?」
「別に大した事じゃありません。ただ、その、どうしてあんな断り文句が通用するなんて考えたのかを知りたくて」
「と、言うと?」
 軽く肩を竦めてのケネスの言葉に、ランドルフはくいと片眉を持ち上げる。
「あなたに群がってくる女性に対する断り文句です。さっきも言ったように、家庭内別居状態な奥方を口実にするなんて、野望に火を点けてやるようなものじゃないですか」
「お前はそう言うが、周囲のアドバイスがそうだったんだ」
「周囲の?」
 どこまでも苦い表情で吐き出した上司に、青年はどういうことだろうかと眉を顰める。
「ああ、そうだ。お前の言うとおり、俺の恋人やら愛人やらになりたがる女は昔から――婚約が決まった頃から途切れる事無くいたんだ。正気かと思ったのは、婚約パーティや披露宴の場で誘いをかけてきた連中だな。そういうのに俺が心底辟易としているのを見て、父の友人たちがこぞってアドバイスしてくれたんだ。ああいうのは、こっちが結婚相手を変えるつもりも離婚するつもりもないと示せば諦めるってな。女関係が派手な人も奥方一筋の人もそう口を揃えていたから、そういうものかと思ったんだ」
「それ、本当ですか?」
「疑り深い奴だな。なんなら彼らの名前をリストアップしてやろうか? 他愛ない話をするだけでも勉強になるお歴々だから、お前にはちょうどいいかもしれないな」
 思い付きが気に入ったのか、机の端に片付けられていたメモとペンに手を伸ばそうとするランドルフを制し、ケネスは重ねて問う。
「それは、彼らの経験から、という事ですか?」
「ん? ああ、そう言っていた。家庭内別居どころか、夫婦共に愛人を持っていてその入れ替わりが激しい事で有名な人でさえ、そうだ。彼曰く、一夜の相手でも、レギュラーの相手でも、結婚生活の実態がどうであれ、妻との離婚はありえないのだと事あるごとにほのめかし、時にははっきりそう告げてやれば自分の立場を理解せざるを得ないから、過ぎた望みを持つ事はなくなるのだと」
「つまり、それを素直に信じてマデリーンを口実にしていた?」
「口実じゃない。事実だ」
 ここまできっぱりと言い切られると、そこに疑問や疑念を抱く事が段々馬鹿馬鹿しくなってくる。
「だったらなぜ、あんな誤解が蔓延するままにしていたんです? あなたがもっとわかりやすい態度を取っていれば……」
「笑ってくれても構わないが、自棄になってたんだ。あと、マデリーンが嫉妬してくれないかとも期待していた。――マディがそういった感情をああも上手く押し隠せると知っていたなら、絶対にしなかったんだがな」
「……言ってもいいですか?」
「何だ?」
「馬鹿ですか?」
 疲れたような、呆れたような視線を受け、ランドルフは顔をしかめながら鼻を軽く鳴らす。
「好きに言えばいい。どうせ自分でもわかってたんだ。馬鹿な事をしてるってな。だけどマデリーンが俺の隣にいない理由を何度も繰り返すのは自分で自分の傷を抉るみたいで嫌だったんだ。それに、ひっきりなしにエスコートを求めてくる女たちを断り続けるのも面倒でな」
「羨ましい事で」
「羨ましいならすぐにでも変わってやる。衝動だけで動いていた頃ならともかく、本気で惚れた女を手に入れた後は煩わしいだけだったからな」
「あの、ランド? なんだかそれ、マデリーンと結婚してからは浮気なんかしてないって聞こえるんですが」
「ケニー……」
 ぐったりと疲れ果てた声が漏れる。本当に、自分はどこまで信用がないのだろうか。
「そんなに知りたいのなら言ってやる。俺は結婚してからどころか、マデリーンに求婚すると決めてからはずっとマデリーンだけだ」
「う……そ、でしょう?」
「いい反応だな」
 シニカルな笑みを口元に浮かべ、ランドルフは更に続けた。
「ついでに教えてやるよ。マデリーンとの婚約期間中、俺が彼女に触れたのはキスと婚約者として許される範囲での抱擁までだった。俺は死んでも聖職者にはなれそうにないと思い知ったが、我慢しただけのものはあったからな」
 初めてマデリーンに触れた夜の事を思い出す。自然と口元が笑みの形に歪むのを感じ、ランドルフはそれを隠すように口元を手で覆う。しかしそれも、正面に座る青年の呆然とした顔を見るまでの事だった。
「どうやら本当に、俺がどこかで浮気の一つや二つ……どころか十や二十はしていると思っていたようだな」
「……あなたの言動を思い返せば、意図的にそう思い込まされていた気がしてならないんですが」
「まあ、若干図ったのは事実だが、もう少し信用してもらえてるとも思っていたよ。だけどな、ケネス。お前も賛成してくれると思うんだが、家に帰れば好物を好き放題食べられるってのに、どうして外で美味くもないファストフードを食わなけりゃならない?」
「気分転換とか?」
「んな事、胃もたれと胸焼けと悪酔いで最悪の気分になるとわかっていて誰がやるか」
 噛み付くような勢いの返答に、ケネスはようやく敗北感を認めた。
 これまで、大学時代に耳にした噂もあって、実に巧妙に意識を操作させられていたようだ。もちろん、はっきりとした証拠を提示されたわけじゃないから、嘘だと決め付けようと思えば決め付ける事もできる。いや、きっとそうする方が、ランドルフが潔白の身だったと信じるよりも、ケネスにとって都合がいい。
 けれどそうやって自ら目隠しを着け、真実を見なかった、聞かなかった振りをしたところで、状況は何も変わらないのだ。
 それどころか、ここではっきりと軌道修正をしなければ、ますます悪くなってしまうだろう。
 元からわかりきった勝負だった。
 マデリーンがランドルフを愛さなくなるなんてないと、ずっとわかっていた。だけどそれを認めたくなかったし、僅かにでも可能性があるのならと願っていた。そう、想っているのがマデリーンだけだったなら、限りなく低いとはいえ、可能性は皆無じゃなかったのだ。
 だけどランドルフがこうもマデリーンを想っていたのなら、もう本当に、ケネスに割り込む隙間などありえない。
 そう認めたとたん、意外な事に、心だけでなく身体まで軽くなったような気がした。