かぶ

真実の目覚める時 - 45

「ランドルフ」
「何だ」
「もし僕が、退職したいと言い出したらどうしますか?」
「俺の秘書から外れて他の仕事を手がけるというのならともかく、モーガンヒルから出られるのは困る」
 半ば自棄も手伝って口にした言葉に対する答えは、ケネスが予想していたものではなかった。
「困り、ますか?」
「ああ、困る」
「なぜです? 確かに僕は、モーガンヒルの機密をかなり知っていますが、守秘義務はきちんと守りますし、現在手がけている案件もきちんと片付けてからにしますよ」
「お前が産業スパイの真似事をするなんて思ってないさ。俺は、お前がいなくなったら早期引退の夢が叶わなくなるから困るって言ってるんだ」
 そうきいんたい、という言葉の意味が、かなり長い時間、正しい意味を成さなかった。そしてそれがどんな意味を持つのかを理解した次の瞬間、ケネスは軽いパニックを起こしていた。
「引退!?」
「ああ。せっかくマデリーンと仲直りしたんだ。これからは時間を有意義に使いたい。だから俺の後を継ぐ人間が必要なんだが、ジュニアにはまだ任せられないしな」
「当然です! いくらあの子が大人びているからって、ランディはだってまだ十歳なんですよ?」
「自分の息子だ。何歳なのかはちゃんとわかってるよ。だから、お前が必要なんだ」
「は――?」
 だから、の後が繋がっていない。そう口にしかけたところで、ランドルフは今夜見た中でもっとも楽しげな笑みを浮かべ、とんでもない爆弾発言をケネスへと全力で投げつけた。
「喜べケネス。春からお前は晴れて俺の秘書の任から解放される。その後は半年ほどヨーロッパを回り、次の会計年度からはモーガンヒルUSAのジュニア・パートナーに昇格だ。忙しくなるから覚悟しておけよ?」
 今夜は本当に、何から何まで予想外だ。
 ランドルフの秘書を務めるようになってから、どんなに意外な事が起きても冷静に対処できるよう訓練を重ねてきていたつもりだった。けれどこれまで正しいと思ってきていた事が全て間違いだった事が明らかになり、大切に抱えてきていた恋情へと強制的に終止符を打たされた挙句、いずれ必ずと望んでいた夢が思いがけず間近に叶うと知らされるなんて。
 何も知らない人間が突然、迫り来るハリケーンに向かって放り込まれたらこんな気分だろうか、などと、馬鹿馬鹿しい事を考えてしまうが、本当にそんな気分なのだから仕方ない。
 はぁ、と大きく息を吐き、力の抜けた身体をクッションの柔らかな椅子へと全身を沈み込ませる。
「そんなに喜んでもらえるとは思っていなかったな」
「ランド、思ってもない事は言わないでください。頭痛が酷くなる」
 それが言葉上だけのものではない事を知らしめるためにも、鼓動と同じリズムで痛みを訴えるこめかみを指先でそっと押さえる。そのジェスチャーは正しく伝わり、ランドルフは不満げに鼻を鳴らした。
「それは悪かったが、どうにも解せなくてな。昇進の知らせを受けて、どうしてそんなにがっくり来るんだ? お前は俺の秘書役には辟易していたはずだろう?」
「僕は仕事が嫌だなんて一言も言ってません。嫌だったのは、家庭に対して不誠実に見えていたあなたの言動です」
 緊張が解けたのが原因だろうか、思わず本音が漏れた。はっと口を押さえるも、すでに吐き出してしまった言葉を取り返す事はできず、恐る恐る目の前の上司に視線を向ける。
「ほう? それは、中々興味深い意見だな。この際だ。好きに言いたい放題言ってくれ。何を言われたからって、お前の昇進はなかった事にはしないから」
「そんな事、言ってしまっていいんですか?」
「かまわんさ。お前が実は他企業に通じてました、なんて事を言い出さない限りはな。この多忙な生活から抜け出すためなら、多少の痛みを堪えるぐらいはできる」
「ランド、本当にあなたって人は……」
 人物が大きいのか、それとも己の望みしか考えていないのか――その両方なのだろうと素直に思えてしまうから、この人はタチが悪い。どちらか一方であれば、ケネスも態度をはっきりと決められるというのに。
「それで、お前が言いたい事は何なんだ? 今日はお前に話をさせるために時間を作ったってのに、気が付いたら俺ばかりが話してる。これじゃあ本末転倒だ」
「ああ、そういえばそうでしたね」
 力なく笑いを漏らし、もうひとつ息を吐く。どうやら緊張は完全に解けてしまったらしい。無作法だとは思いつつも、だらしなく椅子にもたれたままの体勢で口を開いた。
「言い訳をするなら、僕もあなたの言動に振り回されていた一人なんです。何しろ僕のデスクには、あなたの愛人だとか恋人だとか名乗る女性からの問い合わせや取次ぎ依頼が押し寄せていたんです。それに加えて、あなたもこちらの誤解を増長させるような事ばかりしていましたし……」
「例えば?」
「パーティにマデリーン以外の女性を伴うってのが一番大きいですね。基本的にああいった席ってのは、対外的に自分のパートナーが誰なのかを知らせる場ってのが常識ですから」
「それくらい知ってるさ。だからこそ、誰か一人を続けて使わないようにしていたんだ」
「とっかえひっかえしている場合は、その日連れている女性イコールその日のお相手、と認識されるんですよ」
「それも知ってる。おかげで俺は、世間ではドン・ファンやカサノヴァと肩を並べられるほどのプレイボーイ扱いされているわけだ。……まったく、ゴシップってのは信用がならない」
 自分自身と世間に対する嘲りも露な笑みを頬に浮かべ、吐き捨てるように呟く。
「実情がどうあれ、そう思わせようとしていたのは自分じゃないですか。人間ってのは、基本的に一番自分に都合がいい事を信じたがる傾向にあるんです。赤の他人であれば面白い方を選ぶし、ライバルであれば敵の不利になる情報を手に入れる事に躍起になる。だけど味方であっても、自分にとって都合のいい虚像を求めてしまうんです」
「――つまり、お前にとって、俺のプレイボーイ像は『都合のいい虚像』だったというわけか」
「ええ。何しろあなたも知ってのとおり、僕はマデリーンに横恋慕していましたから」
 鋭い指摘にケネスがしれっと返し、互いに不敵な視線を交わす。しかし程なく、ランドルフは僅かに視線を和らげた。
「……過去形、か」
「っ、そういう事は、気づかなかった振りをするのが大人ってもんじゃないですか!?」
「悪いが俺は、ことマデリーンに関しては十代のガキレベルの行動しかできなくなるんでね」
「開き直らないでくださいってば! ったく、あなたがマデリーンへの感情をもっと素直に表現しておいてくれたなら、僕はもっと早く諦めもついていたし……」
 そっと舌先で唇を舐め、覚悟を決めて言葉を唇に載せる。
「あんな甘言に惑わされたりもしなかったのに」
 意図的な失言に対するランドルフの反応は、射抜くような視線と先を促す沈黙だった。
「それもこれも、もう一度言いますが、あなたのこれまでのあいまいな態度が原因です。初めからスタンスをはっきりさせておいていただければ、僕はあんな事、絶対にしませんでした」
「ケネス、前置きはもう十分だ。はっきりと言え」
「あなたの予定の一部を――もちろんビジネスとは関係のないものですが、知りたがっている人たちに何度か教えました。主に参加するパーティや、食事を摂る場所などといった取るに足りない情報ですが、あなたに取り入りたいと願っている方々には十分だったようですね」
 薄く笑って告げれば、ランドルフも得心がいったとでも言うように頷いて見せた。
「なるほど。それでああも見覚えのある顔が、俺の行く先々にあったのだな」
「ええ。正直、彼女らのリスケジュール能力には関心しましたよ。すっぽかしたのか代理を立てたのかは知りませんが、重要なミーティングや仕事があったはずの時間に現れる事も少なくなかったですからね」
「そんな事が?」
「あったんです。まあ、そのわりに、あなたの反応が薄いのは気になっていましたが、そこまでしてあなたを追い掛け回すからには、最低でも一度くらいは何かあったはずだろうと考えるのが普通じゃないですか?」
 少しばかり拗ねた口調で告げるケネスに、ランドルフは低く笑いを漏らす。
「かも、しれないな。だがそれきしの事で、辞職まで考えるのか?」
「――社長のスケジュールを、いくらビジネスには関係のない範囲でとはいえ、他人に売ったのは事実ですから」
「お前ね……」
 硬い表情になる青年に、まだ何か隠しているなと感じながらも、ランドルフはさてどうした事かと考える。
 ケネスはどうやら罰を与えてほしいようだが、彼自身の生活に多少の悪影響はあったものの、社の事業にはまったくもって関わりはない。これと見込んだ相手という事もあるし、何より家族が、ケネスを血の繋がりはないものの、まるで近しい親族のように扱っている。この状況で下手な判断を下しては、妻や息子からの追求は逃れられまい。
「……とりあえず、お前が話したがっていた事はそれだけか? 他にもあるなら全部聞くが」
「いえ、別に。とはいえ、あなたの暴露話のおかげで、これまで抱えていたほとんどが見当外れになってしまったせいで、言いたい事も言うに言えなくなっているってのが実情ですが」
「それは悪い事をしたな」
「ランド、それ、全然本気じゃないでしょう?」
「当然だ。何しろ俺は、何も悪い事はしていないんだからな」
 低い笑い混じりに答え、ゆっくりと立ち上がる。
「明日も朝は早いんだろう? 今夜は泊まっていけ」
「え? あ、いえ、ですが……」
「実は初めから泊めるつもりでマデリーンにも客間を用意させているんだ。まさかとは思うが、お前、彼女の労力を無駄にするつもりか?」
「……その言い方は卑怯だ」
 ランドルフが相手ならいくらでも強気になれるケネスだが、マデリーンの名前を出されるとそうも行かない。それを知っての言葉に口の中で悪態を付き、ケネスは満悦を浮かべる男を睨みつける。
「これくらいの事で卑怯呼ばわりか。まったく、お前も青いな」
「自分がスレてるからって、人を未熟者呼ばわりしないでください」
「ふん。本当に未熟者だと思っていたら、わざわざうちに連れてきたりもしないし、そうしたとしても安全な時間にさっさと帰らせているさ」
 にやりと楽しげに頬を歪めるその表情に、ケネスは一瞬視線を奪われた。茶化した言葉に隠された信頼が、言葉を奪った。
「まったく、あなたって人は……。わかりました。今夜と明日の朝はお世話になりますよ」
「そうしてくれ。きっとマデリーンも張り切って朝食を作るだろう」
「それは嬉しいですね。彼女の作る卵料理は絶品ですから」
 椅子から立ち上がり、先に立って外へと促すランドルフの後を追う。目指すべき人と肩を並べ、室内よりは幾分温度の低い廊下へと足を踏み出しながら、静かに心の中で決心を固めていた。