かぶ

真実の目覚める時 - 46

 重厚な木材でできた扉が木枠にぶつかってくぐもった音を立てる。それは本当に抑えられた音で、鏡台の前にいたマデリーンは、夫がとても気を使って入ってきたのだろうと考えた。
「ケネスとの話は終わったの?」
 ブラシで髪をくしけずりながら鏡越しに夫へと視線を投げると、鏡の中の彼は驚いた顔でこちらを見ていた。
「マデリーン。まだ起きていたのか」
「まだそんなに遅い時間じゃないし、もしかしたら何か用事があるかもしれないと思っていたから」
 あえて振り返らず、鏡の向こうから近づいてくるランドルフをじっと見つめる。抑え目にしている照明のせいだろうか、彼の精悍な顔は、どことなく疲れが滲み出ているように思えた。もしかして、何か難しい事にでもなったのかしら? 胸にこみ上げてきた不安に顔をしかめ、率直に問いかける。
「何か悪い事でもあったの?」
「なぜ?」
「だってそんな顔をしているんだもの」
 穏やかな声で指摘すると、鏡越しにも驚きに目を見張るのが見えた。それがあまりにも意外だと言われているように感じて、ほんの少し哀しくなる。ほんの少し振り返り、部屋の半ばまでやってきている夫にちらりと視線を投げる。
「私だって、あなたの表情を読む事はできるわ。内心全てを読み取る事はできなくても、ね」
 拗ねた口調になってしまったのが口惜しくもあったけれど、素直な心情を告げられたというそれがまず重要だった。
「そうじゃないんだ。俺は……自分では、普通の顔をしているつもりだったんだ。ケネスが俺に言った言葉はどれも理解できるものだったし、納得もしていた。その、つもり……だったんだが、どうやら心の奥では傷ついていたのかな」
 止めていた足を再び動かし、ランドルフは鏡に視線を戻した妻へとゆっくり近づいていく。
「それで、何の話だったの? 仕事の事で意見が対立でもしていたというのなら、黙秘してくれても構わないけれど」
「仕事とは直接関係のない事だけど、黙秘権を使わせてもらうよ。男同士の少しばかりプライベートな話だったからね」
「ふうん、なるほどね。――ああ、だからあなた、私に先に寝ていてほしがったの?」
「いや、それは違う。俺はただ、君が無理して起きていたんじゃないかって事を心配したんだ」
 宥めるような声が耳に届いたのと、背後から優しい力で抱きしめられたのは、ほとんど同時だった。
「ドルフ……どうかしたの?」
「どうもしない。ただ、君に触れたいだけだ」
 掠れた声で甘く囁きながら、髪に、耳に、頬に、いくつもの小さなキスが落とされる。くすぐったさの中に混じる心地よさはまるで極上の蜂蜜のように甘く、マデリーンの心を蕩かせる。けれど脇から回されていた手が腹部から柔らかなふくらみへと、弧を描きながら上ってくるのを感じた瞬間、彼女は現実に立ち返った。
「駄目。やめてちょうだい。今夜は……」
「なぜだい、ハニー? 俺はこんなにも君に触れたくて仕方がないのに……」
「もう、ドルフ! 今夜はケネスがいるのよ? お客様がいるってのに、馬鹿な真似はやめてちょうだい!」
 明確な意思を持って胸を包み込む腕を押し留め、マデリーンは不自由な体勢で夫を振り返るときっぱり拒否の意を告げる。それはランドルフにとってどうやら予想外の反応だったらしく、彼は目を瞬かせた後、ほんの少し顔をしかめた。
「だけどマディ、あいつがいるのは俺の書斎を挟んだ向こう側だからこちらの音なんて聞こえるはずがないじゃないか。第一どの部屋も、壁には防音対策を取り入れている」
「そういう問題じゃないわ。私はただ、家族以外がいる時にはそんな事をしたくないって言ってるの」
「あいつは俺たちが夫婦だって事も、長年の誤解がようやく解けたばかりだって事も知っている。二人きりになれば親密な事をしているだろうって事は、十分想定の内のはずだろう?」
「だから、それが嫌なの」
 意外なほどに強い拒否の言葉に目を見張る。僅かな間、無言で視線を交わした後、ランドルフはゆっくりと息を吐き出した。
「わかった。君がそう言うのなら、今夜は諦める。――まったく、こうなると知っていたら、最終が出ていたとしてもケネスの奴を蹴りだしていたのに」
「もう、あなたってば……」
 やれやれと首を振って悪態を吐く夫に、マデリーンは小さく笑いを漏らす。けれどさっきまで抱いていた感情の余韻か、完全に晴れた笑顔とはいえない。そんなに嫌だったのかと内心で反省しつつ、笑みをかたちどる唇に軽く口付ける。
「! ちょ、あなた!?」
 これきしの事でこうも反応されては、さすがにむっと来る。腰に手を当てて妻を見下ろし、不機嫌さも露に問いかけた。
「キスぐらいはいいだろう? それともまさか、今夜抱きしめて眠る事すら許してもらえないのか?」
「……罪のないキスまでなら、許してあげるわ」
 僅かに罪悪感をよぎらせて、彼女はそれでも強気に返す。これでいい。これでこそ自分の愛したマデリーンだ。こちらの顔色を窺ってばかりいた頃には見れなかった顔に満悦し、楽しげに返した。
「それは困った。俺が君にするキスで、下心のないものは皆無に等しいからね」
 告げられた言葉の意味を正しく理解するまでの時間は長いとも短いとも言えなかった。けれど見る見る頬を紅潮させる彼女はとても愛らしく、ランドルフはこの世で一番大切な女性をもう一度腕の中へと閉じ込める。身体を捻った不自由な体勢ながらも彼に身を預け、できる限りで抱き返してくれようとしているのに気づいた時には、幸せがまさに実感となってランドルフを満たした。
 どうせならきちんと抱きしめてほしい。そう思って促すように腕の力を緩めると、彼女は彼の望みを正しく理解してくれたらしく、腰を動かして丸椅子に座りなおし、遥かに楽な姿勢で背中に腕を回してきた。互いの姿勢のせいであからさまな身長差があるにもかかわらず、二人の身体はしっくりと重なる。まるでどの部分をあわせてもぴたりと嵌るように作られた魔法のパズルのように。
「君と出会って、こうして結婚できたのは、きっと偶然なんかじゃないね」
「もう、本当にあなたったらどうしちゃったの? 突然運命論に目覚めたりして」
「別に目覚めたわけじゃない。ただ気づいただけだ。当たり前に目の前にあった真実にね」
「目の前に、あった……?」
「ああ」
 鸚鵡返しに繰り返すマデリーンに、ランドルフはただ頷きだけを返す。発見の喜びを味わいたかったためもあるが、腕の中の身体がほんの少し緊張したのを感じたためだ。
「マディ、どうかしたのかい?」
「……いいえ、別に」
 声に硬さが混じっている。どうやら彼女の中で、何か余りよくない方向に変化が起きてしまったようだ。ほんの一分前まではランドルフに全てを預けていたというのに、今はとてつもない勢いで、二人の間に目には見えない障壁を築こうとしている。
 明らかによくない兆候だ。
 抱きしめる腕は外さないままでその場に膝を突き、翳りを帯びた紺碧の双眸を見上げる。
「マデリーン。俺を締め出さないでくれ。言いたい事があるのなら何でも言っていいし、訊きたい事があるなら訊いてくれ。ただ、お願いだ。一人で殻に閉じ篭るのだけはやめてほしい」
「ランドルフ……」
 くしゃりと歪められた顔は、何を表しているのだろうか。さまざまな感情があまりにも混在としていて、どれかに的を絞る事すらできない。
「どんな些細な事でもいいんだ。全部が無理なら一部だけでも構わない。俺に、君の心を預けてほしいんだ。不安の種があるのなら俺が引き受ける。何かが怖いなら、その正体を白日に晒して本当は何でもないのだと見せてあげてもいい。ただ、俺一人を除け者にするのはもうやめてほしいんだ」
「そんな事……」
 反射的な反論に、ランドルフはち、ち、ち、と首を振る。
「残念だけれど、その反論は受け入れられない。なぜなら俺は、君とジュニアが二人で何かを隠しているって事に気づいているからね。そして、これは多分だけれど、ジュニアに口止めをしているのは君だろう?」
 のどの奥で微かな悲鳴が殺される。それだけで、自分が核心中の核心に踏み込もうとしているのだとランドルフは気づく。問題は、更に踏み込むべきか、それともここで追及の手を緩めるか、だ。
 束の間の逡巡の後、彼は辛うじて後者の道を選び取った。
 ゆっくりと苦く息を吐き出し、絞り出すように低く囁く。
「――無理に、訊ねはしない。君がこうと決めたらてこでも動かないのはわかっているし、君を、君の判断を、信じてもいるから。君が俺に話したくないと思っているのなら、そう思うだけの理由があるのだろう?」
 投げた問いに返されたのは、予想どおりの沈黙だった。だが、その青褪めた硬い表情から、自分の言葉が正しいのだろうと推察する。
「だから、無理強いはしない。君がいずれ、自分から話してくれるのを、俺は待つ」
 その日がなるだけ早く来てほしいのだけれど。そう胸の中で付け加え、強張っている身体をもう一度抱きしめる。緊張のせいで体温が下がっているのか抱きしめた身体は冷たく、硬く感じられた。