かぶ

真実の目覚める時 - 47

 朝からマデリーンの手料理を食べる事ができたケネスは十分すぎるほどに上機嫌だったのだが、隣に座る上司の機嫌は完璧とはいえないようだった。不機嫌と言うよりは拗ねている、といった風情なのだが、その理由がよくわからない。今朝もうっかりすると頭痛を感じそうなほどに甘ったるい空気を醸し出していたというのに何が不満なのだろうかとやっかみ半分考えながら、車窓の外を流れていくコンクリートの風景を眺めていた。
「ああそうだ、ケネス。昨日依頼した件だが」
「昨日、ですか? 昨日のどの件でしょう」
 いつもなら見る事のない風景へと意識を飛ばしていたケネスは、唐突に投げられた言葉に対応しきれず、珍しくも情けない声を上げる。どうやら自分が意表をついたらしいと察し、年甲斐なく少年じみたイタズラ好きの男は、実に楽しげな笑みを浮かべつつ穏やかに返した。
「今週末から来週にかけて、どこかのパーティに参加しようと思う、と言った件だ」
「思い出しました。――それがどうか?」
「行くのはMetのシルクロード特別展示前夜に開かれる祝典にしようと思う。あれには今、ニューヨークにいる知り合いがかなり顔を出すらしいからちょうどいい」
 そうですか、と返しかけ、耳に残ったフレーズを鸚鵡返しに口にする。
「ちょうどいい?」
「そうだ。実際の発表は三月になるが、今から顔を繋げておいて損はしない。ああいった趣向の高いパーティに参加するのは、正しく上流の人間が多いからな。そのつもりで準備はしておけよ」
「は? あの、ランドルフ?」
「言っておくが、俺の秘書としての参加じゃないからスーツは不可だ。きちんとした正装が基本だが、色はブラックだ。若手ばかりが集まる場なら色物でもいいかもしれんが、年配者も多い場では眉をしかめられかねん」
「いえ、それくらいはわかっておりますが……」
「ならいい。エスコートパートナーはいてもいなくてもいいが、連れて行く場合は大半はほったらかしになるから、そのあたりを踏まえた相手を選べ。あと、俺が言うのもなんだが、妙な期待をもたれる可能性は考えておけよ? 特にお前は俺と違って独身なんだからな」
 からかいの色を乗せてこちらを見つめるランドルフに、ケネスは低くうなり声を上げる。
「僕にはそんな相手いません」
「なんだ。マディに横恋慕していても、割り切った付き合いぐらいはしていると思っていたんだが」
「そんな相手がいたとしても、連れて行きたいとは思いません。一歩間違えたら今後の付き合いを断られるか、一生の付き合いを望まれるかの二つに一つじゃないですか」
「ほう。やっぱりいるんだな」
「いたとしたらの話です。僕はあなたと違って、プライベートをひけらかすのは趣味じゃないんです」
 ふん、と鼻息も荒く、視線を窓の外に戻す。それからややあって、ケネスは胸に浮かんだ疑問を口にした。
「確認、なのですが。今回エスコートするのはマデリーン、ですよね?」
「なぜそんな事を訊く?」
「言ったでしょう。確認です」
「そうだな。お前がエスコート相手を見つけられなかったら、俺がお前をエスコートしてやろうか? どうせ顔繋ぎは俺がするんだ。色々面倒がなくていいかもしれないな」
 調子付いて言葉を重ねるランドルフに、ケネスはそれはそれは嫌そうな視線を投げた。
「本当にゴシップ誌を喜ばせるのが好きなんですね。僕は嫌ですよ。ハート型の中にあなたと並んだ記事を見るなんて」
「いや、意外といいかもしれないぞ。俺が男色だと噂が流れれば、ひとまずプレイボーイの噂は払拭されるわけだし」
「寝言は寝てから言ってください。そんなの、駄目に決まっているでしょう。この業界には頭の固い人たちがまだ多いんですし、何より僕は未婚なんです。妻となる人を探さなければならないのに、同性のパートナー候補がずらりと並ぶのは死んでもごめんです! あなたの方こそ、ジムで汗を流している時に妙な視線を妙な部分に投げられたいんですか?」
「……やめろ。想像したくもない」
 心底嫌そうな顔で呻くのを耳にして、ケネスはまったく、と息を吐く。
「なら馬鹿な事は言わないでください。いいですか? 次に今のような発言をしたら、僕自らゴシップ誌に『モーガンヒルの社長が秘書をゲイの道に引きずり込もうとしている』ってなネタを売りに行きますからね」
「わかった。こういうネタでお前をからかうのはやめにする」
「そうしてください」
 つっけんどんに言葉を返したところで会話は途切れ、その後、オフィスに到着するまで車内はエンジン音が響く以外はずっと無音だった。
 ランドルフのパートナーについて、結局はっきりとした答えをもらっていないのだとケネスが気づいたのは、仕事が立て込みはじめてからの事だった。

* * *

 日課である家事を全て終わらせたマデリーンは、広いウォークイン・クローゼットの中で一人佇んでいた。
 この場所を選んだのは、一番外からの干渉を感じないからだ。
 現実には、寝室に置いてある電話が鳴ればその音は聞こえるし、来客のブザーも家中に響く。けれど狭いスペースに二人分の服がずらりとかけられたこの場所は、街中を満たすさまざまな生活音から遮断されていて、それゆえに最も外界から離れているような感覚を彼女にいつも与える。
 ほっそりとした長い足を優雅に折り曲げて床に座ると、彼女を取り巻くたくさんの服がまるできらびやかな繭のように思えてくる。暖房や冷房が完全には届かないため、年中ひんやりとした空気が留まっている。防虫剤や臭い消しなどのせいで空気は清涼としてはおらず、閉塞感を強める。
 だからこそ、一人になりたい時にはちょうどいい。一人でゆっくりと考えたい時には、ここが一番落ち着ける。
 いくつもの真実が明かされたあの日まで、マデリーンがこの場所に篭るのは現実逃避のためだった。苦しいばかりの現実を忘れ、さまざまな可能性を夢想していた。だけどどんな可能性を夢に見ても行き着くのはランドルフとアマデオのいる日常で、他の道など選べなかったのだと甘い苦味に苦笑したものだ。
 だけど今日の彼女が考えようとしているのは、これまでとはまったく違った可能性だった。
 きっかけは昨日のランドルフの言葉だ。
『当たり前に目の前にあった真実』
 このフレーズが、どうしても頭を離れない。
 何だろう。何を見落としていたのだろう。なぜこんなにも気になるのだろう?
 ランドルフの愛情は、それが確かなものなのだと今ではきちんとわかっている。過去を思い返せば思い返すほど、まさしく目の前にあった真実が紐解かれ、花開いていく。だからきっと、気になっているのはこれではないはずだ。
 なら、何? 何がそんなに気になるの?
「ああもう、本当にまどろっこしい……!」
 悪い癖だとは知りながらも、無意識に親指の先をきりりと噛む。爪を噛む癖は小さい頃に直したのだけれど、爪を噛まない代わりに指を噛むようになってしまった。この癖に、そういえばランドルフも気づいてくれて、困ったような、痛ましいような顔をして、自分を傷つけるような真似はしないでほしいと切なる声で囁いた。
 不意打ちに思い出したあたたかな記憶に、ささくれ立っていた心が穏やかさを取り戻す。もう一度、束の間取り戻した平安に心を委ねて一から思考を構築する事にした。
 そっと目を閉じて、頭の中の白いキャンバスにキーとなる言葉を書き込む。そこから思いつくままに単語を散りばめ、関連付けの矢印やサークルを次々と描いていく。こういった思考ゲームは本来紙やホワイトボード上で行うものなのだけれど、マデリーンは自分自身の頭だけを使う、このスタイルが好きだった。理由は単純。文字を書くための時間が思考との間にタイムラグを生み出してしまい、せっかく浮かびあがってきた何かを掴み損ねる事が多かったからだ。
――タイムラグ――
 ぱちりと目を開き、じっと部屋の奥隅に視線を固定する。
 ぽんと飛び出してきたもう一つの重要な言葉を頭の中で幾重もの円で囲む。そしてすっかり灰色に染まってしまったキャンバスの真ん中に大きく書いたフレーズと、太い線で結びつける。
 二つに増えた主題から、更に連想を広げる。今度は先ほどまでの漠然としたものとは違い、はっきりと現実に即した単語がいくつも浮かび上がってくる。
 我知らず止めてしまっていた呼吸を再開し、マデリーンは眇めた目で真白な壁を睨みつける。まだ足りないものがある。だけど探していた答えは、その外殻は、掴めたような気がする。ああ、だけど……
「……もしそうなら、私はどうすればいいのかしら」
 血の気の薄れた唇から零れ落ちたその言葉は、彼女を取り巻く布の膜へと柔らかに吸収された。