かぶ

真実の目覚める時 - 57

 今日の日のためにとランドルフが買ってくれたドレスは、カラーとウエストの止め具を外すだけでふわりと床に滑り落ちた。優雅なドレープを描いてわだかまるそれを拾い上げ、ひとまずハンガーに吊るす。
 髪はコームを差し替える必要があるだけで他に不便はない。けれど、パーティ用のメイクはどうにも不慣れなせいか居心地が悪く、せっかく腕を振るってくれたメイクアップ・アーティストには心の中で謝りながら、マデリーンは一度化粧を全て落とした。それから手早くスキンケアをして、いつもの手順で最低限のメイクを施す。
 着替えとしてクローゼットから引っ張り出したのは、首元のゆったりとしたパールピンクのモヘアセーターとチャコールグレーのサブリナパンツだ。男性二人が、たとえ着崩しているとはいえフォーマルのままだから、もう少しきちんとした格好がいいかもしれないとも考えたが、あまり堅苦しい格好をしていては、この先のけっして明るいとはいえそうにない話題が終わるまでに息が詰まってしうと感じたからだ。
 手早く服を着替え、足元もハイヒールからバンドストラップのイージーシューズに替える。意味もなく全身を鏡に映しておかしなところがないかと二度見直し、それからようやくリビングへと向かった。
「ごめんなさい、待たせてしまったわね」
 すっかりリビングのソファに腰を落ち着けているランドルフとケネスへと足早に近づきながら、謝罪の言葉を口にする。足音で気づいていたのだろう、彼女がダイニングに入った時にはもうこちらを向いていたランドルフは、手にしていたグラスをテーブルに戻すと妻を迎えるために立ち上がった。
「これくらい、全然待った内には入らないさ。古来より、女性の身支度に時間がかかるのは常識だしね」
「あら、そこまで待たせたつもりはなかったのだけれど」
「君がどんな装いで現れるのかを想像している間に時間が過ぎていたからね。実感としてはほんの数秒ぐらいなものさ。ああ、それにしても、やっぱり君は普段の姿でも俺の心を容易く奪ってしまうんだな」
 腕の中に捕らえたマデリーンを優しく抱き寄せ、その滑らかな額に唇を落とす。
「もうドルフったら。そろそろそういったセリフも飽きてきたんじゃない?」
「飽きるもんか。何しろ俺は、これまでの十年分を取り戻した上で、これからの未来の分も君への愛情をきちんと伝えていくつもりなんだからね」
「あなたの志は素晴らしいと思うけれど、時と場合を考えて欲しいわ。ほら、ケネスも呆れてるじゃない」
 肩越しに振り返れば、マデリーンの言葉どおり、付き合いきれないという顔をした青年がこちらを見ている。ふん、と鼻を鳴らし、ランドルフはしかつめらしい顔で呟いた。
「確かに、人の目があっては君に集中してもいられないな。仕方がない。まずは用事を済ませよう」
 傲慢なセリフを口にしながら妻をソファへと促し、ランドルフは先ほどと同じ場所に腰を下ろす。すぐ隣に座ったマデリーンの手を取り上げると、しっかりと握って自分の腿へと乗せた。
「何か飲み物を作りましょうか?」
「ありがとう。でも、そのミネラルウォーターの残りさえあれば十分よ。ほら、会場でたくさんグラスを空けてしまったから」
 ケネスの言葉に首を振り、空いている手でボトルを引き寄せる。冷蔵庫から出されてしばらく経っているのだろうそれは、口に含むとすこしぬるく感じた。
「……それじゃあ、そろそろ始めようか」
 マデリーンがボトルをテーブルに戻すのを待ち、ランドルフは口を開く。
「遠まわしに、なんてのは俺の主義じゃないからな。早速だが、ケネス。お前、誰と会っていたんだ?」
 てっきり話の核心から突いてこられるのかと思っていたケネスは、心持ち肩の力を抜いた。
「そこからですか。まあいいですけど。――僕があそこで話をしていた相手はブルネイ、アリシア・ブルネイです」
「それは何のために?」
「牽制です。これ以上あなた方二人の邪魔をしないように、ってね。何しろ彼女、あからさまに攻撃的な空気を纏ってあなた方の後を追いかけていましたから」
「だが、それにしては中々緊迫した会話を繰り広げていたらしいな」
 この言葉に驚いたのはマデリーンだ。思わず夫の顔を見上げた彼女に、彼はそうじゃないと首を振った。
「俺は本当に、君に声を掛ける直前まであの場にはいなかった。ただ、フォルトナー議員が会話を小耳に挟んだらしくてね。まずいんじゃないかと連絡してくれたんだ」
「じゃあ、私を探しにきたというのは……」
「嘘だ。だが、あの場ではああ言うべきだと思ってね」
 嘘を吐いてすまないと神妙に告げる夫に、気にしていないと微笑みと握る手の強さで告げる。無言の許しは正確に伝わり、ランドルフはよかった、と小さく呟いた。
「だが、君はあそこにどれくらいいたんだ? 俺と別れてから十分と経っていなかったはずだが……?」
 質問の矛先が自分へと向いてしまった事で、マデリーンは内心、いらない薮を突付いてしまったと苦く息を吐く。しかし今更ごまかした所で状況が変わるはずもない。ゆっくりと息を吐き出すと、彼女は素直に頷いた。
「そうね、私も時計は見ていないけれど、それくらいだと思うわ。ロビーに出てどちらに行こうかしらと考えかけたところでケネスの声に気づいたから」
「僕の、ですか?」
「ええ。出歯亀なんてはしたないと思ったのだけれど……彼女の声も、聞こえてきたから」
 最後の言葉を付け足すには、ほんの少し勇気がいった。そして彼女のこの言葉に、ランドルフははっきりと驚きを見せた。
「彼女の? つまり君は、ケネスが話していたのがミズ・ブルネイだと気づいていたのか?」
「そうよ」
「だが、なぜ? 君は彼女とは今日が初対面のはずだろう?」
「……ええ、そうね」
 ついと視線を逸らしながらも頷くマデリーンに、ランドルフがいぶかしげな視線を投げる。彼の中で無数の疑問が渦を巻いているだろうと知りながらも、何をどう告げればいいのかがわからず、マデリーンはただ無言で俯いてしまう。そんな彼女に代わって答えを提示したのはケネスだった。
「――彼女がブルネイの声を知っていたのは、ブルネイが彼女に電話をかけていたからです」
 はっとして顔を上げると、ケネスは穏やか過ぎるほどに穏やかな表情で上司夫妻を見つめていた。
「先に言っておきますが、番号を教えたのは僕じゃありません。彼女たちは、いつでもどうにかして自分の求める情報を手に入れるんです。実際、秘書室の番号だって、手に入れ放題でしょう?」
「待て、彼女たちとはどういう意味だ?」
「あなたの愛人、もしくは妻の後釜になりたがっていた女性たちですよ。先日も言ったじゃないですか。あなたの断り文句は逆に彼女たちを煽る効果しか持ち得なかったって。『妻がいるから』なんて言葉で断り続けられたりしたら、無駄に前向きな連中は、『だったらその妻を排除すれば』って考えを持つんです」
「で、その排除する手段が電話だった、と?」
「はい。もしかしたら、手紙なんて手段を使っていた人もいるかもしれませんが、僕の知る限り、ブルネイははっきりとした証拠が残る手段は使っていないはずだ。何しろ彼女が得意げに話していましたから」
 マデリーンは思わず息を呑み、無意識に夫の手を強く握り締めていた。その変化に気づき、ケネスはやはり静かな空気を纏ったまま、ゆっくりと頷いた。
「そうですよ、マデリーン。僕は、知っていたんです。あなたが彼女たちの標的になっている事も、それを一人で耐え抜こうとしていた事も」
「どう、して……」
 零れ落ちた言葉に、青年は淡々と答えを返す。
「知ったのは、ブルネイが得々と教えてくれたからですよ。どうも彼女、ランドについての情報を、彼に群がっていた女性たちから手に入れていたらしい。その時に、彼女らがそれまであなたに対して仕掛けていた攻撃の手段も入手したようです」
「違うわ、そうじゃなくて……」
「なぜ止めなかったのか、ですか? それともランドに伝えなかったのか、ですか?」
「……ええ」
 頷く彼女に、彼は苦い息を吐き出すと、短く告げた。
「僕自身が、その結末を――あなたがランドから離れる事を、ずっと望んでいたからです」
 すうっとマデリーンの顔から血の気が失せていくのがまざまざと見て取れた。けれどそこに驚きの色は薄く、いつの時点からなのかまでは判断できないものの、彼女が自分の気持ちを知っていたのだとケネスは気づいた。
「……僕の気持ちに、気づいていたんですか?」
「いいえ。さっきあなたたちが話しているのを聞いて……そこで初めて」
「そう、ですか」
 他に返せる言葉がなかった。どんな苦しい状況にあっても、夫への愛情を揺らがせた事のないマデリーンだ。彼女自身がランドルフへの思いを断ち切ったのならともかく、今更弟のように思っていた青年が自分へと恋情を向けていたと知ったところで、そう簡単に心変わりをするはずもない。初めからわかりきっていた結末だ。
「僕があなたに恋しているのは事実ですが、今はもう、あなたをランドから無理やり奪おうとは思っていません。生木を裂くような真似をして、せっかく見られるようになったあなたの幸せな笑顔を見れなくなる方が嫌ですからね」
「その笑顔を曇らせる一端を担っておいて、よく言えたものだな」
 唸り声かと思う程の低い声に、ケネスとマデリーンはランドルフへはっと視線を向けた。僅かに顔をしかめるだけに留められているが、その茶色の目は爛々と燃え、纏う空気は噴出しようとする怒りを抑え込んでいるためぴんと張り詰めていた。
「お前がマデリーンを姉代わり以上に想っているのは知っていたが、よくもそんな――」
 ケネスからすれば見当違いとしか言いようのない怒りをランドルフから向けられた瞬間、これまで溜め込んでいた鬱憤が一気にあふれ出した。
「そうさせたのはあなたでしょう。責任転嫁していると言いたいなら言えばいい。だけどもし、あなたがもっと前にマデリーンの気持ちに気づいていれば、でなくてもせめて、彼女がどんな状況にあるのかを知っていれば、僕がこんな事をする必要はなかったんだ。はっきりと確認したわけじゃないけれど、ランディでさえマデリーンに対する嫌がらせに気づいていた節がある。子供という立場で母親を守ろうとしているのが僕にもわかりましたよ。だけど、あなたは? マデリーンが嫌がらせに苦しめられていた時、ランディが彼女を守るべく奮闘していた時、あなたは何をしていたんですか!?」
「――そこまでよ、ケネス。それ以上は言わないで」
 青年の激昂を、マデリーンの静かな声が抑えた。
「ですがマデリーン……」
「駄目よ。あなたが私を思って言ってくれているのはわかるわ。だけどドルフを責めないで」
「どうして……どうしてあなたはいつもそう……」
 やりきれないと言いたげに頭を振る青年に、マデリーンはごめんなさい、と小さく告げる。それからボトルに残っていた水を一気に咽喉の奥へと流し込み、大きく息を吐き出した。
「彼は、気づいていたわ。いえ、気づきかけていた、というのが正しいかしら。だけどその芽を、私がことごとく潰していたの」
「マディ……」
 戸惑いの表情を向ける夫を真正面から見つめ、マデリーンはともすれば挫けそうになる心を奮い立たせる。
「あなたにもごめんなさい、ドルフ。そうよ。一番の嘘吐きは私なの。あなたの愛情を信じる事ができなくて、中傷を受けている事すら伝えられなかった。もしも彼女たちのうちの誰かが、あなたが本当に心を傾けている相手だったらと思うと怖くて。……中傷のはずの言葉が真実なのだと言われたら? 本当に愛しているのは彼女だと告げられたりしたら――私はきっと、心を壊していたわ。だから何もないのだと、あなたの気のせいだと返すしかできなかった」
 自然と下がってしまう視界に、しっかりと握られている手が映る。その視線の先にあるものに気づいたのだろうか。夫が強く手を握り直してくれた事に勇気づけられ、マデリーンはゆっくりと言葉を続けた。