かぶ

真実の目覚める時 - 58

「アマデオが気づいたのは本当に最近よ。あの子はすぐにでもあなたに告げるべきだって言ったわ。きっと父さんがすぐに解決してくれるって。だけど私がそれを許さなかったの。お願いだから言わないでって懇願さえしたわ。中々納得してくれなかったけれど、一度腹を決めたら今度は少しでも私を守ろうとしてくれて……。日中、家から出ていれば電話の音を聞かなくていいとか、電話連絡は家の電話じゃなくて携帯電話を使えばいいとか、色々考えてはアドバイスをしてくれていたけれど、あの子はいつも、あなたに全部話すべきだって繰り返していたわ」
「なるほど。だからあいつはあんなにも必死に、君に携帯電話を持たせようとしていたのか」
「ええ」
 短く返しながらも、夫の声にありありと表れている複雑な心境を慮り、マデリーンは締め付けられるような心苦しさを覚える。考えてみれば、自分の臆病さが全ての悪因だったようにさえ思えてくる。もしもランドルフの愛情をもっと早くに受け入れていれば。他の女性を選ぶと言われる可能性があったとしても、自分の苦境を告げていれば。自分で言う事ができなかったとしても、アマデオから伝えてもらっていれば。
 そうすれば、こんな事にはならなかったのかもしれない。
 自分自身のあまりの不甲斐なさに唇を噛み締めた時、不意にすぐ傍から大きなため息が聞こえてきた。
「……馬鹿だな」
「ごめんなさい……」
「そうじゃない。確かに君も馬鹿だが、君だけじゃない。俺も、ジュニアも、ケネスもだ」
 思いがけず優しい声に、マデリーンははっと顔を上げた。てっきり渋い顔をしているだろうと思っていたのに、ランドルフはいつものように優しい瞳で彼女を見つめていた。
「君は俺をもっと信じるべきだった。俺は君に遠慮せずもっと踏み込むべきだった。ジュニアは君の言葉を無視してでも俺に全てを打ち明けるべきだった。それからケネスは……」
 ちらりと青年に視線をやったランドルフが、にやりと性質の悪い笑みを浮かべる。
「お前はさっさとマディに告白をして振られるなり、俺に全てを告げて殴られるなりしておくべきだったんだ」
「なんですか、そのあからさまな扱いの酷さは」
「今、この場で殴り飛ばされないだけマシだと思え。お前が漏洩した情報がマデリーンを苦しめる事に使われていたんだぞ。しかもその理由が俺からマディを掠めとるためだ? 正直、お前以外の人間が同じ理論を口にしていたなら、そいつは頭がおかしいのだろうと、速攻で結論付けていたね」
 ふん、と鼻息も荒く言い切って、ランドルフは改めてケネスを見据えた。
「先日の夜、お前は俺がマディに対して不誠実である事に憤っていたと言ったな。確かに端から見ればそうだっただろうし、マディに惚れた男の目で見れば憎んでも憎みきれない存在だっただろう。だが、それなら矛先は、マデリーンではなく俺に向けられるべきだった。どんな理由があろうとも、惚れた女を苦しめるような手段だけは、絶対に取るべきじゃなかった」
「……一時的に傷つける羽目になったとしても、マデリーンがあなたから離れると決意してくれるなら、その分は後からいくらでも補えると思っていたんです」
「それはまた傲慢なセオリーだな。第一冷静になって考えてみろ。実際にはそうならなかったが、もし本当にマデリーンが嫌がらせに屈して俺から離れていたとして、どうして自分を傍に置くと思ったんだ? お前の存在は俺に直結してるんだ。そのお前がマデリーンの傍にいれば、傷心を癒すどころか抉るだけだろうが」
 冷静な指摘に、ケネスは小さく肩を竦めて見せる。
「だけどランド。世間では、傷ついている時に親身になってくれた相手と恋に落ちる可能性はかなり高いとされているでしょう? 僕はこれまで十年近く報われない片思いをしていたんです。チャンスが巡ってきたのなら、更にもう数年かけるくらい、なんでもないと思ってました」
「実に勇ましいセリフだが、ならなぜ、今更になって俺たちの味方をする?」
「嫌だな。わかりきった事じゃないですか。あなたがマデリーンを愛していると表明したからですよ」
 必ず来るだろうと思っていた問いかけがようやく投げられ、ケネスはどこまでも明朗に返す。一瞬だけマデリーンへと視線を向けた彼は、ランドルフをまっすぐに見返しつつ口を開いた。
「僕にとっての最優先事項は、マデリーンが幸せでいる事なんです。彼女にとって最も望ましい幸福の形は、あなたへ向ける愛情が正しく返される事だった。それが叶わないと思っていたから苦しむ羽目になっていたんです。でも、今は違う。最大の望みがようやく叶って、まるで世界中を明るく照らし出すんじゃないかってくらいに幸せそうな笑顔を見せられて、どうしてあなたから奪い取ろうなんて思えます?」
「奪い取って俺にできるより幸せにしてやろうとは思わないのか?」
「以前のあなたならともかく、今のあなたが相手では、絶対無理だとわかりますから。僕はこれでも、身の程ってものを十分に知っているんです」
 からかいと挑発の混じったランドルフの言葉に、ケネスはあっさりと返す。
「あの夜、あなたがずっとマデリーンを愛していたと言った時点で、僕はこれまでの片思いに終止符を打つ決意をしたんです。まあ、ブルネイの言葉が何から何まで嘘だったとわかった事もありますしね」
「――それだ。訊きたかったんだが、彼女はお前にどんな毒を吹き込んでいたんだ?」
 ずいと身を乗り出すランドルフが纏う気配は、まるで獲物を目の前にした肉食動物のそれだ。思わず気おされつつも、青年は何とか言葉をひねり出す。
「先日話した内容とほとんど変わりませんよ」
「具体的には?」
「それを言うんですか? この場で?」
 一瞬マデリーンへと気遣わしげに向けられた視線から、それを耳にする事で、彼女が傷つきかねない内容なのだと気づく。思わず顔をしかめ、それならばと言いかけたところで、マデリーンが口を開いた。
「……ランドルフが愛しているのは自分だ。人目に付かないように細心の注意を払いながら愛を育んできた。できるなら一緒になりたいとさえ言ってくれているけれど、息子を産んだ妻をないがしろにする事はできないから公共の場では二人きりで会う事もままならない。周囲の目もあるから、ランドルフから妻に離縁を告げる事はできないが、妻の方が彼から離れるのならば追いかける事もない。――大体こんなところじゃないかしら」
 自らの言葉に痛みを覚えながらも何とか言ってのける。ほんの少しの自嘲を含んだ表情を浮かべながら視線を上げると、男たちは二人して、驚愕を顔に貼り付けていた。
「え、と……ドルフ? ケネス? どうしてそんな顔をしているの?」
「――そんな事を、言われていたのか?」
 戸惑いの声を上げたマデリーンに、どこまでも平坦な声でランドルフが問う。その奇妙な静けさに居心地の悪さを覚えながらも、彼女は小さく肩を竦めた。
「言われた言葉もあるし、暗喩からの想像もあるわ。ミズ・ブルネイの場合は、もっと直截的にあなたとの関係がどんなものであるかを得々と語る事が多かったかしら。まあ、今はその全てが嘘だったって事もわかっているけれど」
「ああ、そういう事か。つまり彼女は、ケネスから手に入れた情報使って作り上げた法螺話を君に吹き込んでいたんだな?」
 再び温度の下がった夫の声に、マデリーンは困ったような顔であいまいに頷いた。
「多分だけれど、そうでなくては理屈に合わない事も何度かあったわ」
「理屈に合わない事?」
「ええ……たとえばあなたのすぐ傍にいる人間でなければ知るはずのないちょっとした予定の変更だとか、些細な空き時間について、実に詳しく知っていたから。おかげで語られる言葉の一つ一つが、嫌になるくらい現実味を帯びているように聞こえたの」
 悲しげな顔になる妻の頬にそっと指先で触れ、慰めるようなキスを目元に落とす。特に抗う事もなく甘んじてそれを受け止めて、マデリーンは更に続けた。
「私ね、もしもあんな風に電話をかけてきた人たちが、本当にあなたを愛していたなら、きっともっと苦しんで、傷ついていたと思うわ。だけどそのうちの誰一人として、あなたに恋しているように思える人はいなかった。もしかしたらいたのかもしれないけれど、そうは聞こえなかった。どの女性も、あなたの事を、あなたの妻の座というものを、何か素晴らしい賞品のように語るばかりで。――だから余計に悔しかった。あなたをこんなにも愛している私がどうして追い払われなければならないのかって。そうね。多分これまで我慢に我慢を重ねてきたのは、その意地があったからかもしれないわ」