かぶ

真実の目覚める時 - 64

 当然の事だが、国内でも最高峰を誇る法律家によって作られた書類だ。たとえ彼女がこの場での署名を拒否し、自身の弁護士と協議した上で判断すると言い出したとしても、内容を大きく変更させる事は不可能だろう。
 ざっと書面に目を通したランドルフは満足げな笑みを口元に浮かべると、取り出した厚みのある紙の束をアリシアへと差し出した。
「これは今回の件でこちらが君を訴えない代わりに、君は現在および将来においてモーガンヒルや私の家族に対して不当な不利益を生じさせかねない類の行動を起こさないと誓約する書類だ。またこちらは、現行の案件から君を外す旨を記した解雇通知書になる。すでに出来上がっている図案について、変更を加えられないものもいくつかあるので、それらについては正当な代金で権利を買い取らせていただく」
「っ――そんなの詐欺だわ! そんな事されたら、私の名前が……!」
「ああ、そうだな。現在君が内装を担当している店は四店舗で、すでにデザインが仕上がっているものは三件。その内今更変更の効かないものは二件だ。この二件分について、君のデザインに対する代償を支払う。もちろん、君は自らの権利を主張する事はできなくなるが、ある程度案の固まっている残りの店舗において生じる手戻りや、竣工予定の延長に伴う様々な弊害、ああ、それから本来君に対して発注するはずだったプロジェクトのために新たなインテリア・デザイナーを探す苦労を思えば、“輝かしい”経歴が一つ二つ減るくらい大した事ではないだろう?」
 皮肉を込めながらもランドルフは冷静に指摘する。だがそれは、アリシアの神経を逆撫でするだけの効果しか持たない。
「だけど私はこれまでモーガンヒルに尽くしてきたわ! 私が手がけた店だからこそ評判になったのよ? いくつものベスト・インテリア賞を受賞できたのだって、私の功績だわ」
「それは、実に面白い意見だな、アリシア・ブルネイ」
 アリシアの反駁に対するランドルフの反応は、どこまでも冷ややかだった。
「君の理論が世間に通じるのなら、会社の成長に貢献した社員なら、会社の金に着服しようが背信行為を行おうが罰せられない事になる。ああ、この例えではスケールが大きすぎたかな。では言い換えようか。君は、君のために尽くしてくれた両親が君の財産を着服しても文句は言わないかい? 親友と思っていた相手に恋人を寝取られてもそんな二人を祝福するのか? もしイエスと言えるのなら、私は君を心の底から賞賛してもいい」
 嘲りの色を乗せた声は、アリシアから言葉を完全に奪った。
 彼の口調はまるで欠片ほどの作為も含まれていないような淡々としたものだったが、アリシアにはそうでない事がはっきりとわかっていた。当然だろう。今彼が口にしたのは、彼女の人生で現実に起きた事柄だった。どちらのケースでも被害者は彼女自身で、その瞬間はショックを受け傷つきはしたものの、冷静さを取り戻すと同時に彼女は果たすべき報復を果たした。それも相応にではなく、過分なまでの激しさで。
 他人を蹴落としたところで良心の呵責を覚える事はまずないが、自分自身が理不尽な扱いを受ける事は耐えられない。今だってこの状況は、これっぽっちも楽しめない。刻一刻と屈辱は増し、目の前にいる男性への感情が、憧れから憎悪へとどす黒く色を変えていく。だが、今のアリシアにもはっきりとわかっていた。
 ランドルフ・A・モーガンヒルは、彼女が相手取ったところで到底勝てる見込みのない相手だ。
 それは強大なバックグラウンドだけが理由ではない。仮にモーガンヒル・グループという後ろ盾を持たなかったとしても、彼自身の才能は、性質は、変わるはずがない。今回は絶大な権力が迅速さに拍車をかけたが、一個人として彼が行動を起こしていたとしても、時間はかかれど同等の結果を出してきただろう。
「……ひきょう、よ」
 震える唇から零れ落ちた言葉に、ランドルフの目が冷たい光を放つ。しかし、何も口には出さなかった。
 ――口には出さずとも、その表情が彼の言わんとする全てを表していた。
「ミズ・ブルネイ。これが先ほど言った書類だ。できればこの場でサインしてほしいが、君は内容を確認しないまま書類に名前を書くような人物ではないようだ。この書類一式は、君に預けよう。自分の弁護士と書面を確認した上で、一週間以内に返送してくれ。内容について反論があれば、同封している担当弁護士の連絡先に連絡した上で協議してくれ。――それから、これはないとは思うが、その書類を無視するような真似はやめておいた方がいいと思うよ」
 あからさまな嘲りにぴくりとこめかみを震わせ、アリシアは張れるだけの虚勢を張ってランドルフを睨み返す。
「あら、もし私がこの書類をうっかりシュレッダーにかけてしまったりしたら、何が起きるのかしら?」
「実のところ、特には何も起きない。まあ、これも表面的には、の話だが」
 含みを持たせた言葉に、彼女は無言でその先を促す。
「表向きのプロジェクト進行は変わらない。ただ、実質的に君は進行から排除される。一応弁護士には仕事をしろと発破をかけるが、無理強いはしない。なにしろその誓約書に君が署名しない限り、私には法的手段に訴える権利が残されるのだからね」
 だからそのまま白を通してくれてもかまわないよ。
 いっそ優しげにそう付け加えて、ランドルフは机上に広げていた紙を手早くまとめて別の封筒にしまう。それを先ほどのマニラ封筒と重ね、改めてアリシアへと差し出した。
「君の調査報告書だが、これも一緒に君に渡しておこう。別に脅すつもりじゃない。ただそんなものを手元においておきたくないだけだ。君だって、どうせ始末されるとわかっているなら、自分の手でしたいだろう?」
「……そんな事を言っても、どうせ複製があるのでしょう?」
「それは当然だ。この調査書そのものはなかったとしても、調査結果自体は残っているからね。まったく同じとはいかないだろうが、同内容のものならいくらでも作れる。だが、私は幾度もそんなものを作るような真似は可能な限りしたくないんだ。バフェットも言っているが、それを知った身内や友人が誇りに思えないような行動は、人道的に間違った行動であり、行うべきじゃないと信じている。正直なところ、今のように君を追い詰める行為でさえ、妻が知れば眉をひそめかねない。だが、私にこうさせたのは他の誰でもない君だ。君が愚かな真似をしでかしてさえいなければ、今の状況は起こりえなかった。それぐらいは君にも理解できるはずだね?」
 つまるところ、今の状況は自業自得、かつ因果応報なのだと、ランドルフは言葉の外で告げる。それに対して返せる言葉を、アリシアは一つとして持たなかった。
 重苦しい沈黙が部屋に落ちる。防音がなされ、また高層階に位置する部屋には、生活音も交通による騒音も届かない。沈黙は、誰かが破らない限り横たわり続ける。
「――社長、あと十五分でEU支部とのミーティング時間です」
 沈黙と緊張を解き放ったのは、まるで影のように控え続けていたケネスの声だった。秘書の言葉に卓上のデジタル時計へと視線を向け、一つ頷く。
「ミズ・ブルネイ。申し訳ないが、次の予定が迫っているようだ。エレベーターホールまでケネスに送らせよう」
 辞去を促すその言葉に、アリシアは一つ苦い息を吐いて立ち上がり、当然のように差し出された大判の封筒を受け取った。
「急かしはしないが、早い対応を期待しているよ」
「……」
 傲慢な言葉を吐く男に憎悪をこめた視線を投げつける。しかし彼はすでにデスク上に重ねられていたフォルダの中身へと意識を向けており、彼女がそこにいる事さえ忘れてしまったように見えた。
 ここまであからさまに存在を無視されるなんて信じられなかった。
 いや、違う。彼の妻の代わりとして、パーティでエスコートされていた時にも、同じような扱いを受けていた。
 腕を貸し、並んで歩きはしていても、彼の意識が正しく彼女に向けられていた事は、一度としてなかった。会話をしようと注意を引けばそれなりに言葉の応酬はできたが、それはあくまで『話しかけられたから答える』という程度のもので、ランドルフが自らアリシアに言葉をかけた事はない。顔を合わせた時でさえ、先に口を開くのはアリシアだった。
 呼びかけて、呼び止めて、そうしてようやく認識される。その際、隣にエスコートする相手がいなければ、ねだられるがままに腕を差し出す。ただ、それだけ。それがアリシアであろうと他の女性であろうと、ランドルフにとっては何も違いはなかったのだ。
 悔しさのあまり、分厚い封筒を持つ手に力が篭る。しかし上質の紙でできたそれらは、わずかにも影響を受けはしなかった。
 それはさながら、数分前までの持ち主の性質をそのまま反映しているようにも思えた。



 弁護士からの連絡は、想定していたより早かった。
 どうやらアリシアはランドルフに立ち向かうより頭を垂れる事で、無駄な労力を使わない道を選んだらしい。
「これにて一件落着、か」
「落着、したんでしょうかね」
 満足げに呟く上司へと、青年は眉を顰めつつ懸念を告げる。
「唯々諾々と従ったように見せて、何か反撃を企てているかもしれませんよ?」
「その時はその時だ。いらない手出しをしてくるのなら、こちらは相応に対処する。俺としては、意味もなく騒ぎ立てて世間に自分の愚かさを知らしめたり、金や時間を無駄に費やすほど頭の悪い女性だとは思わないが」
 しでかした事は許せないし、賢い行動だったなどとは間違っても言えない。だが、仕事の場やパーティで会った彼女は中々の頭の回転を見せていたように記憶している。
 何より、あの向上心の高い女性が、これっぽっちも自分自身の得にはならない――それどころかむしろ今後のキャリアを考えれば損としかならないような事を、傷つけられたプライドのためだけにするようにも思えない。
「……マデリーンが言ってましたけど、あなたは本当に、“才能のある若い人”が好きなんですね。そういう態度だから彼女にもいいようにあしらわれたんですよ」
「才能のある人間を応援したいと思うのは人として当然だろう? 第一、俺が目をかけている“才能のある若い人”の筆頭が何を言ってるんだ。文句があるなら、もう一度新人研修からやり直すか?」
 からかうような視線を向けてくる上司に、ケネスは深々と息を吐く。
「来月からヨーロッパでこき使われるってだけでもう十分です。まったく……なんだかんだ言って、あなたが僕をあっちにやるのは、自分が海を越えて出張したくないからってのが本音なんじゃないんですか?」
「本音も何も、それ以外にお前を向こうにやる理由があるか?」
「んなっ!? ちょ、まさか、本当にそうなんですか!?」
 かまかけに素で返されて、ケネスは一瞬本気で慌てた顔になる。だが、にやにやと笑いながら自分を見る年長の友人は、そうだとも違うとも言わない。どうやら百パーセントとはいかないまでも、かなりの割合で真実を突いているらしいと、ケネスはため息とともに結論付けた。
「まったく、あなたときたら……その内マデリーンに、あなたにどれだけ僕が虐げられているのか、洗いざらいぶちまけますよ」
「別に、そうしたいならすればいい。たとえマデリーンに窘められたとしても、俺は教育方針を変えるつもりはないからな」
「教育方針、ですか?」
 ランドルフの口から聞かされるとは想像もしなかった言葉を、ケネスはどこか疲れたように繰り返す。ああ、と頷いて、男はあっさりと告げた。
「鉄は熱いうちに打て、獅子は我が子を千尋の谷に突き落とす、経験は百冊の書にも勝る教師である、可愛い子には旅させよ、成せば成る、限界を超えたところに真の達成はある……などなど、その他にも色々あるが、どれでも好きなのを選んでくれてかまわない」
「だからなんでどれもこれもそんなスパルタなんですか……。お願いですから、その調子でアレックスをしごくのはやめてくださいよ。彼、今のままでも十分すぎるほどあなたを怖がってるんですから」
 ケネスの後釜には、現在秘書室で彼のアシスタントをしているアレックスが据えられる事になった。本人は必死で固辞していたが、ランドルフの仕事内容についてケネス並に理解しているのはアレックスだけだったし、まったくもって知らない相手を新たに雇い入れるよりは、ある程度能力に理解のある人間を昇格させる方がよほど楽だ。
 問題は、アレックスの人見知りが人並み以上に激しく、何事にもパワフルで豪快なランドルフに圧倒されっぱなしな点だ。
 正式な辞令が出るのはまだ先だが、内々に決定事項を伝えられた時のアレックスは、いっそ哀れに思うほど顔を蒼白にさせていた。だがすぐに気を取り直すと、やれるだけやってみますと決意を感じさせる声で告げたのだ。
 その言葉が嘘でない証拠に、まだおどおどとした態度に変化はないものの、ケネスの業務の一部を引き受けてランドルフのスケジュール管理や電話の取次ぎなどから少しでも新たな上司に慣れるべく努力している。
「あいつはな……他人を怖がりさえしなければかなり使えるようになると思うのに。この間の資料も、下手をするとお前より完璧に仕上げていたぞ」
「だから言ってるじゃないですか。アレックスは人見知りさえなければとても優秀なんですって」
 まるで自分自身が褒められたかのように自慢げなケネスに、ランドルフは低く笑う。
「どうやら“才能のある若い人”が好きなのは、俺だけじゃないようだな」
「当たり前じゃないですか。僕はあなたの背中をずっと追いかけてきたんですよ。その僕が、あなたと同じ方針を持たないはずがないでしょう」
 ほんの僅かな迷いもなく告げたケネスに、ランドルフは心の底からの笑みを浮かべた。