かぶ

真実の目覚める時 - 65

「……なんて事があってね。まったく、あいつも言うようになったもんだ」
 その日のケネスとのやり取りをマデリーンに聞かせながら、ランドルフはウイスキーのグラスを傾ける。シャワーを浴びてさっぱりとした顔のランドルフは、広いベッドのヘッドボードにゆったりと背中を預け、乾かしたばかりの髪を丁寧に梳っている妻のすっと伸びた背中を見つめていた。柔らかなパイル地の色とサイズだけが違うバスローブに隠されている素肌を思うだけで、自然と心が逸ってくる。
 言葉だけを聞けば、不遜な部下の態度が気に入らないように思えるが、鏡越しに窺えるその表情は真逆の事を言っている。どうにも素直じゃない夫にそっと笑みを零しながら、櫛をドレッサーに戻したマデリーンはベッドへと向かいながら柔らかに返した。
「だけどあなた、嬉しいのでしょう?」
「おや、俺は嬉しそうに見えるかい?」
「ええ、それはもう。……思わず少し、妬けちゃうくらいに、ね」
 きらりと瞳を輝かせるマデリーンに明るく笑い声を上げ、ランドルフは手の中のグラスをサイドテーブルに戻す。そのまま空いた手で妻の手首を捕まえ、次の瞬間、彼女が抵抗をする暇すら与えず、腕の中へと引き込んだ。
 声を上げる事もできずに自分の身体の上へと倒れこみ、ショックから硬直している妻の額に男はそっと唇を寄せ、うっとりと笑みを浮かべながら囁くように告げる。
「あんな奴に妬く必要はないだろう。俺が愛しているのは君だ。ジュニアの事も、ケネスの事も、両親も、君の家族もみんな大切には思っているが、俺を本当の意味で幸せにできるのはこの世でただ一人、君だけなんだ」
「……私も、同じよ。こうしてあなたと寄り添っているだけで、どうしようもなく幸せになれるの。以前はいずれ失うかもしれないと恐れていたけれど、もうそんな懸念もないし。今はただ……あなたが愛しい」
「マディ……」
 なんだか言いたい事が先に言われてしまったような気がする。嬉しくはあるが少しばかり口惜しいと胸の中で呟いて、ランドルフは妻の唇を甘く奪った。驚きに身体を硬くさせたのはほんの僅かな間だけで、マデリーンは素直に夫へと腕を回し、与えられるキスの雨を微笑みながら甘受する。誘うような舌先が触れた時には、ためらう事なく唇を開く事でその先を促した。
 唇や唾液に味などあるはずがないのに、どうしてこんなに甘く感じるのだろう。その甘さは鼻の奥から脳幹へと奇妙な痺れを走らせ、頭の中心で理性と呼ばれるべきものを蕩かせる。熱く溶けた脳は脳内麻薬を次から次へと分泌し、冷める事のない熱を伴って全身へと送り出す。
 妻の背中に回した指先が、夫の腕に乗せた手が、無意識の内に相手の形を確かめようと動きはじめる。貪欲な唇は相手の唇だけでは足りないと、頬や目、耳、首筋と、味わうべき肌を求めて彷徨いだす。布越しでは満足できなくなった手が、指が、確かな感触が欲しいと忙しなく互いの纏う邪魔な布を剥ぎ取り、湯上りだからというだけでなくしっとりと溶け合う肌の心地よさに、図らずも二人は吐息を重ねた。
 急速に熱を帯び速度を増す呼吸の音と、堪え切れず漏れる喘ぎが空間を匂やかに染め上げる。
 他の誰より――きっと自分自身のそれよりも詳しく知る身体だからこそ、考えずとも相手に悦びを与えるべく身体が動く。相手がどうしたいと思っているのか、自分にどうされたいと思っているのか。自分がどうしたいのか、相手にどうされたいのか。目で、言葉で確かめずとも、触れ合った部分から伝わる慄きが、さりげなく押し付けられる肌が、名を呼ぶ声が、余すところなく伝えてくれる。
 ボディソープの香りに混じる本来の肌の匂いを楽しみながら、汗のなかに湯の気配を僅かに残す肌をざらりと舐め上げる。ふるりと震える乳房の先端を口に含み、舌で愛撫を加えれば、官能の波に呑まれたマデリーンが甘美な啼き声を上げる。反射的に逸らした背はそのままに、もっと欲しいのだと髪をかき混ぜ引き寄せる妻の期待にに応えない理由など、ランドルフは一つとして持ち合わせていない。
 つんと硬く熟した隠微な実を順番に味わう間に、背中から腰にかけてを柔らかに愛撫していた手が、はっきりとした意図を持ってレースのショーツに触れる。腰骨の辺りから指を差込み、豊かな腰のラインを撫でながらヒップへと手を這わせる。手の甲に引っかかっていた下着を太ももの半ばまで滑らせてから、ランドルフはぴくぴくと痙攣を繰り返すみぞおちに強く唇を押し当てた。
「マディ」
「ん……」
 掠れた呼び声に何を求められているのかを理解して、彼女はランドルフの肩へと両手を突くとぎこちない動きで自分自身の身体にまとわり付いていた最後の小さな布切れを脱ぎさった。腰を上げたせいで男の吐く熱い息がなだらかな腹部を擽り、さざなみめいたセンセーションを全身へと送り込む。大きな手が汗でしっとりと濡れた肌を確かめるように、腰から太ももまでの道程を行きつ戻りつ繰り返し辿る。その間も意地の悪い唇はたわわな乳房や敏感な先端を不意打ちに啄ばみ、甘える瞳に誘われて顔を下ろせば激しい口付けを与えられる。
 重ねられる愛撫により際限なく送り込まれる快楽は、うかつな動き一つで夫の腕の中に崩れ落ちてしまうのではないかと思ってしまうほどにマデリーンの身体を芯から溶かしていく。全身をじりじりと内部から灼く熱をどうすれば発散できるのかもわからず、まるで操り人形のように、ただただ愛する人の手が導くままに淫蕩な舞を舞う。その舞はランドルフの指が柔らかな内股から足の付け根の間を滑るたびに激しさを増し、また別の場所を愛撫されると緩やかなリズムを取り戻す。
 それは十分すぎるほど熱に浮かされた身にはあまりに辛く、とうとう彼女は意地悪なパートナーへと懇願の言葉を口にした。
「あ、なた……お願いだから、ちゃんと、触れ……て」
「ちゃんと? こう?」
 確認の言葉を口にしながら、彼は濡れそぼったクレバスに指を這わせる。とたんにマデリーンの身体を愉悦が電流のように走り、悲鳴のような喘ぎが彼女の咽喉から迸った。
 長い指で滔々と蜜を溢れさせる泉を掻き混ぜれば、情熱のダンスは激しさを増し、官能に満ちた声の奏でる調べが男の理性をぐずぐずに崩していく。
 下着の中では欲望が痛いほどに張り詰めて、解放の時をこいねがうように先走りがしとどに布を湿らせている。吸い付くような素肌からほんの束の間も手を離したくないのが本音だが、それではいつまで経っても完全には満たされない。口の中で低く悪態をつきながらほんの少し腰を上げて邪魔なだけの着衣をずらすと、ランドルフは狂おしく懇願した。
「ああ、マディ、マデリーン……もうこれ以上は無理だ。どうか俺を、君の中に入らせてくれ――!」
「ドルフ、ええ、来てちょうだい。私ももう、これ以上は耐えられない……お願いよ、早くあなたで私を満たして」
 うっとりと耳元で囁かれた瞬間、理性の糸が完全に焼き切れた。獰猛な唸りを上げ、何の予備動作もなく男は妻の腰を引き寄せると、その身体に自らの情熱を突き立てた。
 一際高い声を上げ、マデリーンが全身を弓なりに反らせる。はっきりとした痛みを感じるほどの強さで肩を掴む指がなければ、ランドルフ自身もあっけなく達してしまっていただろう。だが、辛うじて堪えきった彼は、腕の中の身体から緊張が解けるのを待って、リズミカルに腰を打ちつけはじめた。
「やっ、だめ、ドルフ、だめよこんな……あ、あぁ、ふぅっ……あああっ!」
 歓喜の渦から現実の淵に戻る暇もなく再び悦楽の泉へと突き落とされ、マデリーンは抗議の声を上げる。けれどそこに拒絶の色はなく、それどころか自らより深みへと沈まんと無意識に彼のリズムに合わせるように腰を動かしている。
 熱に浮かされて煙る視線を交わしあい、どちらからともなく誘うように舌先を伸ばして唇の触れない距離で言葉を介さず愛を伝えようとするものの、すぐに唇が恋しくなって口付けへと変化する。二つの身体をより近づけたいと強く肌を押し付け合い、繋がりあっている部分をより深めようと切ない身じろぎを繰り返す。
 今にも果てに到達しそうで、だけどまだこのままでいたい。そんな想いがぴたりと重なり合って、時にどうしようもない衝動に突き動かされそうになりながらも、二人は静かに呼吸を繰り返す。
「本当に、信じられないよ……君とこうしているだけで、俺はまるで完璧な存在になったように感じられる。ハニー、君は俺にとって真実、最高の女性なんだ」
『ああ、やっぱり君が一番だ……!』
 一瞬、嬉しそうに瞳を輝かせたマデリーンの脳裏に閃いたのは、いつか彼が愛を交わしている最中に口にした言葉だった。
 あれは……あの時は誰か特定の女性と比べての感想のように思っていた。だけど本当は、そんな邪推など遥かに凌駕する想いが籠められていたのだろうか。夫を誤解していた彼女は、彼の純然たる賞賛を捻じ曲げて聞いてしまっていたのだろうか。そして……身勝手にも傷つけられたと思いこんでいたのだろうか。
 本当のところなど、きっと今訊いたとしてもわからないだろう。身体を交えている時に口にする言葉は大抵が心に秘めきれなくなった感情の発露であり、意識して紡いでいるわけではない。それでも今のマデリーンには、きっとこれが真実だったのだろうと信じられるだけの強さがあった。
 疑心暗鬼に目も心も曇らされていた過去の自分を哀れむと同時に、夫への愛情が新たに胸へとこみ上げてくる。ただ、夫を信じていなかったという罪悪感が、彼女の笑みに陰りを落としていた。
「そんな事ないわ。そうしている誰かがいるとすれば、あなたの方だわ。私なんて……どこにでもいる、ただの女よ。そんな特別の存在じゃないわ」
 過剰が過ぎる褒め言葉をやんわりと否定しながら、マデリーンはゆっくりと首を振る。その動きさえも新たな刺激となり、二人は同時に息を詰めた。再び呼吸が落ち着くのを待って、ランドルフは淡い笑みを妻へと向けた。
「マディ……君は気づいていないのか? 君が俺に恍惚とした反応を示す姿を見るだけで、俺がどれほどまでに幸福を感じるのか、その蒼い瞳が俺を切望して見つめるたびに、恐ろしいまでの征服欲が満たされ……女神に仕える聖職者のような敬虔な感情に変化するのか……」
 ため息混じりに睦言を繰る夫に淡く微笑んで、マデリーンはゆっくりと頷く。
「わかる、わ。だって……私も同じ、なのだから」
「君も?」
 驚いたような声に笑みを深め、汗の滲む額にキスを一つ落としながら彼女は愛の言葉を返す。
「だって、あなたは私の全てなんだもの。私の世界が眩いものになるのか、暗いものになるのか、その全てはあなたが愛してくれているか、いないのかにかかっているの。そのあなたが、私がまるで至高の輝石であるかのように見つめ、愛でてくれるだけで、私がどれほどの幸福感に包まれるのか、あなたにわかって? 一人で勝手に殻の中に閉じこもっていた私にあなたが惜しみなく愛情を注いでいてくれたから、すれ違いの日々がどんなに苦しくても私は耐えていられた。あなたに愛された夜の記憶があったから、一人ぼっちの昼も哀しみに呑まれずにいられたの。……あなたは私が受けていた仕打ちに気づけなかった自分を責めているようだけれど、あなたはちゃんと私を救ってくれていたのよ」